力で出来たものではない。一人の力で、天下の重大事、国の大事が出来ると心得ておるようでは、これからの時勢に遅れるぞ。わしが無うても、わし以上にやる、という心が無うて、その若い者が、何うする。お由羅を討つの、将曹を討つのと、何故、志が、そんなに狭い。何うして、そう小さい? 何故、お前達一同が、わしにならぬ。わし以上にならぬ。わしに恐れ、わしを尊び、わし以上に出られん、と心得ているようなことで、何うするのじゃ。お前達、軽輩二十人で、天下の難に赴き、日本を双肩に――いいや、吉之助一人、一蔵一人、岩下一人で、天下を双肩に負うくらいの覚悟が無うて、何うする? わしは、お前達が、悉く、その決心で居るとおもうていたに、何事じゃ」
 吉之助も、一蔵も、俯向いたきりであった。斉彬に、いろいろ云おうとしていたことが、だんだん小さく、薄く、そして、消えてしまって、その代りに、斉彬の言葉が、頭の中の壁に、胸の中に、肚の底に、血管の中へまでも、毛髪の末へまでも、沁み込んできた。斉彬は、又、鋭く
「一同の者に申せ、心得がちがうぞ、とな。集まっている者が聞かずば、悉く、ここへ連れて参れ。参るのが厭なら、わしの申すことが判らぬなら、天下を背負って立つ底の志がないなら、わしの家来ではないから、切腹して死ね、とな。将曹、平と、刺違えるような馬鹿者は、斉彬、家来と思わんとな」
 と、云った。
「はっ」
 吉之助は、いつの間にか、膝の上へ、涙を落していた。

 遠くから望んだ生駒山は、広々とした草原の傾斜を、展開させていた。
(あれが、山相相似ているというのか?)
 小太郎は、半分逆上しながら、父と共に登って行った比叡山の、小篠《こざさ》の細径を、想い出した。
(似ていると云えば、叡山の頂上も、草原であった――然し――)
 小太郎は、警固の人を斬り、父の傷ついた、篠竹《しのだけ》の深いところは、瞭乎《はっきり》、想い出せたが、頂上の草原は――草原であったような、無かったような、広かったような、そうでなかったような、そして、自分のそこでしたことは、見残した夢の如く、茫乎《ぼんやり》として、水の影の如く薄れて――ああしたことを、この自分が、本当にしたのであろうかというように思えた。
(あの時も、警固の人数の計算を誤った。今度も、三人というが、果して、三人か?――三人だけとは考えられないが――)
 来る道で聞いても判らなかったし、登り口で聞いても、牧が、登ったか、何うかさえ判らなかった。
(夜に入れば、祭壇で焚く火が見えようが)
 と、思ったが、夜、闘うのは、不利であった。それから、一刻も早く討ちたかったし、何よりも、義観が、この山で必ず、牧が修法を行うにちがいないと云う言葉を信じていた。
 聖天と称されている仏を祭った山上へつづく道、茶店が、時々、曲り角に、そして、時々、参詣人が――。小太郎は
(この山でこそ――)
 と、信じていたが、牧が来ているか、未だ、来ていないか? それを、茶店の主人に
「四五人連れの侍が、登らなんだかのう、ここ二三日前から、こっち――」
 と、聞いた。
「さあ――御武家衆は、貴下、めったに――この山は、大阪辺の、町人衆のお詣りが、多うて、御武家は、なあ――」
 と、主人は、首を傾けた。
「上の寺は、旅の者を、泊めてくれるかの」
「はいはい、喜んで、お泊めなさいます。お心持次第で、結構なお寺でございます」
 小太郎は、自分達の一家の悲運を思い出すと、もう、これ以上に、努力する気になれなかった。努力をした結果――呪いの人形を取出し、牧を討ちに行って、そして、得たものは、悲惨な死だけであった。
(あせらずとも、討つべき機が来れば、討てる。わしは、既に、人事を尽した。この上は、天命を待つより外にない)
 小太郎は、革袋から小銭を出して、茶店を出た。そして
(義観の指図のままに動くこと、これが、天命を待つことであると共に、人事を尽すことだ)
 と、思った。そして、落ちついた心になって――だが、草鞋をしらべ、帯のゆるみを調べ、いつでも、闘える用意をして、登って行った。
