、深雪の手が、刀の柄頭から離れると
「えいっ」
 抜討ちに、斬った――庄吉が、余りに、近づきすぎていた。月丸が、そのため、一足退ると、深雪に、どんと、ぶっつかった。そして、臂も、十分に、延びなかった。だが、庄吉は
「わっ」
 と、叫んだ。顔中を歪めた。肩から、血が、見るみる着物の上へ、しみ出してきた。
「き、斬ったなっ」
 庄吉は、狂的に叫んだ。そして
「お嬢さん」
 庄吉の眼の表情に、月丸は、はっとした。それは、深雪が、柄頭から、手を放して、倒れかかるはずみに、脇差の方だけは、そのまま深雪の手に、抜かれて、残っているのを庄吉が見ている眼だ、と感じたからであった。その庄吉の眼、叫び――月丸は、反射的に、身体を躱して、深雪の襲撃に備えた。だが、ほんの一瞬の、油断が、その刹那を遅くした。白い刃の走りを見
(しまった)
 と、感じ、深雪の乱れた髪、血走った眼を、ちらっと見た時、月丸は、腹の中へ、灼熱した棒を、突き通されたように感じた。灼痛《しゃくつう》に、全身が、凝固するように、硬くなった。

 月丸の、右手は、反射的に、深雪へ打ち込もうとして動いた。油断を打たれた口惜しさと、軽侮していた者に、負けた無念さと――後悔、憤怒、恥辱――そんなものが、眼の中へ、凄い光になって、現れていた。深雪は
(兄上、父上、妾は、ここで殺されます)
 と、心の中で、叫んだ。
(でも、一太刀は――お姉様、仇敵を、取りました)
 深雪は、掌の中へこたえた手答えが、どのくらいの深さのものだか、判らなかったが、それでも
(十分)
 と、いうような感じがした。
「くそっ」
 庄吉は、野獣のように、吼吠《こうはい》した。歯を剥き出して、眼を血走らせて、狂った獣のように――月丸が、深雪へ、斬りおろそうとした腕へ、突いてかかった。
「うぬっ」
 月丸は、深雪を、斬ろうとした刀を返して、庄吉の突きを、よろめきつつ、躱けて、打ち込もうとした。庄吉は、躱された刹那
(退いては、斬られる)
 と、感じた。そして、本能的に、短刀をすてて月丸へ、獅噛みついてしまった。
「ううっ」
 月丸の歯の間から――食いしばった歯の間から、洩れる声が聞えた。
 庄吉が、身体をぶっつけて、獅噛みつくのを、振切ろうと、月丸が、身体を、振ったはずみに、深雪は、月丸の腹に突き立っている脇差から手を放して、立ちすくんでしまった。
(庄吉が、斬られた)
 と、感じて、手も、肩も、固くして、ちぢみ上らせた。だが、庄吉は
「危いっ、お嬢さんっ」
 と、叫びつつ、振りとばされそうなのを、全力で――襟へ、左手を、右手の二の腕で、刀の手を押えて、脚は、脚へ――そして、歯と、顎とへ、全身の力を込めて、月丸の肩へ、かぶりついてしまった。
「ああっ、誰かっ」
 深雪は、月丸の眼が、苦痛と、憤怒とで、飛び出すだろうと、思った。月丸の眼は、人間の眼でなくなっていた。突き立ったままの脇差が、綱手と、七瀬との怨みを含んでいるように、月丸が、左手で庄吉の髻《もとどり》を掴んでも、二人が、身体を捻じらせて、草を踏み倒し、踏みにじり、獣の格闘の如く、呻《うな》っても、吼えても――脇差は、月丸から離れまいと、突き立っていた。
「庄吉」
 深雪が、叫んだ。
「お師匠さん」
 そう叫んだ時、月丸は刀をすてて、庄吉の帯へ手をかけた。深雪は、月丸が、刀を棄てたのを見て
(あれさえ、すてたら――)
 と、握りしめている手を顫わして、ほっとしたが――すぐ、庄吉が、髪の毛を、掴まれて、捻じ曲げられているのを見ると
(妾を助けるために、庄吉があんなに――)
 と、思った。と、同時に、顫えながら、立っている自分に、気がついた。
(死ぬつもりをしていながら、卑怯な)
 と、感じた。
(兄に見られては――いいや、庄吉の、あの死物狂いに対して、恥かしい)
 そう感じると、手早く、懐剣の紐をといて、顫える手に握りしめると、月丸が剥き出した、歯を、眼を、庄吉へ向けて、捻じ倒そうとしている隙へ
「庄吉、しっかりして――」
 と、叫びざま、月丸の、手へ、斬りつけた。

