と、蒼白い怒りが、心の底から、顫え上ってきて、肌の上へまで、しみ透ってきた。月丸は、じっと、深雪の顔を見て
「よう似ておる。瓜二つじゃ」
と、呟いた。
「貴下様は、百城――月丸、様」
月丸が、頷いた。深雪は
(姉上の仇敵)
と、すぐ、叫ぼうとしたが、息切れがして、叫べなかった。そして、全身が、顫えているので
(もっと、落ちついてから――)
と、思った。南玉も、庄吉も、蒼白になっていた。
「姉上を、不覚にも、手にかけて、只今、あの墓へ――あの墓へ、綱手殿の形見の鏡を――肌身放さずに持っておった鏡を、埋めて――そら」
月丸は、微笑して、両手を、突き出して、指を拡げた。爪の間に、土が入っていたし、手も汚れていた。
「何んと申そうか。ここでお身に、お目にかかろうとは、綱手の、手引きであろうか――今も、墓の前で、武士を捨てて、一生、墓守になろうかとも存じて、情無くも、御覧の如く泣いて。お嗤《わら》い下されい。兄上の、小太郎殿とは、敵味方ながら、己が、一生を契った綱手殿を、己が手にかけて――只今、ふっと、お顔を見た時、身の内より、ぞっとして、おお、綱手が、と――」
月丸は、未だ、深雪の顔を、じっと、眺めたままであった。深雪は
(考えていたほど、悪い人ではなさそうだが)
と、思うと共に
(何故、母まで、殺して――)
と、思うと、その、凝視している月丸の眼を、怪しい精のように、感じた。
「定めて、憎く思われようが――全く、過って――」
庄吉が
「何故、七瀬殿を、お殺しなさいました」
鋭く云った。月丸は、ちらっと、横を向いて、庄吉を見て
「七瀬殿か。あれは、四ツ本氏が、斬ったのじゃ」
「卑怯なことを、仰しゃいますな」
「卑怯っ」
月丸は、鋭く、庄吉を睨んだ。
「卑怯?――何が卑怯っ」
「自分が、殺しておいて――」
「うぬら、下素下郎に、武士の、卑怯、卑怯でないが、判るかっ」
「何っ」
庄吉は、一足退った。そして、懐の短刀を、懐の中で抜いた。そして
(こいつを、突き出すが最後、ずばりとやられるかも知れねえんだ)
と、感じると、脣も、額も、色が変ってきた。そして、ちらっと、深雪の方を見ると、深雪も、蒼白になっていた。
「白々しいことを抜かすなっ」
庄吉が、こう叫んで
(深雪が、斬りつけて行ったら、飛び込んでやろう)
と、思った。月丸が、右手を刀をかけようとして、忘れていた臂の痛みに、一寸、手を止めた。
「もし、貴下――百城様」
南玉が、少し離れたところから、声をかけた。
「貴下は又、七瀬様が、その四ツ本と仰しゃる人に、殺されなさるのを、何うして、黙って――」
月丸は、険しい眼で、南玉を見て
「貴様、何者じゃ」
「手前? こういう親爺で――」
深雪は、二人の話の間に、手早く、襷をかけた。庄吉が、それを見て
「野郎っ」
と、叫んだ。そして、短刀を、突き出して
「なあ――さあ、来いっ。江戸の巾着切の胆っ玉を見せてやらあ」
「待て、庄公」
と、南玉が、手を突き出して、叫んだ。その途端、深雪が
「百城様」
と、声をかけて、脇差へ、手をかけて
「姉の仇敵」
脣を結んで、喘いでくる呼吸を、鼻で押えて、そこまでいうと、鋭く、百城を、睨みつけて
「尋常に、勝負なされませ」
一足進もうと思ったが、膝頭が固くなってしまって、曲らぬようであったし、呼吸が乱れてきて、大きく吐かぬと、苦しくなってきた。
(お由羅様へ、斬りかかった時のような、不覚をとらぬよう)
と、思ったが、月丸への憎しみと、憤りの心ばかりが、先に立って、息も、脚も、自由にならなかった。
(こんなことでは、一太刀も、斬らぬうちに、斬られてしまう)
と、思った。だが、月丸の返答の無いうちは、刀を抜くまい、それが作法だと、柄へ手をかけたまま、抜かずにいた。
月丸は、庄吉を一打ちにしようと、睨みつけていた眼を、深雪に向けて
「仇敵?――綱手の?――いかにも」
と、云って、頷いた。
「深雪さん――危い。そりゃ、無茶だ。そんなことで、貴女――」
