て、異国掛に引上げようなどと、この肚《はら》黒い、魂胆の底には、当家の金、調所の残しておいた金が――金に目をつけての仕業でござりましょう。無けりゃ困るし、あってはうるさし――」
と、いった時
「久光様、お渡り」
と、いう声が、廊下でした。お由羅が
「また――」
と、呟いた。将曹が、立上って
「只今、そちらへ――」
と、叫んだ。そして、足早に歩き出すと、襖のところに、手燭の灯が見えて、久光が、足早に入って来た。
「急用じゃ」
と、いって
「御部屋へ――」
と、いう将曹に
「いいや、母上も、御一緒の方がよい。参れ」
と、口早にいって、将曹と、擦れちがって、お由羅の方へ行った。女中が、周章てて、褥を持って来た。将曹が、苦い顔をして、久光の後方からついて来た。
「未だ、眠《やす》みやらぬかえ」
と、お由羅が、久光に、声をかけた。
「母上は又、将曹と、何事を、お話でござりますかな」
将曹が
「つい、世間話が、長うなって――」
「世間話とは、父上が、世間から、非難されていなさるようなことをか」
「非難とは?――別に、大殿は、左様な――」
「それが判らんで、よく家老職が、つとまるの」
「久光、何を、お云いやる」
と、お由羅が、叱った。
「耳が、ついているのか」
と、久光は、将曹の耳を見た。
「これっ」
お由羅が、大きい声を出した。将曹は、じっと、久光を睨みつけて、顔を、赤くしていた。久光は、その眼を、睨みつけながら
「その眼なら、読めるであろう。只今、父上から頂戴致して参ったものじゃ。よく、拝見してみい」
と、云って、懐中から、書面を、取出して
「読んでみい、声を出して」
将曹が延した手へ、渡した。将曹は、披げて、少し読むと、顔色が変った。時々、唾を呑み込んだ。
「声を出して読め」
将曹は、答えなかった。
「これで、天下も、当家も、安泰じゃ。将曹、そうであろうが――」
と、云った時、お由羅が
「それは?――何ういう?」
と、将曹へ、話しかけた。
「貸せ」
久光は、将曹の手から、書面を、受取って
「読み上げまする。よく、お聞きなされませ。母上」
と、云って、書面を披げてしまって
[#ここから3字下げ]
琉球国へ滞留之英人差戻方之儀御国体に不拘様《かかわらざるよう》厚奉蒙御内命候付、昨年帰国之上、猶又、種々、及計策清国へ嘆訴方、深致指麾置儀《ふかくしきいたしおきしぎ》御座候に付、来春御暇被下候得者
[#ここで字下げ終わり]
「母上、よろしゅうござるか、このお暇は、江戸お暇のみではござりませぬぞ」
[#天から3字下げ]来春御暇被下候得者
「将曹、そうであろうがな」
[#ここから3字下げ]
直に致帰国、右手当向併に海岸防禦之儀、手厚取計可申心得に候得共、私事六十余歳罷成、其上持病の痔疾差起候節者、致難儀候間、嫡子修理大夫(斉彬)儀、年齢に罷成候に付、厚申含家督相譲隠居奉願含に御座候、此段御内慮相伺候、以上
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]松平大隅守
「母上」
と、云って、お由羅の方へ、書付を、差出して
「父上の、筆蹟に、相違ござりますまい」
お由羅は、黙っていた。
「将曹を呼んだのは、外でもない、明日、この隠居願を持って、筒井殿の邸へ参り、阿部殿へ伝達を乞うよう」
「では、大殿に――」
と、いって、将曹が、立とうとするのを
「父上は、お臥みなされた。伝達せよと、予が、聞いて参ったのじゃ。これにて、父上への世上の非難も消える。母上、いらぬことをお考えなされずに、早く、お眠みなされませ。今夜は、身も、ゆっくりと眠れる。将曹、何を浮かん顔をしておる」
お由羅と、将曹とは、自分の膝を凝視めて黙っていた。
下城して来た斉彬は、いつもより、眼の微笑が、少かった。出迎えの家来達――いよいよ正式に御世継の決まる日と、薄々洩れ聞いて、喜んでいた家来達は
(模様|更《が》えになったのであろうか)
と、思った。
(今に、今にと、懸声ばかりで、本当に決まらなかったのが、大殿、御自身から、今度は、隠居願を出されて――これで、目出度く、御相続ときまったのに――あのお顔は?)
と、思うと、又何かしら、不慮の故障が入ったのではなかろうかと、何に怒っていいか、相手の判らぬ憤りが、起ってきた。そして、俯向いて、斉彬の、歩いて行く足音を聞いていたが
(何かあったにちがいない)
と、思っても、朋輩に、それをいうのも、朋輩から聞くのも、厭なような気がした。そして、黙って立つと、朋輩達も、黙って立って、詰所へ入っても、人々は、失望と、怒りとで、口を利かなかった。お互に
(何うして、こうも、御不幸な、お方であろう)
と、感じて、暗い顔をして、じっと、腕組していた。
斉彬は、居間へ入って、前からと、後方からと、袴を、裃を、女中に取らせながら、次の間の近習に
「渡来物の、氷砂糖があったの」
と、いった。
「はっ」
近習が、襖のところで、手をついた。斉彬は、褥の上へ、坐って
「それを、白金へ、御見舞に持って参れ。そして、父上の御機嫌を伺って参れ」
「はっ」
近習が、襖の蔭へ身体を引くと、廊下の方で
「久光様、お渡りでござります」
と、いう声がした。
「ああ」
斉彬は、そう云って、眼を閉じて、肩で、大きい呼吸をした。女が、褥を持って来て、つつましく、斉彬の前へ敷いた。そして、暫くすると、足音がして、久光が、現れた。
「お疲れでござりましょう」
「うむ」
斉彬は、未だ、眼を閉じたままであった。坊主が、入って来て
「お薬湯」
と、云って、斉彬の膝のところへ、薬湯を置いて行った。斉彬は、眼を開いて、久光を見て
「何か、珍しい話はないか」
と、聞いて、薬湯へ、手をかけた。
「兄上の、御発明の、あの日の丸の総船印が、日本の総船印として、定められたそうで、ござりませぬか」
「うむ」
「日章旗と、名づけて」
「ふむ」
久光は、世継が、今日、殿中で決まったのに、いつもより、憂鬱な顔をしている斉彬の態度に、不安な影がさしてきた。
(何うしたのか――)
と、感じながら、又、何かしら、自分の判らないことを考えて、沈んでいるのではなかろうかと、思うと、濫りに、口へ出して、聞けないような気がした。だが、斉彬が、薬湯を飲み終ると
「首尾、如何で、ござりました」
と、口を切った。
「断れぬことゆえ、お受けはしたが――父上のことを思うと、気がふさいでならぬ」
久光は、はっとした。自分が、無理に、斉興にすすめて、隠居願を書かせたことなど、斉彬に知れては、何う叱られるか、知れぬと思った。
「誰がすすめたものか――」
斉彬は、湯呑の中の、薬湯を、じっと眺めながら
「父上は、未だ、隠居をなさるお心持は、無いに――誰が、おすすめ申したのか――」
久光は、自分の兄に対する唯一の好意が、兄を怒らせ、兄を苦しめていそうなので、不安に脈打つ胸を押えて、俯向いていた。
「わしは、富国強兵の策として、理化学の外にないと信じているが、これを行うと、父上の御意にもとる――もとるにしても、天下のために、所信へ邁進する外にない」
久光は、頷いた。そして、父の隠居を、誰がすすめたかという問題から、離れそうなので、安心して
「天下のためになら」
「御意に背いても、と、申すであろうが、わしも、それを思わんではない。然し、人の命は短く、理化学の道は遠い。学文、究理のみならば、容易であるが、それを、形に造り上げるまでには、幾多の困難がある。もし、わしが、その困難に耐えて、造り上げるまで、存命しておればよいが、もし、その間に、死ぬようなことでもあれば、理化学の仕事は、悉く水泡に帰する。それを思うと、父上の御意に背いてまでもすべきことか――久光」
斉彬は、微笑して、久光を見ながら
「いっそ、すぐ様にも、わしも隠居をして、お前に、家督を譲ろうかと、おもうておるが。これが、四方八方、円く治まる法ではなかろうか」
「お断り申します」
斉彬は、床の間の手文庫から、書付を出してきた。そして