 左へ入る細道が、一軒の茶店の方から、つづいていた。小太郎は
(この道を――)
 と、思った。だが、道は下向きになっているので
(谷間へであろう)
 と、行きすぎてみたが、何かしら、心にかかった。小太郎は、編笠を傾けて
「この道は、何処へ行くのかな」
 と、茶店へ聞いた。
「下の道でござんすか?――この上の、広いところへ――」
「頂上への?」
「お連れでございますか」
「連れ?」
「今朝、夜の引明けに、四人連れで、お登りになりましたが、お武家衆ばかり、珍らしゅう、何かござりますか?」
 小太郎は
(勝った)
 と、心の中で、絶叫した。

 小太郎は、微笑んだ。
(わしの運は、開けて行くのだ)
 と、感じた。明るい力が、髪の毛の先にまで、充ちてきた。だが、それと共に
(何故、この運が、もっと早く来なかったか? 父のいた時に――母の死ぬ前に――)
 小太郎は、そう思って、二人を悲しむと同時に、二人の霊へ、この明けて行く仙波の家の運を見せようと思った。
「悉ない」
 小太郎は、その茶店の前を去る時の脚に、軽さと、力とを感じた。
(三人以上の奴等が居るとしても、わしは、勝てるぞ)
 と、いう信念が、手の先へまで、充ちてきた。小太郎は、編笠をとって、鉢巻を当てた。その中には、鎖が入っていた。草鞋の紐を調べてみた。帯のゆるみの有無へ、手を当ててみた。目釘を、もう一度、改めてみた。そして、崖端へおいた編笠をきて、崖沿いの細道を、少し降って、それからの爪先登りを、呼吸を整えつつ、登って行った。
 崖が、だんだん低くなり、林が、まばらになり、木が少くなると、草原が、滑かな線をして、起伏してきた。
(広いところだ)
 と、感じた。だが、牧は逃げない敵だと思うと、十分に、落ちついていてもよかったし、広々とした山頂は、自分の匿《かく》れるところも無い代りに、敵を匿すところもなかった。
 一つの、波の上を越えると、又その向うに、一つ高く、草の波が立っていた。そして、誰も用の無さそうに見えるこの山頂の草の中に、その起伏をつなぐ、消えるばかりの小径が、つづいていた。小太郎は、一つの腹を廻り、次の頂を越えて
(あの頂へ立てば、この山は、一望の下になるだろう)
 と、三度思った。そして、三度とも、未だその向うに、もう少し高い丘のあるのを見たが、四度目に、傾斜した草の中を、登ると、連河内の山々が、遠く黒ずんでおり、右手に、河内平野が、展開して、そこからは、四方が、何んの障害もなく見渡せた。
 小太郎は、自分の立っている正面に、一人の影の無いのを知ると
(右か、左か――)
 右にか、左にか、人影が見えなかったなら、煙の影が立っていなかったなら――
(運が開けて行く)
 と、信じたことは、この夕空の如く、急に暗くなって行かなくてはならぬ、と感じた。小太郎は、この最後の一つの大事を、神に祈りたいような気持になった。だが
(女々しい迷いごと)
 と、自分を叱って、右を見た。草原が、段々に、森の中へ消えていて、煙も、人も――鳥の影さえ無かった。小太郎は、女々しい迷いごとと、己の信念の崩れて行きかかるのを叱りながらも、心の顫えるのを、何うすることもできなかった。
(左だ)
 小太郎は、眼を閉じて、父の顔に祈り、義観に念じ、この山の仏に、神に
(人影が見えますよう――それが、牧であるよう)
 と、祈った。そして、じりじり、視線を、左へ、左へ――草原の線の重なり、その上に頂を出している森、その後方の山々、その下の平野、村々――小太郎は、左へ左へ見て行くうちに、ちらっと、黒点が、眼に入った。小太郎は眼を閉じた。そして
(人であってくれるよう。牧であってくれるよう)
 心臓が、喘いできた。身体中が緊張に顫えてきた。神を念じて、眼を開くと、じっと、凝視めた。三人の人影が、草の中にうずくまっていた。

「あれで、修法が、出来るかしら――出来るとしても、験《げん》があろうか」
 草の中へ、腰をおろして、吸殻を、足で擦り潰しながら一人が云った。
