を信じている。それだけを信じていると、淋しゅうない。いろいろの苦しみも忘れ果てる。榴弾も出来たし、シャフトも出来たし、紅硝子もできたし、ただ一冊の、オランダの本だけからでも、異国に負けぬものが造れた。或いは――調所がおったなら、称《ほ》めてくれるかもしれぬ。あれは、出来たらこの上ないが、出来るか出来ぬか、判らんものに、金は出せんと、反対しておったが、今存命なら、喜んでくれるであろう」
久光は、調所が斉彬呪殺の計に加わっていることを、斉彬が知りながら、心から称めるのを聞いていると、斉興が、憎くなってきた。
(父と云い争いまでして、隠居願を、無理に書かせたが、この兄のためなら、もっと、強く出てもいい)
と、思った。次の間から
「白金へのお使、只今、帰りましてござります」
と、云った。
「何うであった?」
「御機嫌の体に拝しましてござります。よろしくとの、お伝えでござります」
「そうか、父上御機嫌であったか、そうか」
斉彬は、元気いい、快い笑顔になった。久光は、又、眼が熱くなってきた。
一人の浪人は、褌《ふんどし》一つになっていた。二人は肌脱ぎになっていた。もう一人は、半肌脱ぎで
「益満が、こう遅うては、お春も、一人じゃあ寝にくかろう」
「そうさ。かぼちゃ、とうなす、いろいろあれど、主に見返す奴は無いってね」
富士春は、浴衣の襟を、くつろげて、片立膝から、水色をのぞかせながら
「今夜も、厭に蒸すねえ」
五人の前に、肴《さかな》の皿と、徳利とが置いてあった。
「毛唐は、男と女と、人の前でも口を吸うというが、本当かの」
「そういう犬のような真似を致す奴輩《やつばら》ゆえ、捨てておけんと申すのじゃ」
「好いた仲なら、嘗《な》めもしようさ」
「ははあ、師匠も、嘗めるか」
「当り前さ」
「何うして、嘗めるか、後学のために、拝見致したいものだの」
一人が、肱を張って、富士春の顔を見た。
「何をつまらぬことを申している」
「いや、男女のことは、造化の大道で、攘夷と共に、神州男子の心得ておらねばならぬことじゃ」
「貴島さん」
富士春は、一人の齢の若い浪人に
「こうしてさ」
と、云って、手を延して、貴島の手を、引っ張った。
「何をなされる」
「いいじゃないか――何んとか云ったね。どうかのだいど?」
「造化の大道」
「それそれ、造化の大道ってばさ、こっちお向きよ」
「師匠は、酔うといかん」
貴島は、手を振り放して
「仮令《たとい》、斉彬なりと雖も、又、益満の命なりとも、開国説をとるなら、わしは、反対じゃ――」
「妾の命でも、反対か」
富士春は、膝を崩して、又、手を取ろうとした。
「拙者と、嘗めよう、お春殿」
と、褌一つのが云った。富士春は、じろっと見て
「もう少し、鼻を高くしておいで」
一人が
「師匠、淫らなっ――益満の留守に」
と、叱った。
「おやっ――」
「酔うといかん」
「妾が?――酔うている?――い、いつ酔うた?――妾が、間男でもしたというのかい?――したって何んだい、間男ぐらい」
「斉彬の真意は判らぬが、薩州の急進党は、攘夷を以て、討幕を口実にしようとしているが、幕府を討つ口実としては、開国は、違勅であるという、この一本槍で――」
「何が、一本槍だい。二本差っ、大の男のくせに、あっちいくっついたり、こっちいくっついたり、昨日まで、公方様の家来であったくせに、今日は寝返りを打ったり、憚りながら、富士春は、意地ってことを、知ってるよ――いい加減なことを云って、休之助め、京女郎と、ふやけくさって、間男が、何んだい――手前勝手な」
浪人達は、初めて見た富士春の酔態に、持て余しながら
「師匠、先に寝たら、何うじゃ」
「人のことを、かまう柄かい。居候浪人」
「何?」
一人が、睨みつけた。一人が
「馬鹿っ、酔っ払いに」
と、たしなめた。
「威張るな、貴島――小太郎を、連れて来い、小太郎を。あちきの好きな小太郎を」
富士春は、脣をなめて
「そりゃ、いい男だからねえ――鼻べちゃ、お酌」
「そう飲んではいかん」
「だ、誰の、お鳥目で買ったお酒だい。余計な世話やくから、だんだん鼻が、低くなるんだよ。こ、今夜から、釘抜で、挟んで寝るがいいや」
「心得た」
「笑ってるよ、この人は。笑うと、鼻まで笑うね」
「斉彬は、何処までも、公武合体で行こうという肚らしいが――」
「斉彬は、何うでもいい。賢明と云っても、殿様育ちにすぎん。吾々の目指すのは、薩摩の金だ。薩摩軽輩の奮起だ。益満の書状によると、姉小路卿が、いつでも立つ、というが――」
「薩州の公武合体論も、手ではあるまいか。江戸と、京都との、模様を探る手だと、わしはおもうの。益満の行動を見ると判る。策謀、又、策謀だ」
「そうだ。もし、疑うならば、薩州が、天下をとる野心かもしれぬ」
「いいや、斉彬は、そういう人物ではない」
「そりゃちがう。海軍奉行、勝麟太郎を、京都へやったのは、公武合体のためでなく、開国説を公卿間に吹き込むため、斉彬と打合せて行ったという話がある」
「それでは、斉彬は、一体、どういうのか、既に、イギリス艦を、ぶっ払ったではないか」
「そのイギリスと、手を握ったではないか」
「だから、判らんと申すのじゃ」
「そうさ、男の心なんか、判るものかい。庄吉の野郎め」
富士春は、酔ってしまったらしく、眼を閉じて、首を傾けてしまった。
「そこが、斉彬の賢明なところで、既に、異国と同じ船を造るようになったと申すではないか」
「船は同じでも――船で戦うのではない。武で戦い、魂で争うのだ」
「それは、そうだが、長篠の戦いに、武田の精兵が、織田の鉄砲に、打ちすくめられたように、異国の兵器は侮れん。斉彬が、その点へ眼をつけているのは、えらいではないか」
「そうでない。彼の祖父の重豪《しげひで》と同じで、今に、男女共、口を嘗めろ、と、悉く、異国の真似をするようになる」
富士春が
「犬を嘗めろ、鼻べちゃ」
と、呟いた。
「聞いてたか」
「酔っちゃ[#「酔っちゃ」は底本では「酔っちや」]いないよ」
富士春は、身体を一揺りすると、横になってしまった。
「俺には判らん。万事、京から、益満が、戻った上にて、進退を決しよう。話の如く、江戸を荒して、幕府と一戦すると申すなら、命をすてて、勤王の魁《さきがけ》をするし、又、変節してくるなら、吾々同志は、すぐ様、京へ上ろう」
「そうだ」
「薩州も、斉彬も、益満も、判らん」
「そういうものは判らんでもよい。吾等期するところは尊王攘夷」
「そうだ、前途程遠し、思いを禁裏勤王に馳せ、か」
「叱っ、隣りへ聞える」
と、一人が制した。一人が
「寝たらしい」
「貴島、二階へ、運んでやれ」
「女の沙汰かっ」
と、貴島が、鋭く云った。
牧仲太郎が、手を叩いた。
「はい」
次の間で、返事があった。
「山内を――」
「山内様は、先刻、お出ましになりましたまま、未だお戻りになりませぬ」
京都下河原、二階堂志津馬の寮の、一部屋であった。狭い庭であるが、鞍馬石に、木竹を配して、巧妙に布置されてあった。牧は
(山内も、家中の、尊王熱に浮されて、京の街を、歩いているのであろう)
と、思った。
(あれは、自分の腕を、人に、己に、見せたくてかなわぬらしいが)
牧が、そう思って、扇を使っているところへ
「御免」
と、廊下で、声がして
「お一人かの」
と、部屋の中を覗き込みながら、京都藩邸の用人が、入って来た。江阪という六十近い老人であった。女が、すぐ、小走りに、蒲団を持って来た。
「京都は、暑いて」
と、呟いて、額を拭いて、老人は、縁側へ、座蒲団を持って行った。そして
「江戸から、早馬が参って――」
と、庭を見ながら
「いよいよ斉彬公、御相続と、決まりましたが、それに就て――」
老人は、扇を、閉じて、牧の方へ向き直った。牧が、
「ははあ」
と、頷いた。
「万一、貴殿に、不慮のことでもあってはと、一党心ならずの心痛で、暫く、何れへか、身を――」
「忝のうござる」
牧は、冷やかに答えた。そして、
(昨日まで、斉興に忠義立てして、当主が代ると、又、斉彬の味方になる――頼むまじき人心)