南玉は、深雪の横へ来て
「討てるものか。そりゃ、貴女の気性として――」
と、腕へ手をかけた時
「綱手の仇敵? 成る程――無理も無い。討たれてやりたい――その志に免じて」
月丸は、蒼白な顔に、冷たい微笑をしながら
「綱手も、喜ぶであろうが――」
じっと、深雪を、凝視めていて
「あはははは」
と、笑い出した。
三人は、じっと、月丸の顔を、眼を、脚を、手を、凝視めながら――それを、凝視めているの外
(今に、大変なことが起る)
と、いう恐怖に、肌を、冷たく、顫えさせているの外――山の静けさも、物音も、何も感じなくなっていた。
南玉は、脚も、手も、顫わせながら
(折角、ここまで、漕ぎつけて、ここで、深雪さんを殺しては――)
と、思ったが、何うすることも、できないので、手近い、灌木の枝を、しっかり掴みながら、捻じ折っていた。
庄吉は、すっかり逆上してしまって、その眼は、殺気に輝いているし、米噛《こめかみ》は興奮にふくれているし――月丸の隙を覘《ねら》っていたが、微かな不安と、恐怖とがあって、突込んで行けば、抜討を食うかもしれないし
(深雪の出ようによって――深雪への出ようによって、斬られるのは承知の上で、眼をつぶって一突き――)
と、深雪と、月丸との間に立っている殺気の崩れ方を、考えていた。
「ははははは」
月丸の笑いは、刀を抜いたよりも、凄かった。それは、可笑《おか》しいからの笑いではなかったし、又、嘲笑した笑いでもなかった。もっと、空虚な、病的な、狂人に似た笑いであった。口だけが、笑っていて、声も、眼も、冷やかであった。
そして、三人が、その笑いに、無気味さを感じた時、月丸の眼は、もっと、凄く、険しく光っていた。そして、その上に、殺気が立ってきていた。
「綱手の妹と思えば、しおらしいが、小太郎の妹――何れ、遠からんうちに、死ぬる月丸じゃ。うぬらの一家を、悉く、月丸の手にかけてくれる。父が、斉彬のお世嗣を呪殺したる如く、うぬらの一家を、悉く、わしの手で、亡ぼしてくれる」
月丸は、じいっと、一足進んだ。深雪が、脇差を抜いた。南玉は、力任せに、木の枝を捻じ切って
「危い、深雪さん」
と、叫んだ。月丸は、左手を、鯉口へかけて、柄頭《つかがしら》を、じりっと、上へ突き出しつつ
「うぬら両人――」
と、左右を、睨みつけて
「斬られたいか」
南玉も、庄吉も、もう口が利けぬくらいに、呼吸《いき》づまり、緊張し、興奮してしまっていた。
月丸の顔に、赤味がさしてきた。殺気とも、微笑ともいえぬ閃きが、深雪の顔へ、そそがれていた。
「深雪」
月丸は、その眼から、脣へ、微笑をうつしてきて
「脇差を捨てい」
月丸は、綱手の、若葉のような耳朶を思い出していた。赤く、差恥に染んだ時、濃い白粉の刷かれている時――その二つながらの時に、囁いた言葉――張り切って、艶やかな四肢、閉じている眼瞼のうるおい、喘ぐ呼吸に動く鼻翼《こばな》、少し開いた脣と、歯。ひそめた眉の媚めかしさ――月丸は、一生をかけた綱手のその面影を、もう一度、深雪の身体の上で、見たいと思った。
(この山中の、人のおらぬところで――そして、殺してしまって――)
月丸は、全身に熱を含ませながら、綱手とのことを思い出し、深雪とのことを考えて
(この思いを遂げた上でなら、小太郎に殺されてもいい)
と、まで感じた。
「無益《むやく》の、腕立て」
月丸は、微笑しながら――だが、その眼を淫獣の如く輝かせて、深雪の方へ、一足踏み出した。
「野郎っ」
と、庄吉は、絶叫した。月丸の口へ出さない心が、庄吉には、愛する者の、鋭敏な心の働きとして
(もしかしたなら――)
と、感じていた。そして、それを感じると共に、危険さを、忘れてしまった。庄吉は、短刀を突き出して、鶏の羽摶《はばた》くように、片袖を翻しつつ、飛びかかった。
月丸は、躱して――斬ろうとした。その隙へ
「やあ」
