達《きんだち》を呪う輩を、守って、それで、薩摩隼人かっ」
と、怒鳴った。そして、返事によっては、斬ろうと、柄へ手をかけた。山内が
「待て、待て」
と、叫びつつ、近づいて来た。一人が
「無益だっ」
と、叫んだ。そして、一足引いた。一人が、山内の方へ、ちらっと向いた。その瞬間、小太郎の前に、きらっと、閃くものが、掠めて、小太郎は、一足退っていた。手に、刀があった。
山内へ振向いた一人が、その掠めた閃きに、本能的に、身を躱して、一足退ると、自分の横に、立っている一人が、頭から、赤黒い血を、顔一面に――何うして、そんなに、流れたかとおもうくらいに、血にそまりつつ、よろめき、よろつき、両手で、頭を押えて――眼だけを白く剥き出しつつ、だが、眼瞼に、血をためて、頭を先に、胸を先に、よろめいて、歩き出すと、二三歩で、顔を歪めて、草の上へ倒れるのを見た。唸り声も、叫び声もしなかった。
「小太郎」
その斬られた男の跡へ、山内が立っていた。一人は、小太郎の早業に、手が、脚が、指が――そして、頭の中も、固くなってしまった。
(敵わない)
と、いう感じが、全身に恐怖を与えてしまった。一瞬で、血塗れになった朋輩で、心も、身体も、冷えてしまった。小太郎は、黙って、刀を構え直した。そして、いくらか、高いところに立っている位置を、少しずつ、低いところへ移って、山内と同じ高さになった。
「受けられるか」
小太郎は、叡山の上、伝教大師の廟の石垣へ、自分を追いつめて、のしかかって来た時の山内の顔を思い出した。
「小僧」
「やあーっ」
声の形をした、そして、形の無い闘魂、闘気ともいうべきものが、爆発した。
「おーっ」
二人が、近づき、二つの刀が近づき、もう一度、二人の声が、ぶっつかると同時に、山内の身体が傾いた。そして、傾いたのを直そうと、たたらを踏んだ。刀を杖にしてよろめいた。小太郎は、八相に構えたまま、じっと、それを、眺めていた。山内は、刀へぐったりよりかかったかと思うと、もんどり打って、下の凹地へ、転がってしまった。
久光は、斉彬の、病に臥している建物の廊下へ、足をかけると同時に、肚の底から、全体の中へ、爆発するような憤りを、感じた。
廊下には、足音の立たぬよう、蒲団が敷かれていた。それは、足で踏み、眼で見るとすぐ、斉彬の容体が、ただごとではない、ということを語っているものであった。
久光は、母お由羅、将曹、平などの企みを、信じてはいないし、牧仲太郎の呪咀などを、考えの中へ入れても居なかったが、今朝、機嫌のよかった斉彬が、その夕、危くなったということに対し――それが、瞭乎《はっきり》とした病ならば、とにかく、三人の医者にも、不明な、熱病であるだけに
(もしか、呪いが――)
と、ちらっと、そうした影が、頭の中へさすと同時に
(そんな、迷いごとを――)
と、打消しながらも、兄の心事を余りにも知らぬ母に対し、家老に対し、制しきれない憤りを感じてきた。
呪咀を否定していながら、何かしら、母達の企みでこうなったように感じた。何者かが、見えぬ力で、斉彬を呪っているように思われた。
当然、斉彬の代になれば、御役御免になるべき人々が、そのまま留任していることに対し、久光は、今まで斉彬のその寛大さに打たれて
(将曹め、兄上の御恩を、よく覚えていよ)
と、感じていただけであったが、その将曹らが、江戸からここまで従って来て、そして、斉彬の病になったのを見ると、彼等の不注意で、斉彬を病にしたように感じた。そして、廊下に敷きつめた蒲団を見ると共に
(何故、あの時に辞任しないか)
と、感じた。そして、自分に対しても
(何故、あの時、あの奴等を、辞任させるよう、兄へ諫めなかったか?――それだから、こんな事になったのだ)
と、いう風に思えた。取り返しのつかぬことが、自分達の不注意のために起り、斉彬の、神の如き人を、病にし――
(死にかかって――)
と、思うと、呼吸が喘ぐように、つまるようになってきた。小走りに近いくらいの足並で、廊下の中程まで行くと
「久光様」
と、低い声が、後方からした。久光は、その声が、耳へ入ったが、自分が呼ばれていると、感じないくらいに憤りと、不安とで、頭をいっぱいにしていた。
