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君不見《きみみずや》、方今天下転変の状
内外上下|都失倫《すべてみちをうしなう》
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「ちぇすとうっ」
「舞うぞ」
と、叫んで、有村が、影の閃く如く、座の真中へ出た。そして
「よーうっ」
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従是《これより》、当取断一字《まさにとるべしだんのいちじ》
断行直《だんこうただちに》、使避鬼神《きじんもさけしむ》
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灯をうつして、刃が、橙色に光を放って閃いた。畳が、壁が、時に柱までふるえたし、人々の懸声と、拍手と、叫び声とに、遥かに距てている往来の人さえ、足を止めて、この宿の二階を見上げた。
「そうだ。断の一字あるのみ」
「断の一字あるのみ」
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英雄|胸膈非無策《きょうかくさくなきにあらず》
当見《まさにみるべし》、赫々邦家新《かくかくほうかあらたなるを》
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「新七、うまいぞっ」
「ちぇすとう」
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勿言大業機未到《いうなかれたいぎょうきいまだいたらずと》
精神一発|起皇風《こうふうおこる》
況又大勢由人事《いわんやまたたいせいじんじによるをや》
宜将一死先群雄《よろしくいっしをもってぐんゆうにさきんずべし》
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「然り然り、ただ一死を以て、天下に先んずるのだ」
「まず、奸賊を倒して、吾が藩国を浄め、次に、王事に任じて、皇運の挽回に従うべし。益満、舞えっ、益満」
益満は、柱に凭れて、笑っていた。そして、側の、平野国臣に
「この元気が無うては、何事も出来んが、この元気のために、事を誤るものも多いでのう。斉彬公が又、鬱勃たる大勇を、深く蔵して発せられん方ゆえに、この元気を利用もしたいし、斉彬公の御意に反くこともできぬし、ここをうまく操るのは至難の業でのう――ただ、西郷吉之助と申す者が、ややその器であろうか――御存じか?」
「名を承わっておるが――」
「一度、お逢いになるといい」
女中が、益満のうしろに来て
「仙波小太郎様が、お見えになりました」
と、云って来た。
「下の部屋へ――」
「同志か?」
「例の、牧を討とうとしておる男だが――」
「牧は、未だ討てんか」
「いや、近々、討てる。この近くにおるらしいから、暫時、御無礼」
と、云って、益満は、立って行った。一座には、酔った声の、詩吟と、琵琶歌と、議論とが、いっぱいに――天井から、植込みへ、離れの向うまで、溢れ出していた。
「騒がしいではないか」
小太郎が、咎めるように云って、刀を置いた。
「勢いの赴くところ、かくの如きものだ」
「月丸を討取ったぞ」
「そうか? 何処で」
「叡山の――わしを救ってくれた、あの僧侶の所の――父の墓の前で、深雪と、庄吉とで、討取った」
「ふむ、あの二人で? よく、二人で討てたのう」
益満は微笑した。
「月丸に邪心のきざしたのが、油断になっての。自分で、自分を殺したようなものだ。義観が、万事後を引受けてくれて――わしは、これから、牧の後を追うが、何か、耳に入っておらんか」
「京の藩邸を、二三日前に出たということは、聞いておるが――」
「わしも、それは聞いた。斉彬公の御代と決まっては、邸にも置いておけまいからのう」
「深雪に、あいつらは?」
「庄吉は、手を負ってのう、三人共、義観の庵室に逗留致しておるが、落合うところは、ここと決めておいた。もし、貴公の居る内に参ったなら、よろしく頼む。要件は、それだけだ。これから、牧の足跡を求めて――」
小太郎は、そう云いながら、刀を提げて、立ちかけた。