深雪は、庄吉の危険さに、心を縮み上らせて、夢中に斬込んだ。月丸は、その刀を、柄頭で受留めて、立直ろうとしている庄吉の腰を蹴った。庄吉は、転がるまいと、もがきながら、それでも、一つもんどり打って、転がった。
「若旦那」
と、南玉が、叫んだ。
「お嬢さん」
深雪は、月丸が、左入身《ひだりいりみ》に、つつと、近づいて来たのへ、斬込むことが出来なくて、一足退った。その、退った刹那に――深雪が、斬込もうとした瞬間に、月丸は、深雪の手を、握ってしまった。
深雪は、身体を曲げ、手を曲げ、顔を歪めて、抵抗したが、痛みに耐えきれずに、脇差を放してしまった。
月丸は、処女らしい、滑らかな肌、暖かすぎるぐらいに暖かい肌、汗ばんでいる肌に、興奮を感じながら、深雪が脇差を落すと共に、左の腋下へ、素早く手を廻して、背から、抱き込んだ。
「畜生っ」
庄吉は、真赤になって、立上っていた。
(もしか、そういうことに――)
と、心をおののかせて、心配したように――深雪が、抱きすくめられているのを見ると、全身の血が、逆流した。
「お嬢さん――お嬢さんっ」
庄吉は、叫んだ。
「師匠っ」
庄吉は、自分ぐらいが一人、斬られてしまったところで、到底、月丸を傷つけることは出来ぬ、と感じた。命を棄てるのは、惜しくなかったが、月丸に、指もさせないで、斬られたくないと、思った。
「師匠。若旦那、呼んで来いっ」
「よしっ」
南玉は、走りながら
「抜かるなよ――逃がすな」
庄吉が、頷いて
「逃がすかえ」
と、叫んだ時、深雪が
「兄を呼ばぬよう」
月丸の腕の中でもがきながら、二人へ叫んだ。庄吉は、頭の中を、叩かれたように、感じた。
(腑抜けだ。こん畜生っ、俺《おいら》あ――何んて、意気地なしなんだろう。命を捨てる、捨てる、と、ほざいておきながら、いざとなった時に――このざまで――)
そう感じると共に
「師匠。いらねえっ」
と、叫んだ。
「野郎」
二間余り離れて、深雪を抱き込みつつ、歩んで行く月丸へ、猟犬の如く、草叢の中から、飛んで行った。
深雪の肌は、綱手の肌よりも、暖かであった。その体温が、月丸の腕から、腋の下から、脚から、月丸の血管の中へ、しみ透った。月丸は、野獣の心以外の、総てを忘れてしまっていた。そして、庄吉を睨みつけながら、左手を、深雪の胸へかけた。指先が、乳房へ当った。深雪は、その指先から、全身を赤くすると共に
(自分も、姉のように、手込めに、逢って――)
と、感じた。それは、微かに、指先が、触れるか、触れぬか、であったが、深雪は、小太郎に対して、顔が合せられぬように、恥辱を感じた。そして、全力的に身悶えして、右手が、自由になった、と感じた時、庄吉の、飛びかかって来る顔を、ちらっと、眼の隅に、感じた。そして、それと同時に、その眼の前に突き出ている柄頭へ、月丸の手のかかってくるのを見た。
(庄吉は斬られる)
深雪は、そう感じて、右手を延した――月丸が
「懲りぬかっ」
と、大喝して、抜討ちにと、柄頭へ手をかけた、その手へ、その延した右手が、必死にからみついた。月丸は、庄吉の、棄身な、突撃を、身体ぐるみで、躱けると共に、深雪の妨げに、激怒した。
「邪魔立をっ」
と、低く叫んで、右手で、深雪の手を柄から放させようと、注意を右手に集めた時、深雪は――足で蹴り、左手を動かし、全身を悶えさせた。
「野郎っ」
庄吉は、逆上してしまっていた。月丸は、執拗に抵抗する深雪に、憤りながら、放すまいと――庄吉を、睨みつつ、二度目の、突きを躱した時
「庄吉っ、突いて――突いてっ」
深雪が、絶叫した。月丸が、力をゆるめた隙に、深雪は、両手で、月丸の刀と脇差を、抱え込んでしまった。
「お嬢さん」
庄吉は、蹴られて、よろめき、躱されて、たたらを踏みつつ、眼と、歯とを剥き出して、めちゃめちゃに斬りかかった。月丸は
(この上は――)
と、思った。そして、左手に力を入れ、右手で、柄頭を持って、一振り――深雪を、突きのけて
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