だけの力をもって私の中に宿っておるように思われる。アリストテレスはいった、驚きから哲学は始ると。またデカルトは考えた、哲学の首途は懐疑であると。しかしながら私自身に関していえば、私は前にいったように決して懐疑的傾向に富んだ男ではなかったし、また人々が自明のこととして学問上許容している事柄に不審を懐くほど鋭い思索力ももっていなかった。私を哲学へ導いたものは、実に、永遠なるものに対する憧憬、プラトンがエロスとよんだところのものである。私の魂は永遠なるものの故郷に対するノスタルジヤに悩んでいる。私はたぶん私の思索生活の全体を通じて理想主義者としてとどまるであろう。私は樹から落ちる林檎《りんご》を見て驚異を感ずる心よりも、空に輝く星を眺めて畏敬の情を催す心をもって生れた。幸福なことには、私は美しき芸術を感じ、正しき真理に驚き、よき行為を畏れる心を恵まれていた。私の哲学はこの心から出発するであろう。そしてこの心が私をして子供のような無邪気さをもって闇の空にではなく大きな青空に夢み出させた。また私の純粋さはこの夢において保たれて来た。人々はよく私を現実を知らない夢みる人であるといった。私を包む青い憂愁の中にあって唯一つほのかに微笑《ほほえ》む白い花も実にこの心から生れたものであった。私は美しき芸術を味わいよき書物に接したときほど生甲斐を感じたことがない。私の夢と幼き心とに永き命あれ!
 しかしながら、私はそれにもかかわらずいま一度考え直してみる必要があると思う。文化への憧憬と確信とははたして正しき懐疑を排斥するであろうか。それは女々《めめ》しき病弱な拗《す》ねた心から出る不具者《かたわもの》の懐疑を駆逐するであろうが、雄々しき剛健な直き心の悩む健全な懐疑とは親しげに握手するのではなかろうか。闇と光とが相容れないように善き心は決して悪き心に道を譲ろうとはしない。直き心とは妥協を知らざる心の謂《いい》である。しかして私たちが生きている現実の世界は、それが正直に考察されるとき誰でもが醜悪や不合理を見出さずにはいられないような世界である。理想を憧がれ求むる心には必ず懐疑が起らねばならないようなのが現実に私たちが経験する世界である。自己の良心に忠実であろうとするすべての人々は、必ず悩まねばならぬ世界に私たちは生存している。それゆえに私の中に生れた理想を憧がれ求むる心が安逸を欲しているとするならば、それはまだ本物でないか、まだ生れたばかりで力が足りないかのいずれかでなければならない。もし前者であるとするならば私は私の中に感ずるよきアーヌング(予感)に従って本物を見出すことに努力しなければならないし、もし後者であるとするならば、私はそれを培い育ててゆくことに骨折らねばならない。いずれにせよ懐疑や否定があり得ないほど現実の世界はよき状態に達していないのは事実である。そしてへりくだる心とは弱き心でなくして必然に強き心である。私はあまりに安逸を求め過ぎている。その門は大きく、その路は広く、これより入る者多きもこれを選ぶ人は悉く滅びに至るであろう。才能もあり智恵や徳もあった多くの人たちでさえ、もっと険しい道を通って来たのに、それらをもっていない私が安全な道に由って完全に至ろうということほど考え難いことがまたとあるであろうか。私は決して苦しみを恐れてはならない。

     五

 私と哲学との関係は上に述べたことと関連してやはり三段階を経て発展した。よくあるように私も最初は哲学というものは非常に高遠で奇抜なもののように考え、そしてそのような深邃なもの新しいものを知ろうという好奇心と、そのような人が困難とするところのものを自分は理解し得ることを示そうとする虚栄心と、もっと根本的には貪《むさぼ》ってあくことを知らない知識慾とから哲学に向った。およそ哲学と名のつくものは唯その名のためにたいへん偉いもののように思われた時代が私にも最初にやって来た。その頃私はなるべくたくさんの哲学者の名を暗記しようとしたり、またそれらの哲学者の書いた書物の題をできるだけ多く記憶しようとした。私は単に哲学者の名やその書物の題を知りもしくはその書物を買込み、高々それらについての簡単な紹介かあるいはその書物から断片的な章句を知れば、もうそれだけで自分もひとかどの哲学者になったつもりで思いあがっていたらしい。私はそれの正当な解釈も知らず、またそれが全体の哲学体系の中でいかなる位置と意味とを占むべき句であるかも知らないで、いたずらに先行思想家の言句を喋り廻った。スペンサー曰《いわ》く、ミル曰く、ショーペンハウエル曰く、カント曰く、などということがたくさんにできれば私は得意であったし、またそんな断片的な知識で人を驚かすに十分であると信じていた。けれど真の哲学は他人相手の仕事ではなくして自己の魂の真
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