「あろうと、なかろうと、ああああっ」
 山内は、大きく欠伸をして
「つくづく、厭になって参った。これが、京の藩邸詰なら、弁慶ではないが、夜な夜な出でては、人が斬れそうだ。今度は、所司代が、会津の容保《かたもり》と、更《かわ》るそうだが、此奴は、きっと、市中取締が手厳しくなろう。すると、諸国浪士共が、じっとしていまいし――」
 一人は、その少し下、右手の方に、形ばかりの祭壇を作って、石の如く、うずくまっている牧仲太郎を、じっと、眺めていたが
「然し、牧殿の修法は、人間業ではない」
 と、低いが、強く呟いた。
「もう、人の容《かたち》をしていないではないか、痩せて」
「狼の眼だのう。底の方から、何か、鬼気が、迸《ほとばし》るように――声はかれたし、足腰は立たぬようだし、よいよいの歩くように、それでいて、歩き出すと、歩くし、何うだ、あの修法中の凄まじい懸声は――」
「然し、ああなると、いかに、兵道の妙技を極めているにしても、もう、長くはあるまいぞ。今朝の水垢離の時に、裸になるのを見たが、この辺が――」
 と、云って、一人は、肩から胸を指して
「一本一本、骨が見える。頬がこけて、そら、何んとかいう魚に似てきたぞ」
「餓鬼だのう」
 一人は、じっと、牧の方を眺めていたが
「大分、長いぞ、俯向いたまま――死んだのではなかろうか」
「近寄ると、叱られるぞ」
「然し、これで、験があるのかのう」
「あるの、ないのと、現に、お世嗣が、次々に亡くなっているではないか」
「そうだのう――あの凄い眼を見ていると、いかにも、あの眼で、呪われたなら、死ぬという気がするのう」
「人が参る――侍が」
 と、一人が、後方を振向くと云った。山内と、他の一人が、振向いて
「近寄らんように云え」
 と、云った。一人が、立上って
「来てはならん」
 と、手を、左右に振って、叫んだ。だが、その人影に、聞えぬらしく、三人の方へ、足早に、近づいて来た。
「京からの、使ではないか」
「さあ」
「おーい、こちらに参ってはいかん、来てはならん」
 二人で、手を振った。侍は、立止まった。そして、笠へ手をかけて、じっと下を眺めた。
「聞えた」
「あちらへ参られい、あちらへ」
 一人が、口へ手を当てて叫んで、右手の方を指さした。侍は、佇んで、牧の方を、じっと、眺めていたが、一足踏み出すと、その歩んで行く方角が、牧の方へ向った。
「倉田っ」
 と、一人が叫んで、刀を押えて、走り出した。山内が
「使かあーっ」
 と、怒鳴った。一人の侍と、倉田とが、走り上って来るのを見て、侍は、編笠を取った。白い鉢巻が、はっきりと現れていた。手早く、襷をかけた。山内が
「おおっ」
 と、叫ぶと、さっと、顔を赤くした。そして
「油断すな。おうーい、小太郎だ。油断すなっ」
 と、叫んで、襷をかけながら、走り出した。

 二人の警固の人々は、山内が
「油断すな」
 と、叫んだから、相当の腕の男だ、とは思った。然し
「小太郎だ」
 と、叫んだ意味は、わからなかった。山内は、叡山での、小太郎の腕を知っていたが、二人は、それに就いて、見たこともないし――ただ、八郎太斬死の噂を聞いているだけであった。そして、二人は、二人ながら、相当の使手であったがゆえに、二人を、小太郎よりも劣ったように考えているらしい山内の言葉に、反感をもった。それで
「去れ、去らぬと、斬るぞ」
 と、一人は、叫んで、刀へ手をかけたし、一人は、もう抜いてしまって、山内が、もし近づいたなら――斬りかかったなら、それよりも早く、小太郎を斬ってやろうと、足も、腰も、十分に構えていた。
「貴殿等に、用はない。牧を討てばよい」
「去れと、申すに」
「去れと申すのが、判らぬか」
 小太郎は、山内の近づくのを見て
(三人を対手にしては、面倒だ)
 と、感じた。だが、なるべく、斬りたくない、とも思った。それで、口早に
「不忠者っ。御当代の公
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