「わしの志を継いでくれる者は、お前の外にない。然し、今すぐ、わしが隠居することも叶うまい。わしは、隠居をして、異国へ、理化学の研究に参りたいが、そうもならぬ。それで、お前が、わしの志をついでくれると、信じておるが、猶、念のためにこういうものを、作っておいた」
斉彬は、その書付を開きながら
「わしは、天下のためという口実にて、父上や、家中の者と争いとうない。然し、この道の外に、富国強兵の策があろうと思えぬゆえ、お前の代になったなら、この者等と力を合せて、わしの志を継いでくれ。知己を後に待つ外に方法がない。何んとなく、わしは、疲れて来たように思う。或いは、父上に先立つかも知れん。もし、左様なことがあれば、わしは、ただ徒らに、父上の金を費したことになる。何一つ、完成せぬうちに死んでは、外のこととちがい、理化学は、途中で止めては、何んにもならん。それで、わしは、江戸在留の者、国許の者の中から、こうして、有為な青年の名を書き抜いておいた。大久保、有馬、西郷の徒は、わしらと、当面の難局に当るべき人材であるし、この者らは、三十年の後に、天下の役に立つ者共じゃ」
斉彬は、手に書面を握ったまま、語りつづけていた。久光は、斉彬が家を継いで、自分のしたいと思うことを、存分にするであろうと信じていたのに、その反対の話を聞かされて、斉彬の、斉興を思う心に――そして、その斉彬に対して、斉興や、お由羅の採っている態度に対して、涙が出てきた。何も云うことが出来なかった。
「わしが部屋住の間は、未だ責任が軽うてよかったが、当主となれば、敵は、家中のみでなく、幕府も、他藩も――それよりも、この心の中の、いろいろの苦しみ――子を失い、父と争う苦しみ――己の儲けた金でない金をもって、成るか、成らぬか判らぬ仕事をしている苦しみ――久光、お前だけが判ってくれるであろう」
「はい」
「お前は、泣いているの――わしは、泣きもできぬ」
だが、斉彬の声も、曇っていた。
「この外に、未だ未だ、有為な者がおろう。いずれ、帰国して、調べて、又、残しておこう」
斉彬は、そう云って、書付を、久光の前へ、披げておいた。久光が、手にとると
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大目付|軍役《いくさやく》 新納《にいろ》刑部
船奉行教育 寺島陶蔵(後の伯爵外務卿、寺島宗則)
船奉行 五代才助
右カビテン視察の事
開成所掛大目付 町田民部(後の久成、元老院議官)
小姓組番頭 村橋直衛
当番頭 畑山良之助
同 名越平馬
右陸軍学研究の事
開成所訓導 鮫島誠蔵(後の尚信、フランス公使)
右文学研究の事
医師開成所句読師 田中静州
右医学研究の事
医師 中村宗見(後の博愛、オランダ公使)
右化学研究の事
開成所英学諸生 森金之丞(後の有礼、子爵文部大臣)
開成所句読師蘭学 吉田巳之次(後の清成、子爵)
開成所諸生 東郷愛之助
同蘭学 町田申四郎
同 町田謙次郎
奥小姓開成所入学 市来勘十郎(後の海軍中将)
右海軍測量科研究の事
開成所諸生英学生 磯永彦助(この人が、現在唯一の生存者)
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「頂いておきます」
久光は、巻き納めて、押し頂いて、懐へ入れた。
「今は、何うにもなるまいが、わしの大船禁造を解くことも、容れられたし、開国も、天下の勢いとして、実行されようし、時機が来たなら、この諸生共を、それぞれ異国へやって、その学文も見習わせるがよい。化学のことに就いては、それに興味のある者が、中村の外に見当らぬ故、追って銓衡《せんこう》するとしよう」
「化学は、兄上につづく者ございますまい」
「だから、父上のお残しになった金を、化学の判らぬ人々の中で使いたくない。然し、久光、三十年、いや、二十年で、わしの志は、天下の志になるぞ。わしは、それだけ
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