。
「清川八郎でも、殺されるのだからのう。吾等とて、いつ何時、捕吏《とりかた》の手でやられるかも知れん――こうしておけば、わしの志だけは、判るであろう」
一人の浪人は、腕組をして、じっと、乾いて行く墨の跡を眺めていたが
「よし、わしも、一首書き残しておこう」
と、云って、押入を開けて、小さい行李から、袖の無い半襦袢を出して来た。五六人のそうした浪人のいる二階では、富士春が、爪弾《つめび》きで
[#ここから3字下げ]
そぞろ、身に沁む、秋の風
招く尾花につまされて
千草を分けて入る山に
夫《つま》恋う鹿の叫び鳴く
[#ここで字下げ終わり]
と、唄っていた。
「あの女も、この頃は、血の道だのう。よく、一人でめそめそと泣いておる」
と、一人が云いながら、筆に、墨汁を含ませた。
「富士春一人のみでない。天下、悉く、血の道じゃ。幕府の頓馬が、我々共の勢に恐れて、浪人組を作ろうなどと致しておるが、これも、血の道、逆上の揚句じゃし、又、これへ、食えぬからとて、応募しよる浪人があるが、此奴も、血迷っておるし――ええと
[#ここから3字下げ]
帝《みかど》おもう至誠の弓を一筋に
引きて返らぬ武士《もののふ》の道
[#ここで字下げ終わり]
[#地から4字上げ]為王事水戸脱藩士 柴山壮蔵源正忠
わしの字は拙いの。これを着て斬られているのは、余り、ええ図ではないぞ――まあええ、引きて返らぬ、武士の道じゃ」
「益満の戻りが、遅いのう」
「斉彬公が、帰国なさったゆえ、それと、途中で、何か打ち合せしておるのかもしれぬ。そういううちに、戻るであろう」
「おい、講武所の所長に、男谷《おだに》下総守が選ばれたのを存じておるか?」
「本当か?」
「昨日――本当じゃ。新徴組の浪人など、束になってかかっても、怖ろしくはないが、下総が立つと、大敵だぞ」
「清川を殺したのは、男谷門下の奴ではないか」
「いいや、下総は、そんな人物ではない」
「然し、幕臣ではないか」
「新徴組には、甲斐の祐天と申す博奕打が、伍長で入っているというのう」
「何を致すか、血の道のすることは、判るものではない」
[#ここから3字下げ]
夕立に
法華も、門徒も、雨宿り
上見て、下見て、濡れまいと
同じ軒端の、押しっくら
[#ここで字下げ終わり]
「お春、皮肉なことを、唄っておるぞ」
一人が
「師匠っ、うまいぞっ」
と、称めた。
「吾等、大悟一番、生死の念を放擲《ほうてき》して、夕立の中へ、駈込むのだのう。濡れまいとするから、押合いになるが、十死一生と観ずれば、夕立何物ぞ」
そう叫んだ途端、格子が開いた。二三人が、一時に
「誰だっ」
と、怒鳴って、振向いた。旅姿の士が
「わしだ」
と、答えた。
「日下部だ」
「日下部」
「何うした?」
「益満は?」
人々が、一時に、喋り出した。二階の三味線が止んだ。日下部三次は、脚絆をとって、草鞋を脱ぎながら
「万事、手筈がととのったから、明日にでも、薩摩屋敷へ、一同で入りたい」
日下部の背の上で、横で、奥の間で
「占めた」
とか
「わーっ」
とか、いう叫びと一緒に、畳を踏む音、柱を擲《なぐ》る音
[#天から3字下げ]踏破る千山、万岳の煙
狭い家の中が、叫喚と、どよめきとに充ちた。一人が
「騒々しいっ」
と、怒鳴った。日下部は、刀を提げて、奥へ通った。そして
「益満は、近日に帰る。各々は、薩藩士として――」
と、云いながら、御門通用証を出して
「これを、銘々にもって、名越殿小屋へ通ると、門番へ申して、通行してもらえばよい」
小さい、焼印を捺した木の札を一束にしたのを出した。
「騒々しいねえ」
二階から、富士春が、降りて来て、上り口の敷居のところへ立って、日下部の顔を、じっと、眺めていた。日下部はその顔を、一寸見て
「これが、益満のか?」
と、一人に聞いた。
「左様」
日下部が
「益満は、すぐ戻るが、長々と、乱暴者をあずかってもろうて、忝《かたじけ》ない。都合にて、明日中に、引払うことになったが、今後とも、よろしく頼む」
