摯《しんし》なる労作である。私に哲学上の教養があったとするならば、それは “someone said”の哲学に関してであった。しかしながら貨幣の種類をたくさんに示し得る人が必ずしも金持ではない。
 青春の日が爛熟して行って憂愁が重い翼を私の心の上に拡げた。捉え難い寂しさは盲《めし》いたる眼で闇の中を当《あ》て途《ど》もなく見廻わそうとし、去り難い悩しさは萎《な》えたる手でいたずらに虚空を掴《つか》もうとした。日の輝く広野の嬉戯よりも薄暗い小屋の孤独を欲するような頃がやって来た。私は多勢の人の手によって軽く頭を打たれるよりも唯一人の人の手によってしっかりと抱き締められることを求めた。私の活動性がいかに自己を忘れて外なるもの新しきものに向わせようとしても、私は私の裏に感ずる悩しい自我に対して全く無頓著であることができなかった。私は明るいものよりも暗いもの、知識的なものよりも意志的なものにいっそう多くの魅力を感ずるようになった。かようにして自我に執著してすべてのものに反抗する日は来った。明確なるもの、論理的なるもの、概念的なるものに興味を失って、非合理的なるもの意志的なるものに共鳴するようになった私が最初に得たのはショーペンハウエルの哲学であった。彼の書物から来る美しいけれど悩しい旋律《せんりつ》は私の心を奪い去るに十分適していた。生の無価値にして厭《いと》うべきことを説きながら、自らは疫病を恐れて町を飛び出したり、ホテルでは数人前の食をとったり、愛人と手を携えてイタリアを旅した彼の哲学は、インド思想と共通な涅槃《ねはん》を説きながら、その基調においては悩しき青春の爛熟期の哲学である。私は幾夜彼の書の上に涙したことであろう。しかしながら私の自我は押し通されることを要求し、私の活動性は奮闘的であることを迫り、私の意志は反抗的であることを欲していたから、否定的、静退的を説くショーペンハウエルの哲学とは私は別れて行かねばならない運命をもっていた。私はいつとはなしにニイチエに移って行った。文学の方ではその頃イブセンを好んで読んでいたように思う。私はツァラツストラを説きブランドを叫び、超人をいい第三帝国を語った。いまから考えてみれば、私はその時分それらの事柄の正当な意味を捉えていなかったのであるが、私の全体の気持としっくり合うように思われたために、私はそれをかってに解釈して振り廻していたのだった。
 当然来るべきはずの第三の時期はきわめて徐々としてではあるが確実にやって来た。けれどそれは、第二の段階に直接に連続しはしないで三ヵ年間に亘った永い切断の後にやって来た。高等学校へはいったとき、私はいよいよこれから正式に哲学の学徒として旅立つのだという嬉しさから、これまで親しんで来たものに強《し》いて絶縁しようとした。ニイチエやショーペンハウエルやは退けられて心理学や論理学の書物が傍に積まれた。文学や芸術の本は哲学史や哲学概論の書物によって置換えられた。その時分私の興味の中心従って読書の中心を占めていたのは心理学であって、あるときなどはまじめに心理学者になろうかなどと考えたことさえあった。心理学に対する私の興味はそれから後いまに至るまで続いて来ているのであって、高等学校を卒業する間際まで私が心理学を専攻するものだと思っていた人さえあったくらいである。
 けれども曲げられたものはいつかは反撥して来るであろう。無理に絶縁されていた文学に対する私の愛は機会を得て猛然として甦《よみがえ》って来た。そしてその機会を作ったものは実に哲学における私自身の能力についての懐疑であった。私は疑った、「おまえの能力ははたして哲学に匹敵し得るか。おまえの粗雑な頭脳は? おまえの綿密でない思索力は? それよりもおまえの中に燃えていておまえが押え切れない情熱は?」実際私の情熱は私が冷静を装おうとすればするほど裏切る力を増してゆくように感ぜられて、私を限りなく苦しいものにした。そしてその頃私は哲学者の最大の条件は冷静ということにあると考えていたようであった。哲学者となろうとする私が自分の中に燃え上る情熱を偽《いつわ》ることができない強さをもって感じたときの寂しさは、ちょうど若い尼僧がこれまで完全に征服してしまったと思っていた情熱を日も夜も感ぜずにはいられなくなったときの寂しさに似ていたであろう。そして私は論理的思索力についても全く自信を失っていた。
 かようにして哲学の方面において自己の力を少しも信頼することができないようになった私は、再び文学の方へ懐しげに帰ってゆこうとした。私は文芸批評家になろうかとも、あるいは創作家になろうかとまでも思った。しかし哲学に対する顧慮は、私の文学に対する愛をふしぎに臆病にさせた。哲学書から離れて臆病になっていた私は、文学書に触れたりペンをとったり
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