と、さえいった。だが、牧は
「老師を罰するが如き邪念を挟んでは、兵道の秘呪は、成就致しませぬ」
と、答えた。然し、玄白斎が、牧を追いかけていると知っている人々は、牧の、厳粛な、自分を棄てて、主家のために祈っている、凄惨な様を見ると、それを邪魔する玄白斎が憎くなってきた。
奥の間に、人影が動いたので、人々が一斉に見た。だが、それは、婆が立つ姿であった。が、すぐ婆の後方に――白い髯が、玄白斎が、独りで、ずかずかと出て来た。土間に立っている山内が、睨みつけているのを、平然と、横にして、狭い表の間――駄菓子だの、果物だの、草鞋、付木、燧石、そんなものを、埃と一緒に積み上げてあるところへ来て、立ったまま
「貴島、斎木」
と、呼んだ。
「老先生、御壮健に拝します」
二人は、御叩頭をした。
「牧は?」
「はい」
飽津が、玄白斎の前へ行った。
「加治木老先生、拙者は、島津豊後、用人、飽津平八と申します。牧殿は、大任を仰せつけられて、連日の修法を遊ばされ、只今御疲労にて、よく、御眠《おやす》み中でござります。御用の趣き、某代って、承わりましょうが、御用向きは?」
「いや、御丁寧な御挨拶にて、痛み入る。余人には語れぬ用向きでのう」
「ははあ」
飽津が、何かつづけようとした瞬間、玄白斎が
「牧っ、出いっ」
と、大声で、呼んだ。
「玄白じゃっ」
土間の、山内が、刀へ手をかけて、つかつかと、近づいた。斎木が、眼と、手とで押えて
「老先生っ」
と、叫んだ時、駕の中から
「先生」
低い、元気の無い、皺枯《しわが》れた声がして、駕の垂れが、微かに動いた。
貴島が駕へ口をつけて
「垂れを、上げますか」
と、聞いた。
「出してもらいたい」
「然し――」
垂れが、ふくらんで、細い手が、その横から出た。人々が周章てて手を出して、集まった。飽津が
「牧氏、その御身体で――」
と、いった時、牧は、痩せた脚を、地につけて、垂れの下から、頭を出していた。駕につかまり、人々の手にささえられながら、斎木と、貴島に、左右から抱えられて、牧は駕から立上った。
玄白斎は、牧の顔を、じっと、睨んでいた。三月余り前に、一寸見たきりで逢わない彼であったが――何んという顔であろう。それは、身体の病に、痩せた牧でなく、心の苦しみに、悩みに、肉を削った人の面影であった。力と、光の無くなるべき眼は、却って、凄い、怪しい力と、光に輝いていた。灰土色に変るべき肌は、澄んだ蒼白色になって、病的な、智力を示しているようであったし、眉と眉との間に刻んだ深い立皺は、思慮と、判断と――頬骨は、決心と、果断とを――その乱れた髪は、諸天への祈願に、幾度か、逆立ったもののように薄気味悪くさえ、感じられるものだった。
骨立った手で、駕を掴みながら、よろめき出たのを見ると、玄白斎は、憎さよりも、不憫《ふびん》さが、胸を圧した。
(よく、こんなになるまでやった。お前ならこそ、ここまで、一心籠めてやれるのだ)
唯一人の、優れた愛弟子に対して、玄白斎は、暫くの間
(死んではいけないぞ。お前が、死んでは、この秘法を継ぐものがない)
と、思って、痛ましい姿を、ただ、じっと眺めていた。
牧は、俯向いて、よろよろとしながら、腰掛のところまで行くと、左右へ
「よろしい」
と、低く、やさしくいった。
「大丈夫でござりますか」
牧は頷いた。そして、腰掛へ、両手をついて、玄白斎に叩頭をした。
「御心痛の程――」
これだけいうと、苦しそうに、肩で、大きい呼吸をした。
「某――今度のこと――先ず以て、先生に、談合申し上げん所存にはござりましたが――さる方より――火急に、火急に、との仰せ、心ならずも、そのまま打立ちましたる儀、深く御詫び申しまする」
牧は、丁寧に、頭を下げた。
「ちと、聞いたことがあってのう」
玄白斎は、やさしくいって、髯を撫でた。
「はい、何んなりとも」
「奥へ参らぬか」
飽津が
「牧殿、ちと、御急ぎゆえ――」
「手間はとらせぬ」
「いや、然し――」
牧が、頭を上げて
「斎木、奥まで、頼む」
