叫んだ。そして、指の間へ、脇差の柄を握らせて、指を押えると、暫く、指を動かしていたが、柄を滑らせると一緒に、眼を閉じてしまった。大きく、肩で呼吸をした。義観が
「腹も切れずに死んだ」
と、いって、立上った。月丸の脚へ、大きい痙攣《けいれん》が来た。草の上で、血まみれになって、二三度、手足に痙攣が来ると、動かなくなってしまった。誰も、暫く黙っていた。義観が
「戻ろう。ここの始末は、又、後じゃ。庄吉を、扶《たす》けて」
と、小太郎にいって、二人は、庄吉の左右へ、膝をついて
「立てるか」
「ええ――や、野郎め、死にましたかい」
庄吉は、呟いた。そして、眼を閉じた。
移り行く
「久光様が、お渡りでござります」
と、次の間から、坊主の声がした。斉興が
「うむ」
と、云った時
「未だ、お臥《やす》みではあるまい」
と、いう声がして、足音が、襖の外で、止まると
「父上」
と、襖が開いた。斉興は、じろっと、見たまま、煙草を喫っていた。久光は、坊主の持って来た褥《しとね》の上へ、坐ると
「早く行け」
と、坊主に云って、次の間の者へ
「皆、暫く、遠慮致せ」
と、叫んだ。斉興が、上眼に、じろっと、久光を見て
「何んじゃ」
「家の重大事に就き、夜中を憚《はばか》らず、参りました」
「わしの隠居のことか」
「左様」
「わしは、隠居をしてもええ――隠居をしたい。然し、隠居をすれば、家のつぶれることは、眼に見えている。隠居をせんでも、家は、そう濫りにつぶせるものではない」
「幾度も、聞いております。兄上の政策が、多大の金子を費し、折角、父上なり、笑左なりの立直したる藩財を、又、空しくするであろうとの御懸念で、ござりましょう」
「それのみではない。不逞の浪士輩に、担ぎ上げられて、倒幕の、攘夷のと、大外れた事をしでかすかも知れぬ。それに、斉彬の代となれば、わしが、今度国許で処分した奴等の余類《よるい》を取り立てて、上席の者を、悉く、処分するかもしれぬ。そうなると、いよいよ、島津の内訌《ないこう》は、天下に知れ渡って、これがためのみでも、転封されるかも知れん。それよりも、今暫く――機をみて、お前に、譲ろうと思うが――」
久光は、父の顔を、鋭く見て
「要りませぬ」
と、頭を振った。
「要らんなら、要らんでよい」
「父上は、茶壺と、十徳とを、二度拝領なされました」
「うむ、隠居せい、との謎じゃ。二度も、謎をかけられたのは、三百諸侯、三百年間、わし一人じゃ。あはははは」
久光は、懐へ手を入れて、書付を出して来た。
「読み上げます」
[#ここから3字下げ]
私領琉球国へ滞留罷在候異国人共之儀に付而者《ついては》、追々|被仰達候《おおせたっせられそうろう》御趣旨之旨、相心得致指揮《あいこころえしきいたし》、仏蘭西人者、無異議引払、英国人は未だ滞留いたし居候得共、国中一統人気も平常に帰し――
[#ここで字下げ終わり]
「わしの禀申《りんしん》書ではないか」
「はい」
「それが、何うした?」
「父上、その禀申書に、書いてござります、琉球国無事安穏のことは、悉く、偽りと、幕府要路へ知れておりまするぞ。今一通――島津将曹の分――」
久光が、読みかけると
「判っている」
久光は、又、懐へ手を入れて
「今一通――これは――」
と、云って、紙を、披げると
「島津豊後と、末川近江より、石見宛の書面、これも、阿部伊勢の手に入っております」
「誰が、左様の密書を――」
「判りませぬ」
久光は、口早にいって、頭を振ると
「読み上げましょう」
と、鋭く云った。
[#ここから3字下げ]
去年十一月七日、英国船一艘、那覇へ来着、彼国軍機大臣より、更に有無之品、致交易度《こうえきいたしたき》趣之書状持越、又者右船乗頭よりも、同様交易筋之儀申聞候に付、去午年、仏国大総兵交着之節、和好交易等相断候趣を以て――
[#ここで字下げ終わり]
「誰から、左様の物を手に入れた」
斉興は、大声で云って、久光を、睨みつけた。
「当路の人より」
「誰じゃ」
「申上げられませぬ」
