、罪人でないぞ。軽輩だと、お主《のし》達は侮る気か」
先に、庭へ降りていた一人が、
「ここで争っては困る。殿が、待っておられるで。池上」
「よろしい」
池上は、赤い顔をして、眼を光らせて、植込みの中を、曲って行った。広縁のところへ来ると、一人が、縁側へ手をついて
「召連れました」
と、いった。二人は、池上と共に、庭へうずくまっていた。暫くして、障子があいた。新納六郎左衛門が、小姓と、近侍とを従えて坐っていた。
「それへ上げろ」
新納は、縁側を、扇で指した。
「御意だ。すすむがよい」
池上の後方の士が、囁いた。池上は、一礼して立上って、履脱から、縁側へ平然として上って行った。新納は、その一挙、一動をじっと、見ていたが、池上が坐って、礼をしてしまうと
「七八人、人数がおったのう」
「はい」
「誰と、誰と――」
「忘れました」
新納の眼に、怒りが光った。池上は、その眼を、少しも恐れないで、正面から、じっと凝視めていた。
「なぜ――思い出さぬか?」
「出しません」
池上は、言下に、明瞭《はっきり》と、答えた。
「よし、それでは、思い出させてやろう。釘をもて――粉河《こがわ》、その方共、そいつの手足を押えい」
四人の近侍が立上った。池上は、微笑した。だが、顔色は少し蒼白《あおざ》めてきた。一人が、池上の右手をとって、上へ引いて、膝頭を片脚で蹴りながら
「打つ伏せになれ」
と、いった。池上は、その男を下から睨み上げて
「打つ伏せ? 薩摩隼人は、背を見せんものじゃ。馬鹿め」
怒鳴ると、右手を振り切って、仰向けに、大の字に、手足を延した。四人が、一人ずつ手と足を押えつけた。
「釘を、持参仕りました」
「親指を責めてみい――池上、ちいっと、痛むぞ」
一人が、押えている池上の掌を、板の上へ伏せて、親指の爪の生え際へ、釘のさきを当てた。そして、少しずつ力を加えながら、爪におしつけた。
爪は、暫く、赤色になっていたが、すぐ、紫色に変った。池上の顔は、真赤に染まって、米噛《こめかみ》の脈が破裂しそうにふくれ上って来た。額に、あぶら汗が滲み出て来て、苦しい、大きい息が、喘ぐように、呻くように、鼻から洩れかけた。脚が微かにふるえて、一人の力では押え切れぬくらいの力で動こうとした。足の指は、皆|内部《うちら》へ曲って、苦痛をこらえていた。眉も、眼も、脣も、頬も、苦しそうに歪んで来た。
「池上、何うじゃ、同志の名を聞こうか」
新納は、煙管をはたきながら、静かに、声をかけた。池上の腹が、波打つように動き、頭髪が、目に立ってふるえてきた。
「池上」
うむーっ、と、苦痛そのものが、洩らしたような、凄い呻きが、池上の口から洩れて出た。手足を押えている四人の侍は、手だけでなく、身体と、脚とで、池上の一本の手、一本の脚を押えていた。
池上は、脣を噛んで、眉も、眼も、鼻も、くちゃくちゃに集めて、苦痛を耐《こら》えていた。指から、腕中、腕から、頭の真中へまで、痛みが、命を、骨を削るように、しんしんとして響いていた。顔色が、灰土のように、蒼ぐろく変って、呼吸が、短くなってきた。仰向いている腹が、人間とは思えぬように、高く、低く、波打って呼吸をしかけた。
「池上」
池上は、黙っていた。新納は、吐月峯《はいふき》を叩いて
「よかろう」
と、いった刹那、池上が
「うっ」
それは、呼吸のつまったような、咽喉からでなく、もっと奥の方から出た音のようなものであった。そして、池上の腹が、胸が五寸余りも浮き上った。人々が、池上の上へ、のしかかった。池上の爪へ、釘を押し当てていた侍が
「突き抜けました」
と、額に、冷たい汗をかいて、蒼白い顔をしながら、小さい、かすれた声でいった。
「手当をしてやれ――気絶したか」
新納が、人々の蔭になっている池上の顔を見ようとした。
「はは、はははは」
人々は、冷たいもので、背中を撫でられた。池上のその笑い声は、幽鬼のような空虚《うつろ》で、物凄い笑いだった。
「あははは、生きていたか――池上、流石に薩摩隼人だ。よく耐えた」
