立上った。遠くに、山内の笑声が、女の、甲高《かんだか》い叫び声とがして、すぐ、廊下に、山内らしい、荒い足音が、近づいて来た。老人が
「えらい強《きつ》いお方じゃ」
と、又、呟いて、戻りかけた。
「今日も、お暑うござります」
義観の姿を見た、力餅屋の亭主が、丁寧に挨拶をした。
「暑いなあ」
茶店の中にいた若い僧侶が、立上って、お叩頭をした。そして、今まで、食べていた餅の、皿を持って、片隅の方へ寄った。外の登山者達は
(汚いなりの坊さんやが、えらいのだろう。えらい人には、時々、こんな汚いえらい人があるという話だが――)
と、思って、義観を眺めていた。
「えらい騒ぎが、又、ございましたそうで」
「ふむ、餅屋、繁昌して、よかろう」
「お蔭様で――あの、娘さんは?――一体、何処の?」
「ありゃ、山の狐じゃ。淋しいから、わしの嬶《かかあ》にしてしもた。子が生れると、安倍晴明になる」
「へへへへ――もう、あの方々、皆、お立ちで?」
「京へ下りた。てんぼうが一人だけ残っている。餅を少し分けてくれんか」
「さあさあ、何うぞ、お持ち下さいますよう。五十も――」
「結構結構」
軒下には「弁慶力餅」と書いた看板が、屋根のところにも、同じ文字の白い旗が、山風に翻っていた。
根本中堂へ行く人も、四明ヶ岳へ行く人も、ここの前が、通り路であり、そして、この茶店が、唯一軒の休憩所であった。
三人の侍が、上着を脱いで、肌衣の腕も捲り上げ、手拭をつかんで、編笠の下の顔を、時々拭いながら
「やれやれ」
と、叫んだ。一人の侍は、暑さも、汗も感じぬらしく、端然として、扇子を右手にしていた。だが、茶店の前へ来ると
「許せ」
と、云って入って行った。お盆へ、小さい餅を盛っていた亭主が
「ようこそ」
と、叫んで、小さい女に
「これっ」
と、声をかけた。何か、手工に夢中になっていた女が
「お餅でござりますか」
と、甲高い声で叫んで、立上ると、侍が、四人立っていたので、それきりで、黙ってしまった。
「水をくれ、水を――」
「水は、冷たかろうな」
四人は、編笠をとって、腰をかけた。
「暫く、待って下されますなら、谷へ降りて、汲んで参りますが」
亭主は、そう云いながら、義観に
「お届け申しましょうか」
「何んの、わしが、持って行く」
一人が
「間《ひま》がかかるか」
と、聞いた。
「一寸、かかりますが」
「何んでもよい。早くせい、早く」
「はいはい」
義観は、じっと、牧の横顔を、凝視めていた。そして
(月丸の父ではないか)
と、思った。
(前の祈祷を、もう一度行いに来たのであろう――よく、月丸と似ているが、月丸とは、人物の段がちがう)
そう思った時、一人の侍が、
「亭主」
と、叫んだ。
「亭主」
と、大声で呼んだ侍が
「この辺に、義観という坊主が、住んでおるか」
亭主は、その義観が、その侍の横にいるので、何う返事をしていいのか? いると云って、義観を教えたなら、侍がてれるであろうし、と云って、いないとも云えないし
「はい」
と、云ったまま、お叩頭をして、暫く、黙っていた。参詣人も、若い僧も、侍の顔をじっと見ていた。
「おらんか」
「おるぞ」
義観が云った。
「わしが、義観じゃ」
三人の侍が、振向いて、義観を見た。そして、暫く黙っていたが、一人が
「左様か」
と、云って、頷いた。
「実は――百城月丸なる者が、貴僧の手によって、厚く回向《えこう》されて、葬られたと申すことで、ござるが、真実かの」
「さあ、いろいろと回向したり、葬ったりするで――」
「仙波小太郎なる人物を、御存じかな」
「知らん」
「知らん?」
侍は、義観を、睨みつけて
「月丸を殺した対手であろうが」
「見ておられたかな」
「見てはおらぬが、小太郎兄妹の者が、月丸殿を殺したにちがいあるまい。何故、検視を受け、邸へ通知し、表向きとして、処分なされん。犬猫を埋めるように、自儘勝手に葬って、罪跡を匿そうなどと、われわれ、それを調べるために参ったのじゃ」
「はああ」