「美濃か」
「申せませぬ」
「貸せ」
突き出した斉興の手は、微かに、顫えていた。そして、一通り目を通すと、久光が
「何故、異国人共の交易強要のあったことを、無い、無事だ、国中一統人気平常だと、偽りになりました。この一点で、上《かみ》を欺いたるものとして、改易にされても、恨むべき筋はござりますまい。何故、かような小刀細工《こがたなざいく》をしてまで虚位虚名を、お望みになります?」
「虚位虚名?」
「そのことも、上には、御承知でござりまするぞ。国許の平穏を装い、異国との交渉は無事解決と偽り、その功によって、三位に進まんとするお心でござりましょう。今更、三位に進んで、何になりましょう。正四位上宰相、松平大隅守として、何不足がござります。この上に、密貿易《みつがい》露見のこともあり、今度の騒動のこともあり、隠居せよとの謎を、二度も受けておりながら、のめのめと――」
「何が、のめのめじゃ。何んという言葉を使う」
「殿中にても、世上にても、左様に申しております」
久光は、手早く、将曹から、幕府へ報告した文面の写しを、取り上げて
「この、禀申書の如き、署名は、ただ、将曹一人、藩老の連署が無くて、何故、この藩国の一大事件を、上へ通達するような、軽々しきことをなされました。これも、悪く推察すれば、余人に洩しては、反対されるおそれがあってのことでござりましょう。何故、あったことを有りのままに、通達なされませぬ。この事実の隠蔽《いんぺい》によって、異国係としての兄上の板挟みの苦境が、お判りになりませぬか? 母上のなさるような浅墓な企て、幕府とて、目もあれば、耳もござりますぞ。まして、天下に攘夷、開国論の盛んなる折柄、異国船の来て、交易を強要したという重大事が、洩れずにおりましょうか。琉球が、辺僻の地などと、そんなことを考えて、匿せば、匿せ得るものと、お考えになっているお心が、判りませぬ。もし、兄上に、失政があれば、その時こそ、久光、兄を押除けてでも、御家を継ぎましょう。当今天下第一の人物として、上下より称讃されている兄上を、当主にせぬなどと、父上、ちと、愚にお返りではござりませぬか。お為派崩れに加担した軽輩共を取立てて、上席の者を処分するであろうなどと、余り、兄上の心に、お察しが無さすぎますぞ。お為派の者が、兄上に、何をすすめても、ただ父上の御意のままに、と、国許の、彼等の陰謀も、所詮《しょせん》は、兄上が押えつけて、その申し分を用いなかったがための蜂起とは判りませぬか? 手前に、家督を仰せつけられる御慈悲がござりますなら、手前の、この申分をお聞き入れ下さりませぬか? 父上のため、家のため、いや、天下のために、兄上を――兄上は、天下のために、父上のために――何んなに、苦労を――子供を――殺されても、愚痴一つ、洩さずに――」
久光は、涙を浮べて、声をつまらせた。斉興は、黙っていた。
将曹は、腕組をして、首を傾けたまま、黙っていた。お由羅は、すきやの着物の、襟裏を返し、少し、くつろげた胸の、濃化粧に、その襟裏の紅縮緬を映えさせて、煙草ものまずに、黙っていた。二人とも
(今、斉彬が相続しては、自分達の努力が、水の泡と、消える)
と、いう感じで、胸を圧えつけられてしまっていた。
(斉彬が、相続すれば、当然、その反対派の吾々共を、処分するだろう。何う、処分しても――何んなに軽い処分でも――)
将曹は、自分の位置として、斉彬のやり方として、斉興が、お為派に加えたような処分はしないとしても――
(役は変えられる、罷免される――命にも、石高にも別条は無いが――然し、現在の役を誰かに代えられたなら、それで、万事は、水泡に帰する)
将曹は、自分達の計画した、斉彬の世嗣を、呪殺するということが、余りに、うまく運びすぎたことに、喜んでもいたが、その底では、薄気味悪くもあった。
(お家のために、その方がいい。斉彬を、相続させてはならない)