新納が、池上の、灰色の顔を見て、睨みつけるように、鋭い眼をして、こういうと、次の瞬間、やさしい声になって
「池上、お前達の世の中じゃ。その心を忘れずに、しっかり、やってくれ。ただ――ただ、無謀な振舞だけはするな。世の中は広大じゃで、一家一国の争いなどに、巻き込まれるな――感心したぞ――えらいぞ」
新納の眼に、微かに、涙が白く浮いていた。池上は仰向いて、眼を閉じたまま、大の字になって、身動きもしなかった。
医者が来て、釘の突き抜けた疵口を洗って、繃帯をした。池上は、何をされても、黙って、眼を閉じて、身動きもしなかった。又、出来なかった。苦しさに、痛みに、気を失う間際までになっていた。それが急に放たれて、称められて、肉体も、精神も、ぼんやりとして、疲れきっていた。医者が立去ろうとすると、新納が
「兵頭を呼べ」
池上が
「兵頭」
と、呟いた。そして、首を動かして、起き上ろうとした。四人の者が、片膝を立てて、もし、主人に乱暴でもしようものなら、と池上の眼を、手を、脚を、油断なく見つめていた。
「新納殿」
池上は、灰色の顔色の中から、新納を睨みつけた。
「裁許掛でもないお身が、何故、濫りに、人を拷問なされた」
新納は、口に微笑を浮べて
「書生の理窟《りくつ》じゃ。ま、理窟はよい、わしが負けておこう。今、兵頭が参ったなら、改めて話すことがある」
と、いった時、庭石に音がして、兵頭が案内されてきた。薄汚い着物が、庭の中でも、部屋の中でも、目に立った。侍が、兵頭に、囁くと
「御免」
と、いって、ずかずかと、池上の側へ坐った。そして、新納へ、挨拶した。
「兵頭」
「はっ」
兵頭は、両手をついた。
「今、池上を爪責めにした――」
兵頭は、頭と、手を、さっと上げると、正面から、新納を睨んだ。そして
「ここの親爺とも覚えぬ」
と、大きい声を出した。新納は、微笑を納めて、兵頭を眺めていた。近侍が、悉く、兵頭を睨みつけた。
「爪責めは愚か、八つ裂き、牛裂きに逢おうとも、一旦口外すまいと誓ったことを、破るような――あははは、ここらの方々には、爪責めで、ぺらぺら喋る人もござるのじゃろ。だから、拷問も御入用じゃ。吾等、軽輩、秋水党の中に、拷問などと申すものはござらぬ。爪責め? 何う責める?」
兵頭は、一座の人々を、じろりと、見廻して、いきなり、右脚を、新納の方へ投げ出した。そして、右手で、足の親指を握って
「爪を責めるだけか?――見ろっ」
ぐっと、逆にとった自分の親指
「えいっ」
ぽきっ、と、音がした。
「新納、見そこなうなっ。吾等薩摩隼人に、拷問をかけて問うなどと、恥を知らぬかっ。おのれが拷問にかけられると、ふるえあがるから、吾等も白状するかと、ははははは。老いぼれたかっ。脚でも――」
兵頭は、腕をまくって突き出した。
「腕でも――斬るなり、突くなり、折るなり――池上っ。生死命あり論ずるに足らず、一死只報いんとす、君主の恩」
兵頭は、足を投げ出したまま、大声に、詩を吟じた。誰も、だまっていた。身動きもしなかった。
「武助、御暇《おいとま》致そう」
少し、顔色を回復した池上が、静かにいった。
「新納殿、御無礼致しました」
兵頭は、脚を引いて、御辞儀もしないで
「もう、夜に近い。急ごうよ」
一座の人々は、一座を、新納を、余りに無視した二人の振舞に、何う判断していいか、ぼんやりしていた。兵頭が、立ちかけると、新納が
「兵頭、引出物を取らそう」
と、叫んだ。
「引出物?」
兵頭が、新納を睨んで、身構えた。新納は、自分の脇差を抜き取って
「主水正《もんどのしょう》じゃ。差料にせい」
と、兵頭の脚下へ投げ出した。兵頭は、暫く黙って、新納の顔を見ていたが、静かに坐った。そして、手をついて
「お許し下されますか」
じっと、新納の眼を見た。
「池上、そちにも取らそう。大刀を持て」
と、小姓へいった。そして、兵頭へ
