(何を泣く?)
 と、思った。斉彬が、動かぬ頭を、久光の方へ向けて
「お前に、それが、合点行かぬか――」
 と、低く云って、久光を、眼の隅から見ようとした。久光は、少し、頭を上げて、だが、両手をついたまま、首垂れていた。
「わしは、自分を、子供を、天下のために、家のために、犠牲にしてきた。それは――ただ、島津が一致して、天下のために、快く、働けるようになってくれたならよいという、ただそれだけの望みからであった。今――哲丸が立てば、わしの亡き後、必ず、哲丸を守る者と、それに反対する者とが、相争うであろう。それをさせたくない。それが起れば、島津は、有為の士を悉く失い、天下は、何うなるか、判らぬようになる――」
 久光は、頭を上げて、夜具の端を、掴んだ。そうして
「兄上」
 と、曇った声で叫んだ。
「お心は、そ、そのお心、久光――よく、お察し申しております」
 斉彬は、頷いた。微かに、その眼に涙が浮んでいた。
「判ってくれるか」
「わ、判っております、お察し申します」
 斉彬は、顫える手を、夜具の中で延して、久光の手を握った。久光は、熱のある人の手を掴むと、涙で、顔が上げられなくなってきた。
「哲丸は――」
 と、斉彬が、呟くと共に、久光は、脣を噛んで、俯向いた。
「哲丸を――頼む」
「は、はい」
「将曹達はおるか」
「はっ」
「何事も、島津のため、天下のためとおもえ。軽輩を慈しめ。忠義をよく守立て、久光をよく輔佐せい」
 将曹は、膝の上へ、涙を落していた。斉彬の最後の時として、人間の最後の時として、当然、一言でも、陰謀に対する憤りが、怨みが、せめて、皮肉な言葉であろうと――己の陰謀の成就を喜びながらも、人の死に面して、異常な仁慈の心の主君の死に対して、平静な、厳粛な心に立返っていた将曹は、そうした一つの、皮肉さえなしに、自分に対して、後事を頼み、感謝の言葉を述べた斉彬に、腹の底からの畏敬と、後悔とを感じていた。
「わしの臨終に、間に合うように、あの若者共を、庭先へ、呼んでやってくれい」
「はっ。よ、喜びましょう」
 と、石見が、低く叫んで、勢いよく立って行った。歩きながら、眼を拭いていた。誰も、斉彬が、最後の一人の子供をまで、家のために、父のために犠牲にする心に、打ちくだかれてしまっていた。袖を当てたり、鼻をすすったり、しゃくり上げたり――そうして
(このまま、お逝くなりになるのかもしれない)
 と、感じ、もし、このまま、逝くなれば、島津は、何うなるだろう? 軽輩と、重臣との衝突など――と、死んだ後の、混乱を考えると、何か、危急が迫って来ているように感じられた。

「お気の弱い――熱は、少しござりますが、これしきの病に――」
 それは、将曹の、真心からの言葉であった。斉彬は、溜息をついて
「わしが、今死んだからとて、十年生き延びたからとて、今の天下の形勢は、何うなるものでもない。この、同じ形勢の下に、ただますます、強くなる尊王、倒幕の大勢の下に、何う処置するかは、久光、今更、申すまでもあるまい。わしが、生きておれるなら、生きておってもよい。然し、死んだとて、わしの志は、無になるまい。久光初め、重役、有為なる若者が、必ず継いでくれよう。わしは、それを信じている。わしが亡くなれば、内訌のようなことが、無くなるだけ、或いは、よいかも知れぬ。家中が一致するだけよいかも知れぬし、奮起する人間が、多くなるだけよいかも知れぬ。わしは、何も、今までに、出来なかったが、ただ、天下の赴くところにだけは、従って来た。或いは、それの一歩先へ立ってきた。このことは、久光もよく理解しておるであろうし、家中にも同意者があろうし、広い天下には、何処に、又味方が在ろうかも知れぬ。わしは、それだけを、信じることができる。そして、それさえ信じたなら、わしは、少しも、わしの死を惜しいとは思わぬ。わしに反対し、わしを邪魔にする者も多い。わしが死んだなら、喜ぶ人も多かろうが、わしの志だけは、わしが死んでも、消えるものではない。やがて、天下の大勢となり、島津は、天下に号令して、日本の基礎を立てるようになるであろう。わしの死は、わしの身体を失わしはするが、わしの心を、決して、奪いはしない。それを思うて、安らかに、逝ける。久光、わしのために、祝うてもよいのじゃ、何を泣く? 何が、悲しい?」