「今度の牧の警固方は、三人と聞いたが、人情、紙よりも薄いではないか」
「国許の奴等に逢わんか、大分参っておるぞ。それに、他藩の志士もおる」
「誰々」
「伊牟田、平野、梅田と云ったような連中だが――」
「矢張り、人情紙の如きではないのか?」
小太郎は、立上って、刀を差しながら、笑った。益満は首を振って
「いいや、代々上に立って、徒らに、高禄を食《は》んだ奴は、こうした激変の時代に当って、只、失わんことを恐れて、事大的になる。だから、紙となり、軽薄ともなるが、今集まっている代物の如き、もうこれより下れん、落ちられんというところの、底の底におって、反溌《はんぱつ》しようとしている奴等だ。この力は恐ろしいぞ。十分の闘力を、肚をもっていて、押しつけられていた奴等だから、風雲を得たなら、何処まで、登って行くかも知れん」
二人が、話しておる間にも、二階では、吟声が、足音が、拍子が、轟いていた。
「所司代は、よく、黙視しておるの」
「もう所司代は無力だ。去年と、それだけ、時世が変った。この激変は、恐らく、斉彬公の明を以てしても、お判りにはなるまい。薩摩も亦、斉彬公の御代になって、何う変るか? 小太郎、早く牧を討って、早く、吾等の仲間へ加われ。天下は、吾々のものになるぞ。必ずなるぞ。薩摩は今や、天下を二分してその一を保つだけの実力と、勢望とがある。ここに集まっている他藩の人々の説を聞いても、斉彬公の御代になって、斉彬公が、討幕の師を起すとなれば、若者は、悉く脱藩して、斉彬公の許へ走るであろうという話だ。半分に聞いても、愉快な話ではないか。小太、いい日の下に、いい主の下に、生れたものだのう」
小太郎は、立ったままで
「うむ」
と、答えた。
「わしは、七八日、ここにおって、江戸へ戻ろうが、それまでに牧を討つといいのう。手を貸そうか」
「いいや、もう袋の鼠じゃ。早く討って、早く仲間へ加わろうかの」
「そうだ。お前にもだんだん世の中がわかってきたのう」
益満は笑って、立上った。小太郎は
「少うし人間が変ったぞ」
と、云いながら、振向いて
「御一同によろしく」
と、いうと、出て行ってしまった。
「西郷どん、居るか」
と、生垣の外で、声がした。
「居る」
西郷は、机の前から、首を延した。生垣の外に、吉井仁左衛門、樺山三円、高橋新八の三人が立っていた。そして
「えらいことじゃが」
と、叫びながら、生垣を手で押しつけ、袴を引っかけて小枝を折りながら庭へ入って来た。
「斉彬公の御帰国の一行じゃが――もう、福岡へ入っている」
「うむ」
「聞いておるまい。井上出雲からの、便りは――」
「うむ」
三人は、縁側へ、腰をかけた。
「その斉彬公の御一行中に、西郷どん、何んと奇怪であろうがな、将曹も、平も、志津馬も入っておるというのじゃ。それだけでも、わしら、かっとしたのに、何うじゃ、井上出雲に御赦免が出ん――何う思う?」
垣根の外に、又人影が見えて
「来とおるか」
と、叫んで、堀仲左衛門と、岩下佐次右衛門とが、入って来た。
「斉彬公が、将曹を罰せん、という御心――いつか仰せられた、子は父のために痩す、という御孝心は、わしらとてよく判る。然し、それも、程々のものだ。見す見す、陰謀を企てた――それも、ただの陰謀ではない、御世継を呪殺するという悪逆無道の陰謀を企てた輩を、そのまま、重用していなさるとは、卑怯に似ている」
「大義、親を滅すということがあるが、この際、当家のために、天下のために、人心を一掃すべきだ。君側の奸を除いて、有為の士を登用すべきだ。わしら軽輩が、徒らに、長上を押し除けるという風説があるが、長幼軽重を論じるべき時代ではない。力のある者が、出て行くべき時勢になってきているのだ。そして、その気運は、斉彬公自ら、お作りになったのだ。それに、今日、その奸悪を、猶座右に、重宝視するなど、斉彬公御帰国の第一声として、わしは、彼奴らを除くことを、まず、進言したいのだ」
「それで、いろいろ、説が出ているが、わしは、矢張り、断だ」
と、高橋が、斬る真似をした。
「斉彬公に申し上げても、わしは、無駄だと思う。斉興公の処分なされたことを、すぐに取消して、井上出雲を召し返しなどしては、斉興公の罪を天下に示すようなものだ、という御意見はよく判る。斉彬公は、わしらに対して、お目にかけておられるように、斉興公には、もっと、御孝心の方だ。だから、この際一切を、公に知らさずに、吾々、死を以て、君側の奸を払おうと思うが、何うだろう」