「小太郎は、何処へ逃げたか。町人が、二三人同行していたとの噂だが、それらの奴の素性、そういうことを、承りたい――」
「小場」
と、牧が、呼んで、小場が、振向くと、目で止めた。
「月丸の脇差を、取っておいた。御覧なさるがよい。立派に、腹を切っていなさる」
牧が、義観の方へ、膝を向けて
「某は、月丸の父でござる。いろいろと、御厚情の段、厚く御礼申し上げます」
と、云って、頭を下げた。
「いや、仙波八郎太を埋めたり、百城月丸を埋めたり、いろいろでござる」
牧は、義観をじっと凝視めながら、頷いて、懐から、金包を取出した。一人が、
「仙波のも、御僧、埋められたか」
と、聞いた。
「猫でも、人間でも、何んでも扱うな」
牧が、金包を義観の方へ押出して、
「軽少ながら、倅への読経料、お収め下さいますよう――せめて、水ぐらいは、お供して行って手向けてやりとうござるが、子は父の心を知らず、父は又、父の情に欠けたる者、何卒、御僧において、拙者の代りとして、よろしく、冥福をお祈り下さるよう――」
静かに云って、軽く頭を下げた。そして
「参ろう」
と、三人に云って
「暫く、お山を拝借仕ります」
牧が立上った。一人の士が、鳥目を出した。牧は、編笠へ手をかけた。そして、四人が立上った時
「山を借りるとは?」
と、義観が、牧を見上げて云った。
「山を借りるとは、修法《ずほう》のためかな」
一人が
「左様」
と、答えた。
「牧殿」
牧は、名を呼ばれて、じっと、義観を見たし、警固の人々も、編笠を手にしたまま、油断なく、義観を見守った。
「あの火炉の形は、三角でござったのう」
そう云って、牧の眼を、じっと見上げた義観を、牧も又、無言で、凝視めていた。
「三角の、鈞召《きんしょう》金剛炉は、何を祈る時に用いるものか。それを知っていて、山を貸すことは、出来んのう」
「何っ」
一人が、一足踏み出した。
「山内っ」
牧が、叱った。そして
「御尤も」
と、頷いた。
「然し、呪咀も、時により、事により、人によって――」
「いや、いやいや――」
義観は、首を振って
「斉興が当主ゆえ、その方の命にて、斉彬を呪ったとして、斉彬が当主となりゃ、これ、主殺しに当る――」
「人事の推移の如き末の末でござる。われらは、兵道の威法を示して、天下にこの法有るを知らしむれば足りる」
「物の顕現は内発による。強いて現そうとして、現す者は、常に邪道に陥る」
義観は、牧を見上げて、その眼を、じっと、睨みつけていた。
「この山は、貴様のものか」
と、山内が、怒鳴った。
「ああ、わしのものじゃ」
「何処に、貴様のものじゃという証拠があるか」
「わしのものでない、という証拠が、何処ぞにあるか?」
「何?」
「出してみい」
牧が
「山内っ」
と、又、叱った。そして、
「以前、この頂上にての修法が、乱暴者のために妨げられましたが、それをそのまま棄ておくことは、兵道家として、天に対して、恐れあり、枉《ま》げて、三五夜頂上を許して頂きとうござるが――」
と、云って、又、床几へ、腰を、静かにかけた。
「あの時のお供は、三十人余り――暫くの内に、世の中は、変るものでござるのう」
「人の心が――」
牧は、冷たい微笑をした。
「お心は、よう判る。月丸へ手向の水一つやられん心も、よう判る。又、貴殿が亡くなられたなら回向して進ぜようとも思う心もあるが、修法は、許せん。貴殿が、是と信じていることは、わしの非とするところ、この是非得失は、論じても了《お》えまい。山は、当所だけでなく、愛宕も、鞍馬もある。所信を曲げん以上、他所の山のことへまで、口は出せんが、斉彬を苦しめることは、ようないことで、ござるのう」
牧は、誰に、云われるよりも、この初見の僧に、こう云われることが、辛かった。それで、腕を組んでいると、義観は金包を、山内の袖の中へ、投げ込んで
「金は、いらん。後生は、よく弔うて上げる。もう、長い命でもござらぬぞ。あったら俊才を、惜しいことしてのけるのう」
と、牧の顔を見ながら立上った。
「無礼なっ、何を致す」
