ろ」
富士春が、顔を少し赤くして、裾を崩していた。益満は、暗い次の間に立っていた。
「へへへ、だんだんよくなるところで、ええ、お出でなさいまし」
一人は酔っ払って、両手をついた。
「刀は?」
「刀?――刀なんぞ野暮でげしょう。野暮な邸の大小捨ててさ――中でも、薩摩の芋侍は野暮のかたまりで、こいつにかかっちゃ、流石の師匠も? 歯が立たねえって――へへへ、御免なせえ」
益満が、富士春の持って来た刀を取ろうとすると、女は、手の上へ手をかけて
「ゆっくりしたら」
と、媚びた眼で見上げた。
「そうは勤まらぬ」
富士春は、益満の手を、力任せにつねった。
小太郎は、嬉しさで、いっぱいだった。何処を歩いているかさえ判らなかった。
(陰謀が、自分の手で暴露されたなら、斉彬公は、何んなに喜ばれるだろうか? あの柔和な眼で、あの静かな口調で、何を仰しゃるだろう?――そして、父は、恐らく、自分が手柄を立てたよりも、喜ぶであろうし、母は、父よりも嬉しがって、きっと、涙をためるにちがいない。二人の妹は――)
小太郎は、次々に、いろいろのことを空想しながら、木箱を、小脇に抱えて、小走りに、夜の街を急いだ。ふっと
(然し、箱の中に、何も証拠品が入ってなかったら?)
と、不安になったりしたが、ことこと中で音がしているし、病室の床下にあったのだし、疑う余地はなかった。
将監《しょうげん》橋を渡ると、右が、戸田|采女《うねめ》、左が遠山美濃守の邸で、その右に、藩邸が、黒々と静まり返っていた。八時に、大門を閉して、通行禁止になるのが、一般武家邸の風であったから、悪所通いをする若者などは、塀を乗越えて出入した。益満など、その大将株であった。
小太郎は、その塀越しの出入口と決まっている切石の立ったところから、攀じ登って、邸の中へ入った。長屋の入口で、ことこと戸を叩くと、すぐ、足音がした。
(未だ、寝ないで、自分の帰りを待っているのだ)
と、思うと、頭の中で
(証拠品を持って帰りました。今すぐに御覧に入れます)
と、叫んだ。
「兄様?」
次の娘、深雪の声が聞えた。小太郎は、戸を一つ叩いた。
「只今――」
二人の足音がした。閂《かんぬき》が外れた。戸が引かれた。上の姉の綱手が上り口に立って、手燭をかざしていた。深雪が
「首尾は?」
低い、早口であった。
「上々」
深雪は、小兎のように上り口へ、走り上って
「姉様、上々」
綱手が、微笑んで、廊下を先へ立った。
「お父様は、お臥《やす》みだけれども、お母さんは、未だ」
深雪が、小太郎の後方から、口早に囁いた。薄く灯のさしている障子のところで、綱手は手燭を吹き消して
「お母様、お兄様が、上々の首尾で、ござりますって」
いい終らぬうちに、小太郎が、部屋の中へ入った。七瀬は、小太郎の膝を見て
「ひどい泥が――」
と、眉をひそめた。二人の妹が
「ああ、あっ、袖も――ここも――」
深雪が立って、何か取りに行った。
「その箱は?」
七瀬が、眼を向けた。
「若君の御病間の床下にござりました。調伏の証拠品」
両手で、母の前へ置いた。
「お父様に、申し上げて来や」
綱手は、裾を踏んでよろめきながら、次の部屋の襖を開けた。
八郎太は、むずかしい顔をしながら、じっと、箱を眺めていた。
「小柄」
七瀬が、刀懸から刀を取って、小柄を抜いた。八郎太は、箱の隙目へ小柄を挿し込んで、静かに力を入れた。四人は呼吸をつめて、じっと眺めた。ぎいっと、箱が軋《きし》ると、胸がどきんとした。
(調伏の人形でなかったら?――)
小太郎は、腋《わき》の下に、汗が出てきた。顔が、逆上《のぼ》せて来るようであった。釘づけの蓋が、少し開くと、八郎太は、小柄を逆にして、力を込めた。ぐぎっ、と音立てて、半分余り口が開いた。
白布に包まれた物が出て来た。八郎太は、静かに布をとった。五寸余りの素焼の泥人形――鼻の形、脣の形、それから、白い、大きい眼が、薄気味悪く剥き出していて、頭髪さえ描いてない、素地《そじ》そのままの、泥人形であった。
人形の額に、梵字が書いてあって、胸と、腹と、脚と、手とに、朱で点を打ってあった。背の方を返すと、八郎太が
「ふむ――成る程」
と、うなずいて
「相違ない」
四人が、のぞき込むと、一行に、島津寛之助、行年四歳と書かれてあって、その周囲に、細かい梵字がすっかり寛之助を取巻いていた。
人形は、白い――というよりも、灰色がかった肌をして、眼を大きく、白く剥いて、丁度、寛之助の死体のように、かたく、大の字形をしていた。七瀬は、それを見ると、胸いっぱいになってきた。小太郎は、八郎太が、一言も、自分の手柄を称めぬので、物足りなかった。
「父上、如何で、ござりましょう」
八郎太は、小太郎の眼を、じっと見つめて
「他言する事ならぬぞ」
七瀬が
「まあ、よかった。よく、見つかったねえ、床下といっても、広いのに――」
「お兄様――蜘蛛の巣が――」
深雪が、小太郎の頭から糸をつまみ上げた。八郎太は、人形を旧《もと》のように包んで、膝の上へ置いて、何か考えていた。
「これで、母も安心できました。ほんとに、大手柄――」
そういう七瀬の顔を、睨みつけて
「支度」
「お出まし? この夜中に」
七瀬が、恐る恐る聞くと
「名越殿へ参る」
七瀬が立上った。綱手も、深雪も、折角の小太郎の手柄を、一言も称めもしない父へ不満であったが、小太郎は、父の厳格な気質から見て、口へ出しては称めないが、肚の中では、よく判っているのだと思った。だが、何んだか物足りなかった。
七瀬は、次の間の箪笥《たんす》を、ことこと音させていたが
「お支度が出来まして、ござります」
八郎太は、箱を置いて
「元のように入れておけ」
と、小太郎へやさしくいって立上った。
第一の蹉跌
丸木のままの柱、蜘蛛の巣のかかった、煤まみれの低い天井、赭《あか》っ茶けた襖――そういう一部屋が、崖に臨んだところに、奥座敷として、建てられてあった。その大きい切窓から、向うの峰、下の谷が眺められて、いい景色であったが、仁十郎が、疲労によろめいて、どかりと腰を降ろすと、座敷中がゆらめいたくらいに危《あやう》くもあった。
茶店の爺が、早朝からの客を、奥へ通して、軒下に立てかけてある腰掛を並べて、店ごしらえをしていた。婆は、土間の、真暗な中で、竈の下を吹きながら、皺だらけの顔だけを、焔のあかりに浮き上らせていた。
「霧島、韓国《からくに》、栗野――」
玄白斎は、眼を閉じて、髯をしごきながら、呟いた。仁十郎が
「間根ヶ平で、七ヶ所――牧殿のお力なら、調伏は、成就《じょうじゅ》致しましょうな」
玄白斎は、暫くしてから
「是非も無い」
それも、元気の無い、低い声であった。
「婆あ――粥《かゆ》は未だ出来んか」
市助が、土間へ、声をかけた。
「はい、只今、すぐ、煮えますから――」
三人が、牧を追って、牧の修法している山々を調べてから、もう二十日近くなっていた。日数の経った修法の跡から、だんだん、追いつめて、昨日、修法をした跡だと、判断できたのが、栗野山の頂上であった。玄白斎は、それを見て
「間根ヶ平が、最後の修法場であろうが、今から、この疲れた脚で、行けようとも思えぬ。この上は、牧が、国外に出てまで、修法するか、それとも、御城下へ戻るか――間根での修法が、明日の四つ刻にすむとすれば、久七峠へ出て、牧が通るか、通らぬかを待とう。もし、通らぬ時は、城下へ戻ったもの、通るとしたなら、話によっては、そのままには差し置かぬ」
と、いった。和田仁十郎、高木市助の二人は、老師の、たどたどしい脚を、左右から支えながら、夜を徹して、栗野から、大口へ、大口から、淋しい街道を久七峠へ登って来たのであった。
久七峠には、島津の小さい番所が置いてあった。その番所から、少し降ったところに、この茶店があった。
「牧殿の返答によっては――」
仁十郎は、こういって
(斬っても、よろしいか)