と、いう信念が、相当に固く、あるにはあったが、呪殺という手段のことを考え、何も知らぬ幼児の、次々と、死に行く様を見ると、その死の――その幼児の怨みの幾分かは、自分へかかってくるような気がして、余りに、その死が、うまく運ぶゆえに、自分の命のことに対しても、気味悪さが、感じられた。そして、何《ど》っかに、悪いことをしているな、というような感じがあって
(お家のためだ――)
と、思ってみても
(余り、上手に、事が運びすぎる)
と、却って、不安になり
(ものは、満つれば欠ける、というが――)
と、自分達の、陰謀が、いつか、破れるような気さえした。
「斯様《かよう》なことも、考えないでは、ござりませなんだが――」
と、将曹が、呟いた。
「余り早すぎて――」
お由羅は、黙ったままであった。
(斉興が、隠居をすれば、妾は、四国町へ下げられるかも知れぬ――下げられるだけならよいが、あの軽輩共は、殺しに来るかもしれぬ)
お由羅にとって、斉興を隠居せしめて、斉彬を立てようとする幕府の圧迫が、こんなに強く来ようとは、考えられぬことであった。
(斉彬を、殺す外にない――)
二人とも、そう考えはしたが、斉彬を殺すということは、同時に、自分らも、久光も、殺されて、島津の家が滅亡することであった。斉彬を殺したなら、軽輩の人々が、何をするか――その人々の気持は、十分、二人に判っていた。
(牧に命じて、呪殺を――だが、牧は、いつかの日、斉彬のような、心の強い方は、効き目がないと申していたが――それでも、牧の外に――)
と、思うと
「牧は、何処に居りましょうかの」
「さあ――」
将曹は、矢張り、腕を組み、首を傾けたままであった。
「捜して――」
「事ここに致っては、大殿に、飽くまで、隠居することを、拒絶して頂くの外に、ござりますまい。お方」
将曹は、腕を解いて、じっと、お由羅の顔を見た。
「お上も、近頃は、すっかり、気が、弱くおなりなされてのう」
「さ、それを、寝物語で一つ――何んとか、それより外に、差しずめの方法として、ござりますまい。それに、何よりも困るのは――久光公の、兄|贔屓《びいき》――」
「それが、妾にものう」
お由羅が、そう答えた時、遥かの外から
「御家老様へ申し上げます」
という、女の声がした。
「何んじゃ」
将曹が、大声で答えると
「久光様、お召しでござります」
将曹は、暫く、黙っていたが
「只今参ると、申し上げておけ」
そういって、振返って
「何しろ、幕府の方に於ても、手許《てもと》不如意《ふにょい》の上に、異国のことは、誰も、心得ておりませぬから、一にも、二にも、斉彬斉彬と、斉彬公を引出して、金と、智慧とを一時に、絞り取ろうと、幕府が必死になっているだけに、容易なことではござりませぬ。茶壺を出した上に、十徳を出して、二度も、隠居せよと――大殿も、意地になって、隠居するなど、気振りもお見せになりませぬ、と、今度は、お為派崩れを口実に、密貿易を口実に、何処までも、隠居をさせようと、この強硬手段に出る以上、ただ、頼むところは、大殿のお心の固さ一つ、それを固めるのは、お方の、その腕一つ――吾々のためではござりませぬ、当家の存亡にかかわること。何卒一つ、十分に――」
「妾も、それは、心得ますが、牧の行方を調べて、牧の意見――斉彬を、呪えるか、呪えぬか、何より、かより、それが一番大事なことゆえ、心利いた者を、すぐに、走らせてもらえませぬか」
「心得ましてござります」
将曹は、暫く考えていたが
「こちらより、両三人の者を――お方には、誰か、心づいた者がおりませぬか」
「ここより人を出しては、目に立つであろうがな。それより、京か、大阪の邸の者に、頼んで――」
「いいえ」
将曹は、首を振って
「京、大阪には、不逞者が、近頃うんと居りまして、却って、危うござります。斉彬を担ぎ上げて、幕府を倒そうなどと――この風説一つだけででも、幕府としては、聞きずてにならぬのを、知らぬ顔をし
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