「斉彬公が、軽輩、若年の士を愛する心が、よく判った。機があったら、新納が、感服していたと、申して伝えてくれい。ただ、池上、兵頭。噂に上っている牧、或いは調伏のことなどで、あったら命を捨てるなよ。近いうちに天下の大難がくる。それを支え、切抜け、天下を安きに置くは、もう、わし等如き老境の者の仕事ではない。悉くかかってお前達の双肩にある。よく、斉彬公を輔佐《ほさ》し、久光公を援けて、この天下の難儀に赴かんといかん。一家の内に党を立て、一人の修行者風情を、お前ら多数で追っかけるような匹夫《ひっぷ》の業は慎まんといかん」
二人は、だんだん頭を下げた。
「同志の者によく申せ――これ、馬の支度をして、送ってやるがよい。お前達が、次の天下を取るのじゃ。大切にせい。髪の毛一本でも粗末にするな。指は、一本だけ折ればよいぞ。兵頭」
「はっ」
兵頭は、泣いていて、顔を上げなかった。
「斉彬公よりも、天下に動乱のあること、よく承わっております。御教訓、しかと一同に申し伝えまする」
と、池上が、挨拶した。
二人が、引出物の刀と、脇差とを持って廊下へ出ると、もう、黄昏になっていた。廊下つづきの、左右の部屋部屋から、いろいろの顔が、ちらちら二人を覗いたし、玄関にも、多勢の人々が、二人を眺めていた。
提灯を片手に、馬丁が、馬の右に立った。人々の挨拶を受けて、門を出ると、もう、夜であった。門の軒下を、曲ると――二つの影が
「武助」
「五郎太」
と、叫んだ。馬丁が、その方へ提灯を突き出した。二人の青年が、見上げていた。
「おお、西郷」
「大久保。今頃まで、何していた」
「待っていた。無事だったな」
大久保の声は、微かに、明るく、顫えていた。
「引出物まで頂戴した」
と、武助は、脇差を、かざしてみせた。
黒塗りの床柱へ凭れかかって、家老の、碇山将曹《いかりやましょうそう》が
「何んと――京で辻君、大阪で惣嫁《そうか》、江戸で夜鷹と、夕化粧――かの。それから?」
金砂子の襖の前で、腕組をして、微笑しているのは、斉興の側役伊集院伊織である。その前に、膝を正して、小声で、流行唄を唄っているのは、岡田小藤次であった。
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意気は本所、仇は両国
うかりうかりと、ひやかせば
ここは名高き、御蔵前
一足、渡しに、のりおくれ
夜鷹の舟と、気がつかず
危さ、恐さ、気味悪さ
[#ここで字下げ終わり]
小藤次は、眼を閉じ、脣を曲げて、一くさり唄い終ると
「ざっと、こんなもので」
扇を抜いて、忙がしく、風を入れた。
「世間の諸式が悪いというに、唄だけはよく流行るのう」
将曹が、柱から、身体を起して
「ツンテレ、ツンテレ――か、のう。ツンテレ、ツンテレ、京でえ、辻君――」
「トン、シャン」
小藤次が、扇で、膝を叩いた。
「申し上げます」
廊下から、声がした。
「大阪で、惣嫁」
「テレ、ツテツテ、ツテテンシャン」
「申し上げます」
将曹が、扇で、ぽんと膝を叩いて
「えへん――江戸で、夜!」
「申し上げます」
伊集院が、立って行って
「何んじゃ」
「名越左源太、仙波八郎太殿御両人、内密の用にて――」
「待て」
「テレトン、テレトン」
「御家老」
将曹は、細目を開いて
「夕化粧、ツンシャン――何んじゃな」
「名越と、仙波とが、何か話があって、お目にかかりたいと――」
将曹は、うなずいて、また、眼を、閉じた。小藤次が
「意気は、本所」
「意気は、本所」
「テレ、トチトチ、ツンシャン」
障子が、静かに開くと、敷居から一尺程の中へ、二人が坐った。取次が、障子をしめると、二人は、御辞儀をした。
「仇は、両国――もっと、近う」
「はっ」
「ただ今、唄の稽古じゃ」
小藤次が、口三味線のまま一寸振向いて、二人を見て、すぐ
「うかりうかりと――」
「うかり――」
仙波が
「ちと、内談を――」
「ひやかせば――内談か、聞こう」
「申しかねまするが、御人払いを――」
「人払い?」
将曹の顔
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