う心であり物をそれに従って正直に理解することではないから、反抗が行われるところに正しき懐疑は存在しないのは明らかである。真の疑いはいつでも自己に反って求めるところから、事物をありのままに認識するところから始るのである。
 二、三の友だちは私にこういった、「君は不幸に逢わなければよくなれない。君は大きな打撃にぶっつかる必要がある。」私はいまそれらの言葉をもう一度はっきりと思い起して、その意味を自分で適当に解釈しながらしみじみと味ってみる必要がある。それは何より先に謙遜なる心の回復を意味するのでなければならない。しかるに謙虚なる心は小さい自我を通す喜びによってよりもそれを粉砕する悲しみによって得られるのである。険しい道に由《よ》り狭い門をくぐって私たちは天国に入るのである。この世の智恵を滅ぼすとき神の智恵は生れる。まことに天国は心の貧しき人のものである。私はいまさらに新なる感興をもってゲーテの有名なる詩の一句を誦せざるを得ない。
[#ここから引用文、2字下げ、本文とは1行アキ]
Wer nie sein Brot mit Tranen ass,[#「Tranen」の「a」はウムラウト(¨)付き]
Wer nie die kummervollen Nachte[#「Nachte」の「a」はウムラウト(¨)付き]
Auf seinem Bette weinend sass,
Der kennt euch nicht,ihr himmlischen Machte![#「Machte」の「a」はウムラウト(¨)付き]

(涙ながらにパンを味わったことのない者、
 悩みにみちた夜な夜なを
 ベッドに坐って泣きあかしたことのない者は、
 おんみらを知らない、おんみら天の力よ!)
[#ここからポイントを小さくして地付き]
(ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』第二巻一三章で、老人の
 竪琴弾きが口ずさむ歌。高橋義孝・近藤圭一訳『ゲーテ全集』 第五巻)
[#ここで引用文終わり]
 かようにして私はここでもまた何が正しくしかして何が誤っているかをはっきりと見定めることができる。押しが強いということもしくは自己を主張することもしくは反抗するということがそれ自身誤っているのではない。誤っているのはいかなる点において押しが強いか、いかなる自己を主張するか、またいかなる事物に反抗するかに関係しているのである。私は基督《キリスト》の大いなる言葉について思い廻らそう、「われ地に平和を投ぜんために来れりと思うな、平和にあらず、反って剣を投ぜんために来れり。それ我が来れるは人をその父より、娘をその母より、嫁をその姑※[#「※」は「おんな+章」、第4水準2−5−75、26−2]《しゅうとめ》より分たんためなり。」悪に対して剛き心はやがて善に対してやさしき心である。私は他人に対して反抗するまえに自分自身に対して反抗しなければならない。自己を否定し破壊し尽してのちにおいて初めて、他人に対して何を始むべきかを知るであろう。私は剛情な子供が我儘《わがまま》を押し通そうとしたとき、賢しい母親に妨げられそれがよくないことであることを諭されて自分で会得したとき、一時に母親の膝に泣き挫《くず》れる、その子供の無邪気なそして素直な心をもって大地に涙しながら私の高ぶり反く心を挫《くず》さなければならない。そのとき私の片意地はあたかも地平線に群る入道雲が夕立雨に崩れてゆくように崩れてゆくであろう。
 私の活動性と反抗性とが私を懐疑から遠ざけている間に、さらに第三のものが私の心に生れて懐疑を退けようとした。そのものは私が幾分かでもまじめになって哲学を研究するようになってから生れたものであって、現に私の心の中で成長しつつあるものである。永遠なるものの存在、それによっての現実の改造の確信、私はそれを一般にこうした形式で現わすことができるかも知れない。価値意識の存在、それの経験意識の支配の信頼、それはこうした形に書き換えることもできるであろう。自由とは良心が自然的なる思惟活動、感情活動および意志活動を規定し制御してゆくところに存するものであるとするならば、それは自由の可能の確信という言葉によっても現わされ得るであろう。
 文化的価値が自然的価値の中に次第に頭角を現わして行く過程を歴史と名づけるならば、一般に歴史的過程の存在の確信、しかしてそれの最後の完成への絶対の信仰こそ私の懐疑を退けた第三のものである。あるいはもっと通俗的な言葉を用いるならば、良心と理想との存在とそれの現実の規定力との確信が私がいわんとする当のものである。一度この確信が私の心に生れて以来、私は未来へのよき希望を失うことができなかった。たとい論理や経験やがいかほど反対しようとも、私のこの一度生れた信仰は決して破壊されない
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