「危い」
 庄吉が、叫んだが、庄吉の声でないように聞えた。それと同時に、深雪は、胸を突かれ、脚を蹴られて、よろめくと、草の中へ倒れてしまった。それと同時に、地響きがして、庄吉と、月丸とは、組合ったまま、草の中へ転がった。荒い呼吸と、ひーっという悲鳴に似た呻きと、ううっと、短い唸りと、草の動きと、土の飛ぶのと――深雪は、すぐ、眼の前に、そうしたものの、狂闘を見た。
 土が、弾ねた。灌木が、へし曲った。脚がからんで、空を蹴り、草の上を滑った。手が閃いたし、血眼の眼が、ちらっと見えると、剥き出した歯が現れ――いつの間にか、月丸に刺していた脇差が、とれてしまい、そして、二人の胸は、顔は、掌は、血だらけになってしまっていた。
 深雪は、半分身体を起して、短刀を持ったまま、片手を地について、肩で呼吸をしていた。庄吉に、声をかけたかったが、咽喉が、からからであった。短刀を、握っているのか、動かせるのか、もう、力も、何も、感じなくなっていたし、立とうとしても、膝頭が曲らなかった。それでも
(庄吉――)
 と、心の中で、叫んで、左手で、土を掴んでいた。そして、月丸へ、それを抛げつけることが、いくらかでも、庄吉を、助けてやるような気がしたが、二人の格闘の狂暴さに、抛げつける暇もないし――深雪の、逆上した頭の中にさえ、恐怖と、惨酷とだけは、いっぱいになって、ぼんやりと、それを眼で凝視めながら、頭の中は、その光景に、狂いそうであった。
(兄様――)
 と、ちらっと、感じた。
(庄吉が、殺されます)
 そう思うと、自分が、庄吉を殺すように思えた。深雪は、這《は》って、近づこうとして、身体を、起すと
「野郎っ」
 南玉の声であった。深雪の、うつろになったような頭の中に、眼の中に、棒を振上げた南玉の姿が、写った。そして、そのうしろに、小太郎の顔があった。
(兄様っ――)
 と、叫ぼうとしたが、何んだか、身体が、地の中へ、落ちて行くようで、兄の顔が、急に遠くなった。
(しっかり、しなくては――)
 と、思って、自分の手を、握りしめると、南玉が、棒を振上げていた。
(庄吉――)
 と、思うと、草の中に、黒い凝固《かたまり》が、動いていた。胸がはだけて、血が見えていた。
(庄吉が、死んだ――殺された)
 と、思うと、眼の前が、急に、暗くなって、頭を、後方へ、引倒されるように感じた。そして、それに抵抗しようとしたが、ずっと、穴の中へでも、急速度に、落ちて行くように感じると――何も、判らなくなってしまった。
「深雪」
 と、叫んだらしい声だけが、ちらつと、耳の中へ聞えたようであったが
(師匠らしい)
 と、感じただけで、もう、二人の死闘も、血も、草も、山も、月丸も、感じなかった。

「深雪さん」
 と、いう微かな――遠いところで、誰かの呼んでいる声がした。深雪は
(声がした)
 と、感じた。だが、それが、自分の名であるか――何んであるかさえ、判らないくらいに――微かにしか働かない頭は、記憶も、判断も無くなっていた。だが、もう一度
「お嬢さあーん」
 と、呼ばれた時
(ああ、誰か、遠くで、自分の名を呼んでいる)
 と、感じた。そして、その、呼んでいる声が、南玉の声だと、判ると同時に
(気を失った)
 と、知った。そして、そう判ると共に
「庄吉」
 と、口を動かした。頭の中、眼の奥には、血潮の散乱と、剥き出した眼球、破れた着物、掴み合う手、その手の中の乱髪、刀、踏みにじられた草、折れた灌木――そんなものが、入り乱れていた。
(ああ、二人のあの格闘、あれは、何うなったか)
 深雪は、脚に、腕に、痛みを感じながら、不安と、恐怖を、全体に溢れさせて、眼を開くと、南玉の顔と一緒に、頭の中を、眼から突貫くような太陽の烈しい光を見た。そして、眼を閉じた。
「お嬢さん、しっかり――」
「庄吉は?」
 深雪は、眩暈《めまい》を感じながら、細く眼を開いて、庄吉が、何うしたか、見ようとした。
「気がつきましたよ」
 と、南玉が、誰かにいった。
「庄吉っ」