山内が、赤くなって、こう叫びながら、袂の中から、金包を掴み出した。だが、義観に渡すのも、おかしいし、自分で持っている訳にも行かず
「牧殿」
と、云って、差出した。
「うむ」
牧は、頷いただけで、義観の立去って行く後姿を見ようともせずに、じっと、腰をかけたままであった。四人は、暫く、黙っていた。義観の後姿は、杉木立の中へ、草の中へ、現れたり、隠れたりしつつ、小さくなって行っていた。一人が
「あの坊主は、当山でえらいのか?」
と、亭主の顔と、若い僧の顔とを見較べて聞いた。
「はい――なあ、良順さん、お山じゃ一番だろうの」
「うむ」
と、僧が、頷いた。そして
「又、明日」
と、亭主に、挨拶して立上った。
「先生、寺務所へ掛合って、今一応、交渉を致してみましょう」
「要らぬ」
牧は、首を振った。
(ここ一年の内に、一切の物が移ってしまった――わしの兵道が、よしその効験を現そうとも――眼前に、それを顕現しても、最早、人々は、信じないかも知れぬ。わしが命を捨てての修法も、ただ人に侮りを受けるだけのものになるかも知れぬ。兵道で尚《たっと》ぶところの、以心伝心などということに、誰も興味を持たなくなった。神人相通の術などと云っても、判らなくなった。時勢であろう? 斉彬公の究理している電気術の如き、その理論を口にし、文にして、如何なる凡夫と雖も、これに通じ得、学習することができるらしいが、わしらは、それを一子相伝、家門不出の秘伝として伝えてきた。そして、兵道の秘伝以上の異国の不可思議が、誰人にも、修得できるような時代になってきて――わしらの兵道は、何うなるのか?)
牧は、黒船の来襲を聞き、その船の造りを聞き、斉彬の理化学的製作品を見た時、己の信ずる兵道以上の不思議なものを、感ぜずにおられなかった。そして、それを感じると同時に、己の兵道にて、それらを圧倒しうるか、何うかを考えて
(古来のままの兵道では、何うにもならぬかもしれぬ――)
と、考えた。だが、何うしていいか、ただ、己を苦しめて修練に修練を重ね、極度に、精神力を発揮することだけしか修業して来なかった兵道家にとって、談笑の中に、数町を距てて音信を通じ、器物によって、真正のままの肖像を写す不思議を見ては、三十年、四十年の長年月、暑熱に耐え、厳寒と闘って修業して来たことを、根底から、覆《くつがえ》されているとしか思えなかった。
(斉彬の信じる如く、異国の奴等は、えらいのかも知れぬ)
牧は、傾いて行く陽も、感じぬらしく、じっと、考え込んでいた。
(然し――然し、ここで破れては、ここでひるんでは――疑い、怯ける心は、何よりも悪い。愛宕で、鞍馬で――そうだ。兵道家が、最後の祈り、牧仲太郎が、命をかけての修法――斉彬の異国化学が勝つか、日の本秘伝の兵道が勝つか?――」
牧は、立上って
「下山」
と、いった。三人が
「ええ?」
と、聞くと
「勘定をすまして――」
と、いいすてて、道へ出てしまった。
巷の音
燭台が、明るく、金地の襖を、磨きのかかった柱を――それから、酔った人々の顔を照らしていた。
「愉快、愉快、愉快、我輩は、舞うぞっ」
と、一人が、怒鳴って、刀を、どんと突き立てた。
「とにかく、将曹、平等、君側の奸を、先ず血祭として、それをだ、まず、軍陣の血祭として、而《しか》して、斉彬公を盟主として、討幕の師を、雷発させるんだ。ええか――」
一人は、真赤な顔をして、扇を、膝の上へ正して
「長歌」
と、叫んだ。
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鳥が鳴く、東の国に
行き向い、千々の心を、尽しつつ
荒びなす、醜《しこ》の醜臣《しこおみ》
打ち払い、功業《いさお》立てなむ
真心は、霞と共に
大空に立渡りける
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「よう、よう」
と一人が、叫んだ時、
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