と、口早に云って
「斉彬公の帰国の供をしている例の、お由羅一派を、血祭として、そのまま、揃って、脱藩し、京、江戸と二手に分れて、上って参る手筈になったが――」
富士春は、懐手をして、突立ったままで
「お前さん、ちょいと、お前さん」
「わしか?」
と、日下部が、見上げると
「お前さん、誰だえ?」
日下部は、一寸、見上げたまま、それに答えないで
「国許の万事は、岩下と、西郷と――」
「ちょいと――」
「何んじゃ」
「黙って入って来て、挨拶もしないで――勝手な真似をするがいいや。庄吉も、益満も、お前さん達も、何んだえ。それで、人間かえ。朝起きりゃ、お早う、晩になりゃ、お眠《やす》みくらいの挨拶を知ってるなら、拙者、何処そこの某《なにがし》くらいのこたあ、云っちゃあ、何うだい。大概、人を馬鹿にするない。いい気になっていりゃ、庄公も、益休も、勝手な――妾ゃ、い、一体、何うなるんだい。お前方あ、薩摩のお屋敷へ入っていいだろうが、妾ゃ、一体、何う、なるんだい」
富士春は、口惜しさと、怒りとに、途切れ途切れの口を利きながら、泣くまいとしても、涙がこみ上げてきた。
(何処まで、誠をつくしたなら、男ってものは、自分のしているのと同じように、妾にしてくれるのだろう?)
と、思うと、世の中も、男も、自分も、めちゃめちゃに、引き裂きたいように感じてきた。
「益満は、じき戻る」
「も、戻っていらないよ」
富士春は、こう云うと、襖の紙を、引き破った。そして、二階へ、足音荒く上ると、瀬戸物の毀《こわ》れる音がした。
「うるさくなりゃあ、斬ってしまえ。それから」
と、一人が、叫んで、肱を張った。
富士春は、湯呑を抛げつけて、こわしたが、それだけで、身体の中、胸の中、頭の中いっぱいに、湧き返っているものが、すっかり、湯呑と一緒に、こわれ飛んだとは、感じなかった。まだ、固いものがつかえていたり、口惜しさが固まっていたり――
(何うしてくれよう、畜生っ)
と、思うと、袖を噛んで、引き裂いてみた。下では、浪人が、何かに喜んでいるらしく、笑い声が、爆笑が、どっと起った。
「何が、可笑しいんだいっ」
富士春は、上り口へ、首を延して叫んだ。
(三十を越して、何うなって行くのだろう)
と、思うと、追っかけられるような焦躁と、不意に、脚下に穴でも空きそうな不安とを感じた。化粧をしていると
(未だ、これでも――)
と、思う時もあったが、鏡へ、顔を近づけると、もう、眼の四辺に、小皺が出て、肌にしみが現れていた。
(妾、何を悪いことをしたい)
と、富士春は、世間へ、啖呵《たんか》を切ってみた。世間こそ、男こそ、いろいろと、自分に悪いことをしたが、富士春は、五七人の男を代えた外に――
(それが、悪いというのかい、それが――男を代えたことが――)
自分から捨てた男もあったが、自分が捨てられた男もあったし――
(庄吉に、あんなに尽してやったのに、あいつ――)
と、思うと、差引勘定をして、少しも、自分が悪いと思えなかった。
(それに、淫乱だの、辻便所だのって――)
富士春は、世間の男女が、そういうだけでなく、自分の男である益満に養われている――毎日、益満の女である自分の手で、酒を、米を与えられている浪人達までが、少しの、尊敬をも――益満に対する尊敬の、十分の一をもしないのが、世間の口以上に、口惜しかった。
(男に、縋っているからだ。立派に、一人で――仮令、流しになったって、一人で食べて行けるのに、なまじ、男に手頼《たよ》ろうとするから、こんな目に逢うのだ。世の中は、広いんだから、旅にでも出てしまって――)
そう、時々は、考えもするが、益満と、庄吉との、愛欲の夜を思い出すと――頭の中で
(誰が、あんな薄情者に――)
と、思っても、肌が、血が、愛着の味を忘れないでいた。
(頼みになるような、ならないような――今度、戻って来て――お春、俺は、薩摩屋敷へ入るぞ。お前は、何うなっとするがいい――いわないとも限らない台詞だ――それを、又、この浪人野郎共が、黙って聞いていて、挨拶一つしないのだろう、畜生――)