 深雪は、そう叫んで、庄吉の答えのないのを思うと
(殺された)
 と、感じた。
(床吉は死んだかしら? もし、そうだったら、自分だけ、生きていては、庄吉の志に対して面目無い。あの男の尽してくれたことに、何一つ報いないで、殺しては、人の道に外れる。何も出来ぬが、自分のために殺された人へは、自分も亦、死んで――)
 と、思った。
「お師匠さん――」
「さ、しっかり。お堂へ行って」
 と、云いつつ、南玉は、抱き起そうとした。呻き声が、高く聞えた。
(庄吉だ)
 と、思うと、深雪は、心臓が、凍るようであった。
「月丸、武士らしく、自裁するがよい」
 小太郎の声であった。深雪は、はっきり、眼を開いた。小太郎の脚下の草の上に、庄吉が臥《ね》ていた。そして、その枕辺に、義観が、手当をしているらしく、うずくまっていた。月丸は、草の中に、俯向きに、倒れたまま、呻いていた。深雪は、南玉の手の中で、痛む身体を、起しながら
「庄吉は?」
「庄吉? 大丈夫、さ、早く、お堂へ行って。しっかり、つかまって――傷は無えんだ。さ、しっかりして――」
「お師匠さん、庄吉は? 本当に?」
「彼奴は、不死身だ。歩けますかい」
「ええ」
「えらいことをやんなすったねえ。月丸の野郎、あの一刀で、斃《くたば》っちめえやがって。ええ、もう断末魔だ」
 月丸は、手を、草の中へついて、身体を起そうとした。髪は、元結《もとゆい》が切れたらしく、乱髪になり、着物が裂け、顔も、頭も血まみれで、乱髪が、頬に、額に、血と共に、こびりついていた。深雪は、自分がそうしたと思うと、何かしら、恐ろしさを感じた。

「さ、急所は、外れておる」
 義観が、そう云って、立上った。
「お嬢さんは?」
 庄吉の声であった。深雪は
「庄吉」
 と、われ知らず叫んで、ちらっと、小太郎の顔を見て
(はしたないと、叱られはすまいか)
 と、思った。だが、総てを忘れて、そう叫んだ瞬間は、嬉しさで、いっぱいであった。
「ええ」
 と、庄吉が答えた。
「動いてはならぬ。そのまま、臥ているがよい」
 義観は、そう云って、深雪を見ると
「先へ戻るがよい。もう済んだ。死人の始末は、坊主の役じゃで――」
 と、云って、月丸の背後へ廻ると、腋の下へ両手を入れて、胸を押えてみた。小太郎が
「呼吸は、ござりましょう」
 義観は、頷いて、膝を、背へ当てると
「こらしょ」
 と、云って、ぐっと、活を入れると共に、月丸が
「うう――ううーん」
 と、唸りつつ、脣を、手を、脚を動かした。だが、眼は閉じたきりで、脣は、紫暗色に変じ、頬は、血の中から、灰紫色に見えていた。
「月丸っ」
 小太郎が、叫んだ。
「無念」
 低く月丸が呟いて――だが、上げかけた頭を、又、垂れてしまった。義観が、背後から、抱いたままで
「月丸、自裁せい。な、武士らしく、自裁せい」
 と、耳のところで、叫んだ。月丸は、袴の地の判らぬくらいに、血を流し、血をなすりつけている腰の辺へ、手をやった。手は、顫えてもいたし、もう、感覚がないらしく、腰の辺りで、ただ、指が、動いているだけであった。
「刀か」
 答えが無かった。
「刀か」
 肩で大きい呼吸をすると、指が動かなくなった。だが、眼を細く開けた。然し、もう、瞳は濁ってしまっていて、視点が乱れ、力も、光も無くなっていた。
 今まで、兇猛な獣の眼のように光った眼であったが、眼が、その光を無くすると共に、脣も、鼻も、眉も、おとなしくなってしまった。血に染んでいるだけで、死に行く人の平和さが、顔中に、現れていた。
 小太郎は、それを見ると、ずかずかと、近づいて、深雪が、月丸を突き刺した脇差を拾い上げると、月丸の前に、しゃがんで
「綱手のところへ、行け」
 と、叫んだ。月丸は、眼をしばたたきながら、瞳の乱れた眼で、何かを凝視するように、じっと、上の方を見て、微かに、笑顔をした。
「腹を切れっ」
 耳許で、
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