「上方の有志も、同じ志だ。将曹らを討つのを機として、一挙に脱藩して、京へ集まろうというのだ。有村が、そのために、戻って来ておる」
皆が、語るべきことを語って、西郷の顔を見た。
「よかろう」
と、西郷が、頷いた。そして
「斬る外にあるまい」
と、いった。
「それで、同志の面々だが、今、血判した奴だけでこれだけある。この外に、西郷どんが、うんと云ったといや、何んぼ、ふえるか判らん」
吉井が、懐中から、書状を取出した。
「拝見しよう」
と、云って、西郷が、手を延した。
「集まったのう――大勢、集まったのう」
西郷は、微笑んで、連名を披げて行った。奉書に一人一人が、署名、血判をしていた。人々は、もう一度、自分達の署名、血判を見直そうと、頭を、その上へ集めた。そして
「俺の字は、小さくていかん。高橋のは、下手だが、元気がいい」
とか
「この血は、誰がこぼしたのだ」
とか、呟き合った。西郷が、人々の署名を読んで行くと
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堀仲左衛門 (伊地知貞馨)
岩下佐次右衛門 (子爵岩下方平)
有村俊斎 (子爵海江田信義)
吉井仁左衛門 (伯爵吉井友実)
伊知地竜右衛門 (伯爵伊知地正治)
税所《さいしょ》喜三左衛門 (子爵税所篤)
本田弥右衛門 (男爵本田親雄)
高橋新八 (後の村田新八)
奈良原喜八郎 (男爵奈良原繁)
野津七左衛門 (陸軍中将野津鎮雄)
仁礼源之丞 (子爵仁礼景範)
氷山万斎 (永山弥一郎)
野津七次 (侯爵野津道貫)
西郷竜庵 (侯爵西郷従道)
有村次左衛門
西郷吉二郎
山内一郎
有村如水 (後の国彦)
大久保一蔵 (利通)
樺山三円
奈良原喜左衛門
中原喜十郎
大山格之助 (後の綱良)
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「よく揃うた、その代り――」
と、云って、西郷は、人々の顔を、見廻して
「もし、この企てが、近藤崩れのようになったなら、薩摩は、天下が取れんようになる」
「一蔵も、それを心配しておった」
「将曹や、平如き奴等二三人を討取ったがために、この有為の青年を、近藤崩れの時のように死なしては、何んにもならん。だから、討つのは、遺憾ないように、十分の人数と、十分の計とで行うて、上役人へ名乗って出るのは、人数を限らんといかん。皆が皆死んでは、第一、斉彬公に対して、不忠になる。わしが、名乗って出て、皆の罪を引受けよう」
「吉之助一人の仕業と、誰がおもう? 籤引《くじびき》にでもして、五人は、こしらえんといかん」
「そうじゃない」
と、西郷は、首を振って
「相手は、三人か、四人でないか。計で斬るに、一人で斬れんことがあるか。十人、二十人かかってもよいから、それを一人で斬ったように見せさえすればよいし、わしが、飽くまで一人だといえば、それで通してしまう――」
「いかん、いかん」
ど、高橋が、叫んだ。
「西郷どんの腕で、三人も、斬れるかい」
「吉之助を、下手人にするのは、いかん。此奴は、斉彬公に入用じゃ。籤引にしよう、籤引に――何れ、今夜集まろうから、その場で籤引にして、切腹する奴を――三人つくろう」
「三人もいらん。将曹、平、二階堂と、ぽんぽんと、舶来銃でやっつけて、知らん顔をしておるがええ。それでやかましゅうなったら、俺がやったと申して、切腹してしまえばよい。籤引も、くそもあるもんか」
「然し、それでは、論が了えん。今夜、韃靼冬《だったんとう》へ集まって、その上のこととしよう」
と、西郷が云った。
一人の浪人は、麻の襦袢を披げて、その背へ
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露と消え身は死するとも亡き魂は
千代|朝廷辺《みかどべ》を守り奉らむ
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[#地から4字上げ]水戸浪士 三岡源次郎吉次
と、書いて
「これでよい」
と、云って、筆を置いた
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