富士春は、柱によりかかって、脚を投げ出したまま
「犬、猫、畜生っ」
と、叫んだ。下の浪人達は、濁った声で、甲高い声で、議論をしたり、争ったりしていた。
(天下が何うだとか、黒船を焼くとか、何いってやがるんだい)
富士春は、そんなことを聞いても、見ても、判らなかったし、判ろうともしなかった。ただ、益満の手頼りなさと、耐えきれぬ夜の淋しさとに、袖を噛んだり、酒をのんだり、唄ったり――
(本当に――こっちの惚れる男は、浮気者だし、惚れてくる奴は、いけすかないし――)
と、思いながら――少し気が静まると
(早く、益公、戻れば、いいのに――戻ってさえくれりゃ――)
と、思いながら、柱へ、身体をすりつけて、投げ出した足を、しっかり締め合せて、自分の手で、自分の二の腕を、固く抱いてみた。
三つの死
「申し上げます」
書院の中は、浪人と、雑談と、煙とでいっぱいに、騒々しかった。
「申し上げます、申し上げます」
四五人の浪人が、その大きく呼ぶ声に、気がついて振向いた。
「何うした?」
と、名越左源太が、浪人達の首と肩との間を透して、用人に、顔を見せた。
「哲丸様が、御重体で、早速――」
云い終らぬうちに、左源太が、立上って、前にいる、横にいる浪人達の、肩を押分けながら
「支度せい、支度を――」
と、叫んで、廊下へ、走り出た。そして、急に、振返って、部屋の中の人々へ
「一大事ゆえ、奥へ参る。各々方、よろしく」
一人の浪人が
「一大事とは?」
と、叫んで、片膝を立てた。一人が
「哲丸様が、御病気なのじゃ」
と、云った。左源太は、ざわめく人々を残しておいて
「早く、用意、早くっ」
と、怒鳴った。
「はい、ただ今」
と、女中の、周章てて、答える声がした。書斎へ入った名越は
(ここで、哲丸様を、死なしては――)
と、逆上しそうに、興奮していた。余りに、次々に、不可思議の死を遂げたゆえに
(お悪い)
と、一言聞いただけでも、それは、死と同じ意味にとれたし、又、必ず、死に赴く幼い子供達であった。それが
(御重体)
と、いうのであったから、左源太の頭の中には、死に悩み、死と闘う哲丸の苦しい、歪んだ顔が現れると共に
(斉彬公のお世嗣《よつぎ》が、絶える)
と、いう絶望的な考えが、狂乱的な、苛立たしさと一緒になって、回転していた。
(何んとなく、お疲れになったような顔、死ぬかも知れぬと仰しゃった言葉――もし、それが、本当になった日に、哲丸様が、又呪いの手で、お亡くなりになったとしたなら、斉彬公の御血統は、何うなるか?)
名越は、すくすくと、大きくなって来た自分の子が、何うしてか、憎いように、感じた。
(不忠者、貴様、哲丸様の、お身代りになれっ)
と、叫びたいような――自分の命を、子の命を犠牲にしても、哲丸の命だけは、引きとめたいと感じた。そして、今までに、決して、病に罹ったが最後、平癒したことのない例を思うと、拳を顫わしてみても、歯噛みしてみても――
(絶望だ)
と、いう感じが、頭中に、身体中に感じられて、自分の身体を抛げつけ、引き裂き、踏み躙《にじ》って、哲丸を殺す、何かの、魔の力、魔の神の前へ、叩きつけたいように、感じた。
半狂乱の眼、喘ぐ呼吸、顫える拳――手早く、袴をつけ、肩衣をつけると
「お刀」
と、追いかける声に返事もしないで、走り出した。
(医者は、何をしているのか)
左源太は、医者を叩き斬ってやるぞ、と思った。
(乳母《めのと》の税所《さいしょ》敦子は――抱傅《おもりやく》の吉井は)
左源太は、こういう確乎《しっかり》とした人物がついていて、何をしているのだ、と思うと共に、その人々の力に及ばぬ、不思議な死を遂げさす力を――何うしていいのか?――左源太は、人々の振向いて眺めるのも感じないで、
前へ
次へ
全104ページ中95ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング