「はっ」
と、云って、襖を閉てた。二三尺余り、進んだ四人は、ようよう頭を上げて、膝へ手を置いた。斉彬の姿は見えたが、顔を見ることができなかった。
「吉之助」
「はっ」
西郷は、ちらっと、斉彬の顔を見ると、すぐ、又、頭を下げた。
「又、一段と、肥ったのう。皆、なかなか、元気で頼もしい」
斉彬のそういう声に、いつものような――いつかの時のような、元気が無いようであった。岩下が、そっと、斉彬の顔を見ると、何っかに、疲労の影と、力の無さとが、滲み出ているようであった。
(お心を、お遣いになるから――)
と、思った時
「お前達、わしのために、いろいろと企てていてくれる。忝ない――嬉しいが、少し考えが足りぬ。それで、相談をしたいがの」
口調は、柔かであったが、四人は、ぐっと、腹を突かれたように感じた。
「吉之助からの、建白書にもあるし、余の者からも聞いた。福岡で、弟からも、同じ意見が出た。将曹、平等のことについてだのう」
斉彬のそういっている呼吸の中に、微かに、喘ぎが混っていた。四人は掌を、太股へ押しつけ、呼吸を凝らし、身体を固くし、聞いていた。
「あれらを、わしのために、処分せよと――わしのためを思うてくれての志、まことに忝ない。然し、あれらの悪事の証拠が、何処にあるか?――」
吉之助は、頭の中を、熱くして
(あの呪殺だけでも――)
と、思った時――そして、三人も、それを感じた時
「お前等は、わしの子供の死んだことを申すであろうが、呪殺したという証拠が、何処にあるか? 仮りに、牧が、呪法を行うたと自白したとしても、そのために、子供が死んだのだと、何うしていえるか? 仙波の掘り出した泥人形が、仮りに、証拠物としても、子供は、六人も死んでいて、証拠は、一つしかない。よいか、仮令、無為無能としても、父上のお選びになった重臣を、かかる無証拠の下に、処分が出来るか? 出来ぬか? わしが、当主となって、直ぐに、彼等を処分したとして、もし、彼等が父上に、何故に処分されるかと、訴え出た時、わしから、父上に、何ういう証拠を以て、申開きをする? ましてや、父上は既に、彼等に悪事はないと、見定められて、近藤以下を処分されているのに、わしが、当主になって、彼等を処分しては、取りも直さず、父上に、謀叛するようなものじゃ」
斉彬は、そういっているうちに、幾度か、唾を飲んだ。そして、ここまで云うと、鈴を鳴らして
「湯をもて」
と、云った。吉之助が、顔を上げると、斉彬は、眼を閉じて、額を押えていた。吉之助は、久し振りに見る斉彬の顔に、暗い淋しい、力無い影のひそんでいるのを感じた。眉の下に、眼の周囲に、頬に――それらが滲み出していた。吉之助は
(お身体が悪い――)
と、感じると同時に、何かしら、斉彬に、危機が、迫っているように思った。いつ拝謁しても、書物を御覧になっているか、書物《かきもの》か、器物の調査か、寸暇も、手を、頭を、眼を休めない斉彬であったし――こうした、眼を閉じた斉彬、頬に、眉に、疲れを見せた斉彬は、考えられぬものであった。だが、すぐ
「然し、志は、よう判るし、わしにも考えがあるから――」
と、云って、眼を開いて、額の手を放すと、斉彬は
「豊後、平、将曹の外に、二三、新任したいとは思うておる。吉之助の、建白書の内、知政の始、国政を誤りたる専横の徒を貶黜《へんちゅつ》すべきこととあるのと、お由羅処分のこと、それから、近藤崩れにて、流謫《るたく》脱奔したる者を、召還《めしかえ》すことと、この三ヶ条は、今申したように、総て、父を恥かしめることになる。父の処分を、すぐ転覆し、父の愛妾を処分しては、今申す如く、無証拠で、左様なことをしては、天下へ、父の罪と、わしの愚とを、知らすことに相成る。くれぐれも、志はよう判るが、わしのために、忍んでもらいたい。それから、これは、噂であるが、わしが、頼もしいと思うている若者が、徒党を組んで、何かするらしいということを聞いた。岩下、何うじゃ、真実かの?」
斉彬は、微笑して、岩下の顔を見た。そして、湯呑へ手をかけた。岩下が
「お言葉に背いて恐れ入りまするが、吾等、命を棄てて、奸人を、斬りたいと存じまする」
と、少し、顫える声で、云った。
「命を棄てての?」
「はっ」
「吉之助もか」
「はっ」
「吉井もか」
「はっ」
「三四十人集まっているのう」
「はい」
「近藤崩れの時には、将曹も、由羅も、討たずに、猶且つ、有為の人々を、二十人近くも失うた。お前達、あの人々が、死に、逃れ、流されたのを、淋しいとは、感じんか。もし、ここに、天下に事が起ったなら、あの人々の居らんことが、何れだけの損であるか? 考えることが出来るか?」
四人は、又、だんだん、頭を下げた。
「討とうとしただけで、父上は、あんなに御立腹になった。もし、お前達が、その中の誰一人でも討ったとしたなら、わしは、父に対して、何うしていいか? もし、父上が、あれも処分せい、これも処分せいと仰せられた時、わしは、何うなる、何うすればよい? 又世間から見て、父の処分したのが、あれだけ厳重であるのに、斉彬は、あれみよ、己のために、軽輩共が、上も恐れず重臣を殺したのに、あんな手ぬるい処分しか出来ぬかと、云われた時、わしは何うなる? 吉之助、一蔵――お前達の命と、豊後や、将曹の命と、かけがえになるか? お前は、何んと思うておる? 岩下。十人の将曹よりも、一人のお前達と、頼んでいるわしの心が判らんか? 軽々しく、彼等と刺違えて死ぬような安い命か? そんな安い命と、お前達は思うているのか? お前達、徒党の三四十人が、島津を背負って立つのだとは、思わないのか? わしが、常、日頃よりお前達を頼みにしていることが、未だ得心行っていないのか? 天下のために、わしのために働かなくてはならぬぞ、というわしの言葉を、何んと聞いていた? もし、軽挙妄動をして、父上から、血判した奴等悉く切腹させいと、命ぜられたなら、今まで、わしが、お前達を育ててきたことが、根こそぎ、潰れてしまうということが、判らぬか? お前達が、死んだなら、島津の家に誰がいる?」
「然し――」
呼吸のつまるような声で、吉之助が、云った。
「何んじゃ?」
「はっ」
「申してみい」
「はっ――手前達、五十人、百人集まりますよりも、お上御一人の方が、日本のために、天下のために――何れだけお役に立ちますか? そのお上に、仇を致します奸人共を討つに、吾等の十人、二十人、物の数では、ござりませぬ――」
「大間違い」
と、斉彬が、云った。
「はい」
「それは、違う、大きに違う」
四人が、俯向いて、膝へ手を置いた時、襖の外で
「坪井芳州、参上仕りましてございます」
「許す」
吉之助は、斉彬のその声に、顔を上げて
「お上は、お身体が、お悪うござりますか」
「少うし――」
そう云って、吉之助へ微笑した斉彬の顔には、熱の高そうな眼の濁りと、うるみとが、あった。芳州が入ってくると
「風邪でもひいたのか、少し、熱がある」
と、云って、手を出した。
「拝見仕ります」
芳州は、左手をついて、右手で、じっと、脈を見た。
「お前達は、天下のことを、一人の力でなせると思うている。一蔵」
「はっ」
「わし一人の力で、天下の大事がなせるような口吻《こうふん》じゃ。これは、大きにちがうぞ。岩下、お前一人の力で、先刻申す、奸党を斬るということが、出来ないように――又、一人の阿部伊勢、一人の井伊|掃部《かもん》が、幕府の頽勢《たいせい》を支えきれぬように、如何に、一人のみが、傑れておろうとも、周囲に人がなく、天下に勢いがなければ、何事をも為し得ぬものじゃ」
芳州が
「お横に――」
と、云った。一蔵が
「お枕」
「いいや、いらぬ」
斉彬は、帯をゆるめると、そのまま、手枕をして、横になった。芳州は、胸を開け、腹を按じ、叩き、撫でして、診察して行った。
「難かしそうだの、芳州」
芳州は、指先で、腹を強く押えながら
「はい」
と、強く、答えた。四人が、芳州の横顔を見た。
「風邪か」
