て、調伏の偉効を示そうとしていたが、玄白斎にとって、それは、不正な、便法でしかなかった。兵道家は、もっと、純一無垢な態度でなくてはならぬと信じていた。
「兵道のために尽そうとするお前の心は、よくわかる。ただ――その雑念、邪念が入っていて、果して秘呪が成就するか――牧。当兵道興廃のわかれるところ。その心のお前が成就するか、わしの修法に力があるか――わしも、一世一代の修法、お前と、秘呪をくらべてみようか」
「はっ」
「諸天を通じて、夢幻の裡に逢おう」
「はい」
「返答によっては、斬るつもりであったが、牧、わしは、お前を、斬れんわい、兵道の興廃よりもお前が可愛い」
牧は、だんだん、うつむいて行った。膝の上へ涙が落ちた。玄白斎も、涙をためていた。
牧の一行が立去ってからも、玄白斎は動かなかった。連日の疲れが一度に出て来たせいもあったが、玄白斎にとっては、それよりも、牧の処分に対して、強い態度を取れなかったという苦しさからであった。
玄白斎の日頃からいって、もっと、烈しく叱るであろうと、和田も、高木も考えていたが、玄白斎は、牧に逢い、牧の辛苦を見ると、唯一人の自分の後継者を、自分の手で失いたくはなかった。和田の、高木の前もあったが、何うしても
「自裁しろ」
とは、云えなかった。和田も、高木も、黙っていた。二人が黙っているだけに、玄白斎は、自分の矛盾した心に、悩まなければならなかった。
「脚でも、お揉み致しましょうか」
仁十郎が、こう云った時
「爺っ――牧の一行が、通らなんだか」
と、表で、大声がした。そして、大勢の足音が土に響いて来た。
「はい、今しがた、お越しになりました」
爺が、台所から、表へ小走りに出て行きながら
「どうぞおかけ下さいませ」
和田が、襖のところから、眼を出すと、鉢巻をしめ、裾を端折った若者が、八人ばかり、軒下に立って、何か囁き合っていた。
「行けっ。一走りだ」
「遠くはない」
和田が
「先生っ、若い者が、牧氏のあとを追いよりますが」
玄白斎は、眼を開いて
「そうらしい」
と、静かにいった。立とうともしなかった。
「わしには、牧が斬れぬ。然し、あの若い者なら、斬れよう。余人が斬るなら、斬ってもよい。わしには、仁十郎――斬れぬ」
俯向きがちに、髯もしごかないで、玄白斎は袴の下へ、両手を入れてやさしくいった。表の若者達は、爺の出した茶も飲まないで、すぐ登って行った。話声だけ、暫くの間聞えていたが、玄白斎が顔をあげて
「いいや――和田」
と、大きい声をした。
「あの無分別な、若い者では、覚束ない。牧は斬れぬ。止めるがよい」
「止めに参りましょう」
仁十郎が立上った。
「待て――何んとしたものか、高木、わしには判断がつかなくなって来たが――ここで、朋党の争いを起しては、斉興公のお耳に入った時、斉彬公方の人々は、極刑に逢おう――矢張り止めなくてはならぬ。高木、仁十と二人で追っかけて、引止めて参れ。呪法での調伏は、呪法にて破りうる。玄白斎の命のある限り、そう、牧の自由にはさせぬ」
仁十郎と、市助とは、頷くと同時に立上った。
「爺、草鞋の新しいのを――」
二人は、刀を提げて上り口へ出た。そして、草鞋の紐を通している時、二三人の馬上の人々が、二人の眼を掠《かす》めて、鉄蹄の響きを残して、山の上へ影の如く過ぎ去った。
右手は、雑草と、熊笹の茂りが、下の谷川までつづいていた。左手は、杉の若木が、幾重にも山をなして、聳えていた。
斉彬に目をかけられている家中の軽輩、下級武士の中の過激な青年達が、牧を襲撃するという噂が、いつの間にか相当に拡がっていた。後方を振向いた一人が
「あれは?」
振向くと、山角の曲りに、白い鉢巻をした人々が、走り出て来ていた。
「山内、斎木、安堂寺、貴島」
と、馬上から、飽津が叫んだ。
四人が、振向いて
「何?」
と、いうよりも先に、彼等の眼は、その近づいて来る人々を見た。山内は、大きい舌を出して、脣をなめながら
「来よった」
と、笑いながら、袖の中から、襷を出した。