腰掛に手をついて、立上ると、よろめいた。貴島が
「危い」
と、呟いて、支えた。
「おお、和田も、高木も――」
牧は、奥の部屋の中の二人を、ちらっと見ると、すぐ微笑して声をかけた。二人は、一寸、狼狽して、軽く、頭を下げた。
「御苦労をかけた」
斎木と、貴島が、牧を案じて、部屋に近い上り口に待っているのへ、こういって、手を振って、あっちへ行けと、命じた。そして、膝へ手を当てて、大儀そうに坐った。暫く、四人は、そのままで黙っていたが
「烏帽子で、護摩壇の跡を見た」
と、玄白斎が、口を切った。牧は頷いた。
「お前の外に、あれを、心得ておる者はない」
牧は、又頷いた。
「そうか?」
「はい」
「猟師を斬ったな」
牧は、静かに、低く
「斬りませぬ」
「犬は?」
「犬は、斬りました」
「猟師は、誰が殺した?」
「余人でござりますが――然しながら――お叱りは、某が受けまする」
玄白斎は、又、暫く黙っていた。牧の、素直さに、鋭く突っ込みたくなくなってきた。
「聞くが、牧、鈞召金剛炉の型のある以上、人命の呪咀だのう」
「はっ」
「誰を、呪咀した?」
牧は、はじめて眼を上げた。澄んだ、聡明な、決心と、正しさと、力と、光との溢れた眼であった。
「御幼君、寛之助様で、ござります」
牧のそういった言葉には、少しの暗さも、少しのやましさも無いのみか、自信と、力とさえ入っていた。玄白斎は、自分の想像していたように、斉彬を呪っているのではなかったので、軽く、失望したが
「御幼君をな」
と、いって、すぐ
「前の、お姫《ひい》、お二人は?」
「存じませぬ」
「しかと」
「天地に誓文《せいもん》して」
「御幼君のこと――誰が、申しつけたぞ」
「そのことは、兵道家として――よし、師弟の間柄とは雖《いえど》も、明かすことは――」
「よし、わかった。その言はよい。然らば、聞くが、御幼君と雖も、主は主でないか。そもそも、兵道の極秘は、義の大小によって行うものではない。斉彬公が、又、御幼君が、よし、御当家のため邪魔であるにしても、これを除けよと命ぜられたる時には、兵道家はただ一つ――採るべき道はただ一つ、一死を以て、これを諫め、容れられずんば、腹を裂く。義の大小ではない。仮令、いかなることたりとも、不義に与《くみ》せぬを以て、吾等の道と心得ておる。このことは、よく、説いた筈じゃ。牧」
高木と、和田とは、刀を引寄せながら、黙って、俯向いていた。牧は、眼を閉じたまま、身動きもしなかった。玄白斎は、すぐ、言葉をつづけた。
高木と、和田とは、何う、牧が答えるか、じっと――身体中を引締めていた。表の人々は、一人残らず、こっちを眺めていた。山内は、上り口で、いつでも、駈け上れる用意をしていた。
「斉彬公を――いや、斉彬公を調伏せんにしても、所詮は、久光殿を、お世継にしようとする大方の肚であろう。藩論より考えると、これが大勢じゃ。然し、よし、これが大勢にしても、寛之助様を、お失い申すことは、不義に相違ない。余人は知らず、兵道家としては、久光殿と、寛之助様とを、秤にかけて、一方がやや軽いからとて、不義は、不義じゃ、従うべきではない。牧、わしなら、皺腹を掻っ裁いて、上命に逆った罪をお詫びして死ぬぞ。これがよし、斉興公よりの御上意にしても、主君をしてその孫を失うの不義をなさしめて、黙視するとは、その罪、悪逆の極じゃ。諫めて容れられずんば死す。兵道に尚《とうと》ぶところ、これ一つ、兵道家の心得としても、これ一つ。わしは、常々申したのう。心正しきものの行う兵道の修法は、百万の勇士にも優り、心|邪《よこしま》なる者の修法は、百万の悪鬼にも等しいと――牧、憶えておろうな。何うじゃ」
玄白斎は、静かに、だが、整然として、鋭く、牧に迫った。
牧は、俯向いたままで、微かに、肩で呼吸をしていた。何ういう苦行をしたのか? 玄白斎が、想像していた牧とは、まるで違った疲労した牧であった。一人の命を縮めると、己の命を三年縮めるというが、この疲労、このやつれは、三年や、五年でなく、既に、死病にかかっている人の姿であった。玄白斎は、高木と、和田の前で、自分の気の弱さを見せたくなかったが、もし二人がいなかったなら、この愛弟子の肩を抱き、手を執って