 斉彬は、死の苦痛と闘いながら、呼吸の困難と、頭を鈍らす高熱とに、闘いながら、いつもの如く、静かに云った。石見が、戻って来て
「一同、召出すよう、申し付けましてござります」
 と、云った。
「久光、重臣と共に、軽輩を、可愛がってやれよ」
「はっ」
 久光は、感激に、全身を燃えさせていた。ただ一言ではあったが、それは、久光の意志が、答えたのではなく、全身の感激が、それを発射したのであった。斉彬の平生の言葉が、もう一度、その最後の言葉によって、久光の全身へ充満した。
「誓って、仕遂げ申します」
「協力して――」
「いつかの連名は、しかと、所持致しております」
「奥と、哲丸へ、よろしく、伝えてくれい」
 石見が
「お二人様に、何か、お伝え申しますことがござりましょうなら――」
「何もない――哲丸が、無事に成長するようと――」
 斉彬が、只一人残っている己の子の成長を――父に先立って逝ったその子を――その死も知らずに、その幻を胸にしながら逝くかとおもうと、久光は、又、涙が溢れてきた。
(云おうか――偽るまい――打明けようか)
 と、頭を上げてみたが、斉彬に、残された、それがただ一つの、恩愛の対象だと思うと、総てのものを失ってしまった斉彬に、よし、偽りにせよ、哲丸一人だけは残しておきたかった。
「哲丸は、必ず――久光、誓って、お育て申します」
 と、云い終ると、又、涙の中へ、埋れてしまった。

 牧仲太郎の肉体は、もう、死んでしまっていた。骨は、もう、その身体を支えきれなくなって、地上へ曲ってしまっていたし、肉は干れきって、残滓《かす》のように、皮膚の色は変色して、紫灰色に――牧は、干した蛙のように、草の中にうずくまっていた。
 もう、声も出なかった。心臓だけが、消えて行く灯が、明るく最後に光るように、鼓動しているだけであった。だが、それでも、牧の精神力は、十方の空間を貫き、大地の底に徹するくらいに強かった。その頭と、その眼だけは、自分の肉体の瀕死を、少しも感じないくらいに、斉彬を呪咀する一点に、集中されていた。
 まざまざとして、映じてくる網膜の上の斉彬は――ある時には、空間に引立てられて、全身が歪み、ある時には、地下へ翻々として落下しながら、恐怖の眼を見開き――それは、天魔、地神に虐げられている、牧の呪いの力によって、斉彬の体に感応した結果を現す形であった。
(成就した)
 と、頭の隅で呟いた。牧は、斉彬が、真逆様に、闇黒の底に燃え上っている火焔の中へ落下して行く形を見、それを追うて、同じように、墜落して行く自分の姿をも見た。
(成就した)
 動かない手を――しびれてしまった、力の尽きた、干れ細って汚い手を、じりじりと、立てて、最後の合掌を、しようとして、身体を立てかけた。そして、肩で呼吸をして、眼を閉じた。
「牧」
 と、呼ぶ声がした。近くか、遠いのか、外から聞えたのか、頭の中で、そういう声が、したのか、判らなかった。
(誰であろうと、何ういうことであろうと、自分の此世における仕事は果てた。果した。斉彬――兵道の敵斉彬は、滅んでしまったのだ。斉彬も、その子も――兵道を呪咀した血は、これで、悉く絶えてしまったのだ――知ったであろう、兵道の威力を――)
 牧は、笑えぬまでに、固くひからびた頬に微笑した。
「立て、牧、仙波八郎太の倅じゃ――立て、牧」
(仙波?――八郎太?)
 牧の頭は、急速度に、疲弊してきた。肉体の衰亡が、一時に拡がってきた。仙波、と聞いても、記憶が、すぐ、口には、出て来なかった。
 何かが、首を、身体を、ぐいぐい引上げるようであった。牧は、土のついた、濁り、淀んだ、黒灰色の顔を上げた。そして、残りの力を瞳に集め、手に集めて、手を膝へ置き、上の方を見た。
「仙波小太郎じゃ。立上れるか?」
 牧は、いつの間にか、だんだん光を失って、空虚になってきた眼で、じっと、小太郎を凝視していたが
「おお」
 それは、ほんの脣の端から出た、微かな響きであった。微かに脣の動いた微笑であった。
「討つがよい」
 と、いいたかったが、討つ、ということが、何ういうことか、討たれるとは何か――自分も、小太郎も、頭の中で、もう判断が、つかなくなってしまった。
 身体が、地の下へ、急に落ちて行くようにも、感じるし、空中に、浮き上って行くようにも思えるし、赤い強い光が、眼の前いっぱいになったかと思うと、すぐ、暗黒になるし、物音は、何も聞えないし――何かが、身体に触れるようにも感じたが――その次の瞬間には、総ての感覚を、なくしてしまっていた。

 小太郎は、血のついた刀を、提げたまま、じっと、牧の身体を、見つめていた。
(これが、牧仲太郎か――わしの一家を苦しめた、牧の最期か?)
 斑点が――紫色の斑点が、どす黒い肌の上へ現れて、肉が落ち、髪は枯草のように――何んの抵抗力もなく――それは、老いた乞食が、野垂死をするように――その光った眼は物乞いの憐愍《れんびん》さのような微笑さえして――その死体は、白痴のように、口を開いて――
(これが、父を殺し、一家を離散させた奴の最期か)
 小太郎は、牧の首を斬り、止めを刺し、蹴倒し、踏み躙って――と、思っていたが、ここに倒れている牧仲太郎は、漂泊の末に死んで行く、老人の残骸と同じ形であった。
(この男を斬るために、二年近く、様々の苦労をして――)
 と、思うと、仇敵とも、敵とも、感じようのない、みじめな牧の骸《むくろ》の前に立って、何んのために――何うして、ああまで一家が、苦労したのか、判らなくなってしまった。
(これが、わしの、一生の目当としていた仇討か――これが――)
 小太郎は、夕陽の当っている牧の骸を、じっと見たが、そこには、大きい空虚があるだけで、何んの憎さも、何んの怨みも、感じることができなかった。
(せめて、一太刀でも、合せたなら――)
 小太郎は、父が、物足りなく感じているであろうと思い、母が、何故もっと早く斬らなかったと、怨んでいるように思ったが
(そうだ、叡山でのあの時に――牧は、わしを救ってくれた――それは、父も知っていよう――牧は、悪人ではない、兵道家として、道を踏外しただけだ――悪人でない。決してない。わしが牧なら、矢張りこうなったかもしれぬ)
 小太郎は、刀を、草の上に置いて、牧の顔の前に膝をついた。そして、合掌して、称名《しょうみょう》した。
 夕陽が、大阪の先へ落ちようとして、海も、空も、真赤に――だが、山の上の雲の下だけは、牧の顔のように、どす黒い色をして、ひろがっていた。
 小太郎は、脇差を抜いて、牧の頸の下へ差込んだ。そして、膝で、肩口を押え、左手で、髻を掴んで、ぐっと、引上げた。草へ、音を立ててかかるべき血が、切口から力なく流れただけであった。だが、切り放たれた重い頭は、小太郎の手から、落ちようとした。
(わしの仕事は、これで済んだ。然し、これが、わしの仕事であったのかしら?――こういう仕事が――)
 益満の言葉が、頭の中いっぱいになって来た。小太郎は、牧の片袖を切裂いて、首を包んだ。自分の刀を、脇差を拭って、収めた。そして、立上ると、山内の倒れているところへ行って、その袴を脱せた。それを、持って戻って来て、牧の首の切口へ被せ、手を、足を、包んで、もう一度、合掌した。
 何かしら、自分の身体の中いっぱいになっていたものが、訳もなく、張合もなく、すっと、抜け出てしまったように感じた。頭の中も、身体の中も、空虚になってしまった。
 小太郎は、首を、脇にかかえて、立上った。下の方に、警固の侍が、まだ刀を持ったまま、呆然として立っていた。
「牧を、手厚く、葬ってやってもらいたい」
 小太郎は、こう叫ぶと、何故か――それは目的を果た
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