「駕、急げっ、先へ行け」
と、二三人が、同じことをいった。駕は小走りに遠ざかった。斎木は、道幅を計って
「山内と、二人でよろしい」
追手は、木の間へ一寸隠れて、すぐ又現れた。もう間は小半町しかなかった。山内と、斎木が第一列に、少し下って貴島と、北郷が、第三段に安堂寺と、飽津とが、並んだ。
追手の先頭に立っているのは、二十二三の若者で、白地の稽古着に、紺木綿の袴をつけていた。山内が
「牧殿が入用か」
と、怒鳴った。追手は、それに答えないで、四五間まで近寄った。そして
「吾等有志より、牧殿に申し入れたい儀がござる。御面謁できましょうか、それとも、御伝達下さりましょうか」
「無礼な、その鉢巻は、何んじゃ」
「お互でござろう」
「何?」
「好んで、争いを求めませぬ。牧殿に、何故、御世子を調伏したか? その返答を、お聞き下されい」
「戻れ、戻れっ」
若者の背後の人々が
「問答|無益《むやく》」
と、叫んだ。
「奸賊」
「斬れっ」
「斬れっ」
若い人々は、お互に、興奮しながら、他人を押し除けて前へ出ようとした。
「山内を存じておるか」
山内が、崖の端へ立って、若者へ笑いかけた。
「お手前など対手でない。引込め」
「牧に尻っぽを振って、ついて参れ」
山内は、さっと赤くなった。刳形《くりがた》へ手をかけて、つかつかと、前へ出ると、若者達は、二三歩退いた。
「恐ろしいか」
山内は、真赤な顔をして、睨みつけた。その瞬間、背の低い一人の若者が、水に閃く影の如く、人々の袖の間を摺り抜けて出て
「ええいっ」
懸声と同時に、ちゃりんと、刃の合った音がした。人々は、胃をかたくして、柄を握りしめた。
人々が、額を蒼白くして、腋の下に汗を出して、刃の音のした方を見た。
小柄な青年は、狂人のように眼を剥き出して、山内を睨んでいた。山内は、脣に微笑を浮べて、正眼に刀をつけていた。青年は、だんだん肩で呼吸をするようになった。青年の背後から、一人が、何かいいながら、青年の横へ出ようとした。その瞬間だ――
「ええいっ」
それは、声でなく、凄じい音だった。谷へも、山へも木魂《こだま》して響き渡った。青年は、その声と一緒に、身体も、刀も、叩きつけるように――それは、手負の猛獣が、対手を牙にかけようと、熱塊の如く、ぶっつかって行くのと同じであった。
人々の見ている前で、自分から斬込んでおいて、よし、山内が、何んな豪の者にもせよ、一太刀も斬らずに、引きさがることは、面目として出来なかった。自分の命を捨てる代り、いくらかでもいいから、対手を斬ろうとする絶望的な、そして、全力的な攻撃であった。
「おおっ」
山内は、強く、短く、唸った。二つの刀が、白く、きらっと人々の眼に閃いた瞬間、血が、三四尺も、ポンプから噴出する水のような勢いで、真直ぐに奔騰した。そして、雨のように砕けて降りかかった。
山内は、血を避けると同時に、次の敵のために刀を構えて、一間余りの後方に立っていた。真赤な顔であった。青年は、血を噴出させて、黒い影を、人々にちらっと示したまま――谷へ落ちたのであろう、何処にも姿が無くなった。
敵も、味方も、暫く黙っていた。山内が、右手に刀を持って、左手を柄から放した。そして、後方へ小声で
「布は無いか」
「傷したか」
「指を二本、落された」
「おお、どの指を――」
山内が、右手片手で、刀を構えて、指を後方へ示した時
「山内、見事だ。おれが、対手になる」
「見た面だのう」
若者は、答えないで、刃尖《きっさき》を地の方へつけて、十分の距離を開けた。薩摩独自の剣法、瀬戸口備前守が発明したと伝えられる示現流(一名、自顕流、自源流。自源という僧、天狗より伝わったものという)特異の構えである。
馬蹄の音が、向う山に響いて、青年の背後へ近づいて来た。二三人が、振向くと、三人の士が、馬を走らせて来ていた。
「邪魔の入らぬうち――」
と、一人が叫んだ。
「斎木殿、御対手申す」