と、つづけたいのを止めた。玄白斎は、牧を追跡し、口でも、よくはいっていないが、秘蔵弟子として、師よりも優れた兵道家として、子の無い老人にとっては、子よりも可愛い仲太郎であった。仁十郎には、よくそれが判っていた。
「そう――返答によっては――捨て置けんかも知れぬ」
玄白斎は、仮令《たとい》、斉興の命なりとも、臣として、幼君を呪う罪は、兵道家として許しておけぬと、頑強に考えてはいたが、そのために自分の手で、牧を殺す、という気にはなれなかった。牧がうまく自分を説き伏せ、家中の人々を感心させてくれたら――玄白斎は、自分の老いたことを感じたり、心弱さを感じたり、兵道家の立場の辛さを感じたりしながら
「疲れた――疲れたのう」
と、眼を閉じたまま、額を、握り拳で叩いた。
「爺っ」
一人の侍が、軒下から、大声に呼んだ。
「今、十二三人、見えるから、支度せえ」
「はいっ」
爺が、周章てて、走り出ると、侍はすぐ、番所の方へ登って行った。
「先生――牧の一行でござりましょうか」
玄白斎は、俯向いて、眼を閉じていた。
「うむ」
「十二三人とは、人数が少し、多すぎまするが――」
「多くない」
「はい」
市助が立って、暗い台所で、何か水に涵《ひた》していた。そして、持って来た。
「和田」
と、云った。水に漬けた真綿であった。仁十郎は、手拭に包んで、いつでも鉢巻にできるよう、折り畳んだ。二人は、乱闘の準備をした。
「さあ、出来ました。お待ちどおさまで」
婆が、こういって、大儀そうに、上り口から、土鍋を運んで来た時、しとしと土を踏んで近づく音と、話声とが聞えて来た。
和田と、高木とが、眼を見合せてから、玄白斎を見ると、前のまま、俯向いて、眼を閉じたきりであった。爺が、表へ出て、下を眺めて、すぐ入って来た。そして
「婆、ござらしたぞ」
と、云った。
「先生、芋粥が――」
玄白斎は、頷いた。そして、眼を開いて、身体を起して
「わしには判らん――」
と、呟いた。
「何が?」
「いや、食べるがよい」
三人が、茶碗へ手をかけると、表が、騒がしくなった。
馬上の士が一人、駕が一梃《いっちょう》、人々は、悉く脚絆掛けで、長い刀を差していた。茶店の前で立止まって、すぐ腰かけて、脚を叩いた。
「疲れた」
と、一人は、股を拡げて、俯向いた。
「爺、食べる物があるか」
「芋粥なら丁度出来ておりますが、あのお髯の御武家衆は貴下方のお連れではござりませぬか」
「お髯の――幾人?」
「御三人」
侍は、首を延して、奥を覗いたが、襖で何も見えなかった。士は、土間から出て、軒下の腰掛にかけている一人に
「斎木」
「うむ」
「玄白斎が、参っておるらしい」
低い声であったが、こう云うと同時に、人々は、動揺した。
「玄白斎が――」
と、一人が怒鳴った。馬上の士が、馬から降り立って、土間へ入って来て、三人の草鞋《わらじ》を見ると
「これは?」
と、爺の顔を、咎めるように、鋭く見た。
「はいはい、これは、奥にいられます、三人の、お侍衆の――」
「三人の?」
「御一人は、御立派な、こんな――」
爺は、髯を引張る真似をした。
家老、島津豊後の抱え、小野派一刀流の使手、山内重作が
「斬るか」
と、大きい声をした。斎木と、貴島が
「叱《し》っ」
眼で押えて、頭を振った。重作は、二人を、じろっと見て、土間へ入って、突っ立った。
馬から降りた侍は、豊後の用人、飽津《あくつ》平八で、七日、七ヶ所の調伏を終り、大阪蔵屋敷へ、調所笑左衛門を訪いに行く、牧仲太郎を、国境まで、保護して来たのであった。
玄白斎が、自分一人で、牧を追うのとちがって、牧を保護するためには、家老も、目付もついていた。烏帽子岳から、牧の足跡を追って城下へ入り、高木市助をつれて、大箆柄《おおえがら》山へ向ったとき、もう目付の手から、牧へ、玄白斎の行動は、報告されていた。豊後は、手紙で
「玄白斎が、修法の妨げになるなら、何うでも、処分するが――」
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