「久光様――御前――」
久光は、振向いて怒鳴ろうとした。老臣の一人が、泳ぐように、急いで――だが、足音を憚りながら
「亡くなりなされました――」
と、呼吸が、つまったような声で云った。久光は
(この血迷い者、亡くなったとは――不吉な――馬鹿者っ。老臣の身で――)
と、やり場のない憤りを、そして、それを口にも出せない苦しさを、眼の色に出して、睨みつけると
「哲丸様が――哲丸様が、お亡くなりに――」
久光は、心が、踏みくだかれたように、感じた。立止まると
「ほ、本当か」
「唯今、江戸表から――」
と、云って、老臣は、咳を立てまいと、廊下へ伏して、袖の中へ、顔を包んだ。久光は、身体を、その肩へ曲げて、耳許へ
「他言致すな。秘めての」
と、いうと、蒼白な顔をして、立上った。
案内の坊主が、同じように、歩き出した。
「他言すな。すると捨ておかんぞ」
と、久光は、小声で、口早に、坊主に云った。
次の間へ入ると、薄暗い中に、将曹と、平とが、坊主だの、近習だのと一緒に、詰めていた。久光の影に振向いて、頭を下げ、眼を上げたそれらへ、久光は、蹴倒し、踏みにじりたいような、怒りとも、憎しみとも、判らぬものを感じながら、その眼を睨みつけて、病間へ入ろうとした。将曹が、周章てて立って来るのへ、烈しく手を振って、制した。そして、病間へ入ると――其処に立っている屏風、煎薬の臭、恐ろしいような沈黙――それから、夜具の端、そんなものが、悉く、久光の心に、身体に、冷たいものを、押しつけた。
一足進めると、医師の顔が――それは、久光でさえ、病の障りになる、とでも云ったような烈しい眼をして――だが、お叩頭をした。二足目には、もう一人の医師の顔が――その顔は、自分が死病に罹ったように、沈鬱で、久光が、そうさせたかのように、恨めしそうな表情をして、挨拶した。久光は、その二人の医師の表情に
(兄は危いらしい)
と、感じた。
(もし、危いと、きまっていたなら――)
久光は、もう一足進んで、兄の顔を見るのが、自分の死よりも辛いように、心臓をしめつけられた。だが、その次の瞬間
(よかった)
と、感じた。三足目に久光の眼に入った斉彬は、眠っているらしく、いつもの、穏かな顔――少しの窶《やつ》れもなく、苦しみもなく眼を閉じていた。だが、三人の医者の顔が、身動きもせずに、見守っているのを見ると、その平和な顔が、却って、薄気味悪く感じられた。
(もし、このまま逝ってしまったなら、何うなるのだ)
久光は、喘いでくる心臓を、呼吸を、押えて、斉彬の枕頭へ坐った。そして、四人とも、暫く黙っていた。
「重いのか」
低く、囁いた。
「はい」
「病名は?」
「それが――申訳ござりませぬが、判りかねております」
久光は、お由羅の行っているという、呪殺の効験を信じなかったが、三人の、和洋医術に秀でた医者が、判らないというのを聞くと、ふっと
(牧の呪い)
と、感じたり
(兄のような人物は、病まで、常人でない病に罹る)
と、感じたり――だが、判らない、と聞くと、諦めきれぬような気がして、三人へ、腹が立ってきた。そして
「修業の足りないせいだ」
と、云いたかったが、そうもいえないで
「判らぬ?――」
と、低く、咎めた。
「お譫言《うわごと》が、時々、おうなされ遊ばすことが、時々――」
「うなされる?」
「はい」
久光は、斉彬程の人物が、うなされるとは信じられなかった。
(哲丸が、死んだというが――あの、死んだ子供達と同じ病ではないのか? 最後の子供を殺して、それから、斉彬公の――)
ふと、そう感じたが、斉彬の理化学に影響されている久光にとって、それは、愚かな閃きであると、すぐ打消されるべきことであった。医者が、手と、身体を動かして、斉彬の方へ顔を差出した。斉彬の眼が、瞼毛《まつげ》が、微かに動いたらしかった。久光は、心の中で
(兄上)
と、叫んだ。
(久光が参っております)
久光は、息をつめて、斉彬の顔へ、見入った。
斉彬は、眼を上げたが、物を云わなかった。久光は、その眼の光の鈍さに、心臓を冷たい手で掴まれた。
「如何でござります」
斉彬は、それに答えないで、もう一度、眼を閉じた。久光は
(苦しいのだろう?)