最先にいた若者が、刀を抜いた。それと同時に、若者も、牧の人々も、一斉に、鞘を払った。
「兵頭はおらんか、兵頭っ」
遠くから、馬上の人が叫んだ。その刹那
「何がっ、兵頭っ」
山内が、受けると見せて避け、対手の身体の崩れるのを、片手薙ぎと[#「片手薙ぎと」は底本では「片手雉ぎと」]構えていたのへ、兵頭は、こう叫ぶと、雷の如く、打込んで行った。避ける暇は無かった。がちっと受けた。しっかと柄を握ってはいたが、指を二本無くした掌であった。びーんと、掌から腕へ響いて、左手が柄から離れた。刀が下った。兵頭の刃尖が、山内の頭へ、浅いが割りつけた。
腕で斬るのでなく、身体ぐるみで斬りかかった刀だった。山内の頭から、額へ、眉の上へ、赤黒く血が滴って来た。
「池上っ――池上はおらぬか」
と、馬上の人の叫ぶ声が、近づいた。
「新納《にいろ》殿だ」
二三人が、呟いた。
「ええいっ、ええいっ」
兵頭は、刀を真直ぐに右手の頭上へ構えて、山内の眼を睨みつけた。お互に、それは、物を見る眼でなく、人間の全精力を放射する穴のようなものだった。凄惨な、殺気とでも名づけるような異常な光が、放たれていた。
「来いっ――さ、来いっ」
こう答えて、又暫く、二人は、黙って睨み合った。
斎木も、同じように、黙って、正眼に構えたままであった。刀と刀との間が、未だ二三尺も離れてゐた。それが、かちっと、触れて、音立てた時には、どっちかが、傷つくか、殺されるかの時だった。敵も、味方も、狭い道の背後から、隙があれば、一太刀でも助けようとしていたが、何うすることもできなかった。
「引けっ、刀を引けっ――山内っ、斎木っ」
新納は、若者の中へ、馬を乗り入れて来た。若者は、家老の位置に対し、無抵抗でいなければならなかった。
「兵頭っ、刀を引け――引かぬかっ」
「はっ」
兵頭が、こう答えた刹那、新納が
「山内っ」
と、叫ぶのが早いか、山内の打込んだのが早いか――兵頭は
「おおっ」
さっと、引くと、新納の馬へ、どんと、ぶっつかった。よろめきながら、閃いた刀を、反射的に受けて
「何をっ」
「山内っ、おのれっ、たわけ者がっ」
新納が、山内の前へ、馬をすすめた。馬は怖じて、頸を上げながら、二三尺、山内の方へ胸を突き出して、脚踏みした。
「卑怯者っ、それでも、剣客かっ」
一人が、兵頭の後方から、山内へ怒鳴った。
「引け、引揚げいっ」
人々の後方にいた二人の馬上の士が、近くの若者へ、頭を振って、引揚げろといった。
「斎木、早く行け、牧は行ったか」
「御無事に」
新納は頷いて
「池上、兵頭、戻れ」
「由利が殺されました」
兵頭が、馬の横から、蒼白な顔で、見上げた。
「何処に」
「谷へ、斬落されました」
「誰に?」
「山内に――」
「総て、戻ってから聞こう。戻れ、皆戻れっ――何を、愚図愚図する。戻らぬと、おのれら、厳重に処分するぞ」
「池上――おお、無事か、新納様――」
「お前は?」
「加治木玄白の門人、和田仁十郎と申しまする」
「加勢か」
「いいや、師の仰せにて、押えに参りましたが、無事の体《てい》にて――」
「そうか、わかった。玄白に、新納が静めたと申しておけ、御苦労。池上、兵頭、拙者と同道せい」
「はい」
新納は馬を廻した。
「同志の名は、明かすまいぞ」
「うん」
と、いった時、板戸が、埃と一緒に軋《きし》って開いた。
「池上――出ろ」
池上は、声に応じて立上って、ずかずかと、その侍の方へ歩み寄った。薄暗い廊下に、もう二人の侍が立っていた。
「ついて参れ」
廊下の突当り、中戸を突きあげると、履脱《くつぬぎ》に、庭下駄と、草履《ぞうり》とが並んでいた。人々が、庭下駄を履いたので、池上がその上へ足を下ろすと
「草履だ」
と、背を突いた。
「何?」
池上は、振返って、睨みつけた。
「草履を履くのだ」
「いえばわかる。何故、背中を突いた」
「黙って、早く行け」
「行かん。俺は
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