脇差を押えると、奥へ走って行った。

 沈んだ顔をして出迎えた士が
「御苦労に存じます」
 と、挨拶をしても、左源太は、頭さえ下げなかった。廊下で坊主が、お叩頭をしても、それから、御病間へ入って、乳母の税所敦子が、血走る眼で、目礼をしても、左源太は、鋭く光る眼で、睨みつけたまま、哲丸の臥ている側へ、坐ると、じっと、眠入《ねい》っている顔を眺めた。
 枕頭には、二人の医者と、坊主と、敦子と、侍女が二人と、坐っていた。
「良伯」
 こう医者を呼んだ左源太は
「も、もしものことがあれば、捨てておかんぞ」
 と、いって、脇差へ手をかけた。良伯は、静かに
「覚悟致しております」
 と、答えた。その声にも、眉にも、眼にも、決死の色が見えていた。
「税所殿、矢張り、おびえなさるか」
「はい、夜に入りますと、物《もの》の怪《け》にでも、おそわれるように、急に、お泣き出しになり、お熱が高く――」
「床下、天井、その外、お調べになりましたか?」
「以前の例もござりますれば、若侍共、隈《くま》なく捜しましたが、怪しいところは、ござりませぬ」
「吉井殿は」
「お次におられましょうと、存じますが」
 哲丸は、いつもの、熟した果物のような赤味と、艶とを失って、濁った白い頬をして眠入っていた。
「良伯、これで、御重体か」
「これまで、お亡くなりなされました方々と、そっくり同じ御容体にて、医薬の効目がござりませぬ。先刻、将軍家より、吉田三誼先生が、お見えになりましたが、病状不明にて、拙と同じ手当より外に、思案がつかぬとの御見立でござりました」
 左源太は、こうして、すやすやと眠入っている哲丸が――安らかな呼吸をして、静かな脈搏《みゃくはく》をして眠入っている哲丸が、死ぬとは思えなかったが、これまで亡くなった人々のことを思い出すと、夜に入ってからの――この幼い子供が死と闘う悲惨な努力、大人の眼に見えぬ怪しい力と、ただ一人で闘って、怯え、顫えて、救いを求める悲痛さ――そして、それに、何んの助力もできぬお付きの人々――そういうことを思い出すと、誰に憤っていいのか、何うすればいいのか?――左源太は、哲丸の苦悶する夜の顔を考えてみると、自分の胸を、腸《はらわた》を引っ掴んで、掻き廻されているように感じてきた。次の間から、吉井七郎右衛門の声がした。左源太は立上ると、襖を開けた。
「おおっ」
「吉井っ――吉井っ」
 左源太は、涙声で、こう叫ぶと、吉井の手を握った。
「助ける道は無いかっ、吉井」
 吉井は、老いた顔に、涙をいっぱいにしながら
「わしゃ、な、床下から、天井から、這い廻って来た。良伯も、敦子も、よくしとるが、名越」
 吉井は、立ったまま、名越の手を握りしめて
「この腹一つ切って、代えられるものなら、わしの孫子が、身代りになれるものなら――」
「そうじゃ、吉井、わしらの一族と代れるものなら――」
 二人は、立ったままで、泣いていた。その部屋の近習共は、俯向いたまま、泣いていた。

 朝と、夕と、秋風の立っている山の中は、もう、単衣《ひとえ》の重ね着でさえ、冷たかったし、薬湯を煎じている炉の火が、うれしかった。
 深雪は、古びた土瓶の中へ、薬草を入れて、松の小枝と、松葉の枯れたのを、炉で焚いて、煮出していた。
(いつまでも、こうしていたい)
 深雪は、もう忘れてしまった程長い前――それは、決して、そんなに長い時間ではなかったが、余りにも、幼い女の身にとって、次々に起った烈しい事件に――そうした、姉と、母とで――今、こうして、土瓶を凝視めて、炉の下の、火加減に、心を配っているように、いつかの日、楽しく、食事ごしらえを手伝った、夢のような、昔のことを思い出していた。
(もう一度、こんな静かなところで、母と、姉と、三人で、こうして、炊事のことでも、出来たら――)
 深雪は、悲しくなってきたし、淋しかったし――だが、自分のために、死にかかった庄吉のことを思うと、庄吉のために、こうして、薬の世話をするのも、唯一つの、庄吉への恩返しのように思えた。
(庄吉でなく――)
 深雪は、ふっと、庄吉でない、外の――自分の夫と定まる人のために、こうしているなら、何んなに楽しいか?
(その夫が、月丸を討ってくれて、そして、妾が、こうして介抱して、だんだんその人は、よくなって行って――)
 深雪は、そうした空想を暫くしていたが
(気の毒に――庄吉は――)
 と、思うと、庄吉のために、こうして、長い間、世話をしていてもいいような気もしてきた。
(庄吉が、あんな前身でなかったなら――何んなに、身分が低うてもいいから、武士だったなら――)
 深雪は、決して、庄吉を嫌ってはいなかったが、前身のことを思うと、すぐ、踏み止まって
(心を許してはならぬ)
 と、思った。
「代りましょうかな」
 と、南玉の声がした。
「いいえ」
 だが、襖が開いて、南玉が
「手前にも、出来ますよ。何うも、めっきり冷とうなりあがって、京は冷えるってが、本当に、ぞくぞく冷えやがる。冷《ひ》え山《ざん》なんて、ここから出たのだろう」
 と、喋りつつ、炉のところへ、坐った。
「火が、弱いじゃござんせんか」
「いいえ、このお薬は、松の葉か、馬糞がよろしいので、ございますって。炭火などで、かっと、煎じては効がないと、義観様、いろいろと、焚き物のことを教えて下さいましたが――お師匠さん、お粥は、土鍋で、松の木で炊いたのが、一番おいしいそうでございますって。そして、その土鍋も、京の東山の、陶清の、分厚なのがいいって。だから、ここのお粥は――」
「六十になるまで、お粥のことばかり、試して来たんだからの、あの義観和尚。和尚がお粥でくりゃ、俺、梅干で行かあ。梅干あ、五月一日、巳の一点に、下から数えて、十番目の枝の、端から数えて五番目の実をもいだのが、一番うまえ――」
「ああ、お帰り――」
 と、深雪が聞えて来た足音へ呟いた。
「さあ来い、お粥坊主」
 勝手口へ、義観が現れて、南玉を見ると
「ああ、南玉、小太郎のところへ、すぐ行ってもらいたい」
「へっ、お粥の講釈にな」
「何?」
 義観は、炉の中の火加減を見て
「おお、上出来、上出来、半分に煮つまったかな」
 と、云って、土瓶の中を、のぞきこんだ。

「なるべく、急いで――駕を云うからの」
 義観は、そう云って、硯と、紙とを取出して、書き出した。
 深雪は、煎じた薬を、布でこして、湯呑へ入れた。そして、次の間に臥ている庄吉の枕頭へ来ると
「済みません」
 と、云って、庄吉が、見上げた。そして、起き直ろうとして、力の入らぬ、未だ痛む身体を動かすのへ、深雪は
「無理をしないように――」
 と、云って、支えたり、抱えたり――庄吉は、触れまいとする肌に、暖かさに、匂に、柔かさに触れながら――快く感じて
(病気なりゃこそだ)
 と、思ったり
(意地|汚《きたね》えことを考えるな)
 と、自分へ、叱ったりした。
「もう、大丈夫――」
「人間、死損うと、なかなか、くたばらねえもんでげすよ。これで、二度だ。三度目は、何うやって、くたばるか――」
 と、呟いて、湯呑に、口をつけると、義観が
「清水寺に、月照という坊主がいる。それへ、この手紙を届けて。返事はいらん。此奴、坊主のくせに、尊王の、倒幕のと、いいおって、阿呆じゃ。それから、小太郎に逢うてのう――河内と、大和の国境に、生駒山という山がある。ええか、生駒山、生ける駒、馬と書く」
「生駒ね、はい」
「その山相、山の姿、山の形だの、それが、この頂上の四明に、よく似ている。わしが、牧に、四明での修法を断った上は、近畿の山では、生駒山の外に、同じ山相の山がない。鞍馬、愛宕でも、修法をするであろうが、第一の修法は、同じ山相の山で行うのを、秘呪の法としておるから、必ず、この生駒の頂へ参ろう。四方|広濶《こうかつ》にして、山頂は草原――」
「四方広濶にして山頂は?」
「草原」
「よく判りました」
「必ず、牧は、この山へ参ろうから、余のところを捜さずとよいと、小太郎へ、伝えてもらいたい。わしゃ、忘れていてのう、云うのを――今、思い出したから、言伝けるのじゃが――手紙を先に、小太郎を後にの」
「早速、それでは――」
 と、云って、南玉が、立上った。庄吉が
「師匠」
 と、呼んだ。
「おいの」
 襖が開いた。庄吉は、義観へ、お叩頭をしてから、南玉に
「若旦那に、くれぐれも、御用心なさってと、の――首尾よく牧をお討取りなさいますのを、祈っておりますって――」
「よしよし――お嬢さん」
 南玉は、そう云いながら
(又、この娘さんを心配させることが一つ増えたが――)
 と、思うと、心がしめってきた。だが
(これさえ済めば、からっと、晴れ上るんだ。深雪さんも、庄公も、わしも――)
 と、思うと、何かしら、天の配剤というようなものがあって、これ以上に、仙波の一族へは、苦しみが、悲しみが、かからないような気がした。
(この義観って坊主が、天狗みたいな奴で、こいつが、平気な面をしていりゃ、俺達安心していいんだ)
 と、いうような気がした。深雪が
「よろしく、と――何も、申すこと、ございません」
 と、云って、俯向いた。義観が
「心配すな、牧は落ち目で、小太郎は上り目じゃ。寒いから、お粥にしようかのう」
「深雪さん、お、お粥を食って、待っていなせえ、一っ走りだ」
 と、云って、南玉は、笑いながら脇差を差した。深雪も、淋しく笑った。義観が
「うまいお粥を食わしてやろ」
「ついでに、東山の土鍋を、買って参りましょうか、和尚さん、あはははは」

 斉彬の居間へ近づくに従って、吉之助の心は――それから、その大きい身体さえ、顫えてきた。
 それは、命を賭けた恋人に逢う気持のようでもあったし、自分を育ててくれる神、自分の縋ろうとする大きい力、世の中の称讃を一人で受けている英雄、智慧と、慈悲との権化のような主君――そして、自分のような、軽輩に、目をかけてくれる人――そういう感じが、深い、強い感激となって、肌が締ってくるように感じた。
 前へ行く岩下佐次右衛門も、後方につづく吉井仁左衛門も、今まで同志と共に、将曹を討つために、興奮していたような態度は、何処にも無くなって、俯向いて、足音さえ立てないようにして、歩いていた。
(御帰国早々に、何事であろう?)
 吉之助は、自分達の謀が洩れたのだとは思えなかったし――そして、御帰国のその日に、恐らくは、国許の重臣達さえ、未だお目通りをしていないと思われるうちに、召出されたということに対して、何う考えていいか?――
(然し、何か、大事なことであるには、ちがいない)
 廊下がつきて、一段高くなった。先へ行く侍が、その高くなったところから又つづいている廊下へ坐って、部屋の中へ
「岩下佐次右衛門殿、西郷吉之助殿、吉井仁左衛門殿、大久保一蔵殿、罷り出ましてござります」
 と、云った。四人は、廊下へ坐って、頭を下げた。部屋の中から
「お進み下さるよう」
 と、云った。四人は、廊下から、膝で歩いて、敷居の内へ入った。その部屋の左手に、斉彬が居るらしく、二人の侍が、次の間との間の襖へ手をかけて、左右へ開いた。四人は、平伏した。
「近う、ずっと近う」
 四人は、それが、斉彬の声であると、判ると、姿は見えないが、身体中に、寒さを感じながら、平伏してしまった。
「内談がある。ずっと、近う」
「はっ」
 岩下が、口の中で、答えた。そして、身体を、左手へ向けて、斉彬の居る部屋の方へ、膝を動かした。侍が
「ずっと、お進み下さりますよう」
 と、云った。四人は、平伏しながら、膝で、少しずつ進んで、次の間の敷居を入ると、又、平伏した。そして、岩下が、斉彬のいると思える正面へ
「麗《うるわ》しき御尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じ奉ります。早速、拝謁仰せつけられ、冥加至極、恐れ入り奉ります。某は、岩下佐次右衛門にござりまする」
「某は、西郷吉之助――」
「心得ておる。早速参ってくれて、忝《かたじけ》ない。ちと、密談があるので、ずっと、これへ進んでくれい。伝次、襖を閉めて――」
 侍が

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