「いいえ、風邪のお熱とは、心得られませぬ。心熱が烈しゅうござりまして――然し、御疲労のみでもなかりそうに心得まする」
「それでは、牧の呪いかの」
と、斉彬は、微笑した。芳州は、手を止めて
「朝稲三益殿、清水義正殿と、立会い致しとう存じまする」
と、云って、衣服を直しかけた。斉彬は起き上って、自分で、衣服を合せて
「呼ぶがよい。少し、この者等と、話があるゆえ、二人が参ったなら、次の間で、待っておるようにの」
「はい、心得ましてござります。お暇頂戴仕ります。すぐお薬湯を――」
芳州は、御叩頭して、退ろうとした。
吉之助が、呼吸を喘がせているような、せきこんだ口調で
「芳州殿」
と、呼びとめた。芳州は、片膝を立てたまま、吉之助の顔を見た。
「立会いなどと、お上の御容体は、そんなに――」
「いいや、念のため――」
斉彬が
「案じることはない。芳州、退ってよい」
芳州は、礼をして退った。斉彬は、脇差を差そうとして、膝の上へ置いて、それをいじりながら
「頼朝も、秀吉も、一人の力で、天下をとったのではない。まして、近頃の時勢は、下に権力が移ろうとして、上が、腐敗しかけている。何れの一つが因になっても、天下は変動する。これを制するのは、一人の力で及ばぬことじゃ」
「然し、その下を導き、時勢を導く人が、大切にござります。諸藩の有志は、その、戴くべき人として、お上を目指しておりますし、吾々共も、お上一人のお指図により、お力により、動こうと致しております。又――」
と、吉之助が云った。そして、斉彬の顔を見ようとして、眼を上げると、その眼を、斉彬は、鋭く、見返した。そして
「吉之助、お前は、わしが居らんと、何も出来ん男か?」
と、鋭く――それは、吉之助も、誰も、今までに聞いたことのない鋭さと、力とが入っていた。吉之助は、斉彬のその言葉と、その眼とに圧倒されて
「はっ」
と、云って、頭を下げた。
「浪人共は、わしが居らんと、勤王が出来んのか?」
吉之助は、黙って、耳を、頸を、赤くしていた。
「わしが死ぬと、お前達は、何もしないで、手を束ねているのか? わしがおらんと、わしの志したことは出来んのか?」
斉彬は、口早に、鋭く畳みかけた。
「幾度申しても、わしの心が判らんな。わしの富国策が、理解できんの。一蔵、お前も、未だ出来ておらんか」
一蔵は
「はっ」
と、云ったまま、黙っていた。
「わしは、こういううちにも死ぬか知れぬ。又、定命から申しても、お前達より早い。もし、わしが死んだなら、島津を守立てて行く者は、誰じゃ。もし、天下に大難が来たなら、それを防ぐ人材が他に無かったなら、その難に赴く者は誰じゃ。わしの亡き後、わしの志を継ぐ者は誰じゃ。お前達は、わしを、えらいというが、わしは、お前達をえらいと、見ておる。わしの志を継いでくれる者は、お前達軽輩で、お前達が協力してくれてこそ、わしの志が達しられるものだと、わしは、それのみを望みにしておる。わしは、多くの事に、ただ目安を造っておいた。それを成就させるのは、お前達ではないか? 目安を造ったのはえらいかも知れぬ。然し、わしの造ったものは、いつか誰かが造るべき――つまり、天下の勢いの赴くところ、赴く点に置いた目安で、わしが造らずとも、誰かが造るもので、決して、わし一人の力が、天下を導こうとするのではない。お前達、わしが、廟堂に立ったからとて、この徳川の頽勢を盛り返し、尊王論を絶滅できると思うか。又わしの志す、富国強兵の策は、幾度も申す如く、理化学の道じゃ。無より有を生ぜしめ、古陋《ころう》を捨てて、新鋭につくの法じゃ。この道こそは、協力一つ。わし一人の力で、何んともなるべきことではない。調所も協力してくれた。久光も、してくれた。異国の書物も、掛の者も、衆智を集め、衆力を集めて――お前達、一目見れば判るであろう。磯浜の反射炉、大砲、紡績機、硝子製造、これら悉く、財力と、智力と、衆力と、決して、わし一人の
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