と、思った。
「当地へも、大分、国許の若い者が入込んで、これが又、刀を抜きたい連中のみで、ござってのう」
「左様」
「物騒な世の中になりましたわい。わしらの若い時、三十年が程は、静かすぎるくらい、静かであったが、近頃は、公卿衆までが、先立って、お騒ぎになるようになりましたのう」
「左様」
牧は、己の信じる兵道などが、若い人々に、一顧もされず、若い人々が、悉く、斉彬の西洋学文に傾くのを見て、憤りと共に、呪い心になっていた。
(善にもあれ、悪にもあれ、己一人は、所信を貫こう。お由羅が、将曹が、よし、斉彬の方へ変更《へんが》えしようとも、己一人は、兵道の威力をもって、斉彬の化学を破って見せよう。物理、計数の上に立つ力が強いか、人間の霊妙心が強いか――斉彬を呪殺することは、よし、島津に対して不忠にもせよ、霊妙心の、不可思議を、天下に示すことは、兵道家としての務めであり、天下のためでもある。まして、謂わんや、斉興公への忠義になることを――この老人は、体よく、わしに、退去を願いに来たのであろうが、云われずとも、この炎暑の天に、諸天を迎えて祈ることは、何時よりも効験の著しいことだ――かかろう)
牧は、
「明日、早々に、山へ籠ることに仕《つかまつ》ろう[#「仕《つかまつ》ろう」は底本では「仕《つかま》ろう」]」
「いや、そうせかずとも――」
と、江阪は、外を眺めていた。
牧は、指を繰っていた。そして
「斎宮合致の刻」
と、呟いた。
「御存じかな」
老人が、呟いて、
「聞かれましたかな」
と、振向いた。そして、膝を、牧に向けて
「御子息の」
と、顔を見た。牧は、眼を閉じて、何か考え込んでいた。
「御子息の――」
「倅の?」
「百城とか申される――」
「それが?」
「いや、未だ、お耳に入っておりませんとなれば、一大事」
牧は、それでも、眼を閉じたきりであった。
「何んと、御挨拶申し上げてよいか――」
老人は、そう云ったのに、未だ眼を開かぬ牧に、物足りなさを、感じながら、
(これだけ云えば、判りそうなものであるのに――そして、判ったなら、せめて眼だけぐらいは開くのが人の情であるのに――)
と、思った。そして
「実に、御愁傷なことで――御子息が、先日、不慮の死を遂げられたよし、聞き及んでおりますが――」
老人は、何処まで云えば、眼を開くか、意地のようなものが、出てきた。
「ははあ」
牧は、そういって、眼を開いた。だが、瞳にも、眉にも、脣にも、何んの動きも、現れもなかった。
(勘ちがいではあるまいか)
と、老人は、思った。そして
「この奥の叡山で、その百城――様かな――御子息が、町人に手傷を受けて、それが因《もと》で亡くなられたと、山でえらい評判が、京へも聞えておりますが、貴殿の、御子息に、間違いなしとしたなら、詮議もせにゃならず、始末も、せにゃならず、それで、参ったのでござるがな。一つ、所司代へ訴え出て、その手からも探索させ、又、当方からも、手をつくして――」
「御好意は、忝のうござるが、御打ち捨ておき下さるよう――」
「然し、余のこととちがい――御遠慮には、及ばん。その町人を――」
「町人に手傷を受けた不出来者などは、子でござらん」
「御尤もながら、そりゃ、貴殿の御気性として、さもあるべきところでは、ござれど、親の情として――」
「お断り申す」
牧は、鋭く云った。そして、つっと立上ると、次の間を抜けて、廊下へ出て、手を叩いた。老人は、じろっと、その後姿を、睨みつけていたが
「それでは――牧殿」
と、声をかけた。牧は、廊下へ立ったまま、出て来た女中に
「山内が、その辺に居らぬか、お捜し下さるよう」
女中が、去ると
「牧殿、これへ、御手当金を、置いておきますぞ」
と、云って、金包を出して、畳へ置いて、押えつけた。そして
「どれ――どれ」
と、呟いて、
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