と、自分の健康な体力を、兄へ透《とお》そうとでもするように、膝に、身体に、力を入れて
「さすりでも――」
と、まで云った時、斉彬は、顔を歪めて、肩で、大きい息をした。三人の医者が、全身の神経を、斉彬の顔へ集めて、のぞき込んでいた。斉彬は、二三度、大きく呼吸をしてから、眼を開いた。
「如何でござります」
「久光」
喘ぐような声であった。
「回復は――到底、難かしい」
その声の中には、斉彬の、死の覚悟が、瞭乎《はっきり》としていたし、死の影さえ、含まれているように感じられるものであった。
「いいえ、左様な――」
「一同を呼べ」
「はい」
久光は、そう云われて、すぐ立つことは、自分までが、斉彬の死を肯定しているようで、立てなかった。だが、常の人に、気安めをいうように、この兄に対して、ありふれた慰めの言葉も、かけられなかった。
ただ、絶望と、憤りとで、自分のこうして坐っている脚下の砂が、だんだん谷底へ、崩れ落ちて行くように感じた。何んにも、縋るべきものがなかった――ただ一つ縋っている、斉彬が死ぬことに対して、ただ、もがくより外にない自分に対して、怒りを感じた。
「呼べ」
「はい」
久光は、一人の医者に、眼配せをした。そして
「只今」
と、云った。医者が立って行くと、すぐ、将曹、豊後、平、側用人種子島六郎、島津石見が、入って来た。久光が
「一同、御前に」
と、云った。斉彬は、眼を閉じたまま、低い声で
「わしの亡き後は、久光――忠義(久光の子)に相続させい。お前が、後見――」
久光は、腹の中へ、熱い鉄を当てられたように感じた。
「いいえ、哲丸が――」
と、云いたかったが、死んだ哲丸を――今、死んだ、と聞いた哲丸を、偽って、相続にとは、云えなかったし、哲丸が死んだということも、この死に瀕《ひん》している斉彬に、云えることではなかったし――が、黙っている訳には行かぬと思うと、腹が、胸が、悲しさに固くなって、痛みをさえ感じてきた。石見が、久光の顔を、じっと見ていたが、そっと、袖を引いた。それは
(何んとか、返事を――)
と、いう合図であった。久光は、こうした最後の時にまでなって、猶、お由羅にいいよう、斉興にいいよう――己の子の哲丸がいるのに、それを犠牲にして忠義を立てよという斉彬の心に対して――斉彬に、謝するよりも――お由羅の陰謀を、悉く知っていて、猶、父のために、島津のために、平安なれと、祈っている斉彬の心へ、泣いて謝するよりも、こうした斉彬の心事を、何一つ察しないで、事ごとに斉彬を苦しめてきた父母に対し、将曹等に対し、押えきれぬ激怒が湧き上ってきた。そして、自分が、その斉興に愛せられ、お由羅に寵愛《ちょうあい》せられているかと思うと、この兄の前に――兄の死の前に、父母に代って、何う詫びていいか、何んと云っていいか――久光は、身体を固くして、俯向いていたが、肩を動かし、眼へ手をやると同時に、声を立てて、打伏してしまった。
「何を泣く」
斉彬が、呟いた。人々が、久光を、のぞき込んだ。久光は、洩れる声を、歯で、袖でつつみながら――それでも、溢れて来る悲しさと、憤りを、何うすることも出来ないで、むせていた。
「久光」
久光は、伏している袖の中から
「はい」
と、答えた。人々は、何故久光が、泣いたのか判らなかった。それから、斉彬の病気の重いことは、十分感じていたが
(今、死ぬなど――)
と――だから、久光の、嗚咽《おえつ》に対し反感さえ感じながら
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