「牧、何うした?」
と、慰めてやりたかった。自分の立場として、兵道守護の務として、牧を、こうして咎めたが、心の中では
(牧が、うまく返辞をしてくれたなら)
と、祈っていた。和田が
「牧殿――御返答は?」
牧は、眼を閉じて、手を膝へついて俯向いたまま、未だ答えなかった。山内が、咳をして
「手間取るのう」
と、土間で、無遠慮なことをいった。
「お答え申し上げます」
牧は、静かに顔を擡《もた》げて、澄んだ眼で、玄白斎を見た。
「ふむ――」
玄白斎が頷くと、牧は、身体を真直ぐに立てた。牧のいつもの、鋭さが、眼にも、身体にも溢れて来た。
「君を諫めて自殺する道、御教訓として忘却してはおりませぬ。然しながら、某自ら命を断つに於ては――この兵道の秘法は、今日限り絶えまする。又兵道は、只今、危地に陥っております。人間業に非ざる修行を重ねること二十年。それで、秘法を会得しても、一代に一度、修法をするか、せぬかでござりましょう。二百五十年前、豊公攻め入りの節、火焔の破頂にて和と判じて大功を立てて以来《このかた》、代々の兵道方、先師達、一人として、その偉効を顕現したことはござりませぬ。徒《いたず》らに、秘呪と称せられるのみにて、ここに十六代、代々《よよ》、扶持せられて安穏に送るほか、何一つとして、功を立てたことはござりませぬ」
牧は、澄んだ、然し、強い口調で、熱をこめて語り出した。
番所の役人らしいのが、大股に降りて来た。用人に、何かいった。用人が、上り口へ来て
「牧氏、まだか」
牧は、振向きもしなかった。
「又、御先代よりの洋物流行《ようぶつばやり》、新学、実学が奨励されて以来、呪法の如きは、あるまじき妖術、御山行者の真似事、口寄巫女《くちよせみこ》に毛の生えたものと――就中《なかんずく》、斉彬公、並にその下々の人々の如きは――」
「じゃによって、呪法の力を人々に、示そうと申すのか」
「よい時期と、心得まする。御家長久のために、兵道のために、又、老師の御所信に反きまするが、当兵道は、島津家独特の秘法として、門外不出なればこそ重んぜられまするゆえ、御当家二分して相争う折は、正について不正を懲らし、その機に呪法の偉力を示して、人々の悪口雑言を醒すのも、兵道のために――」
「黙れ」
和田と、高木とが、一膝すすめた。飽津がまた
「こみ入った話ならば、後日になされとうござるが」
牧は答えなかった。玄白斎も対手にならなかった。
「当兵道への悪口雑言などと、それ程の、他人の批判で、心の動くような――牧、浅はかではないか? 上《かみ》より軽んぜられ、下《しも》より蔑《さげす》まれても、黙々として内に秘め、ただ一期の大事に当って、はじめて、これを発するこそ、大丈夫の覚悟と申すものじゃ。三年名を現さずんば忘れ去るのが人の常じゃ。二百五十年、修法の機がなければ、雑言、悪口、当り前じゃ。先師達は、それを、黙々として、石の如く、愚の如く、堪えて来られた。わしも、秘呪を会得してこの齢になるが、一度の修法を行う機も無い。然し己を信じ、法を信じて来た――」
「先生――先師十六代の二百五十年間よりも、この十年間の方が、世の中も、人心も、激変致しました」
「万象変化しても、秘法は不変じゃ」
「人の無いところ、法はござりませぬ。秘呪の極は、人と法と、融合して無礙《むげ》の境に入る時に、その神力を発しますが、その人心が――」
「ちがってしまったか?」
「自ら独り高うする態度と、兵道を新しくし、拡張し、盛大にせんとする心と――」
「わしは、それを愚かしいと思うが――」
牧は、御家のため、師のため、己のため、兵道のために、命を削っ
前へ
次へ
全104ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング