蘇ってきた。

(心の迷い――何んの、たわけた)
 月丸は、眼を開いて、一足踏み出した。そして
(あの坊主は、心を説いていたが――)
 と、思った。だが、それに感心するのは、何かしら、義観に、降伏するような感じがして
「くそっ」
 と、懸声をして、勢いよく、八郎太の墓の方へ、足早に行った。
(死霊だの、幽霊だのと、愚にもつかぬ――そうだ、こういう深山へ入ると、人間の心が、こういう風になるのじゃ。それで、霊山などと――わしは、斉興公へ忠義のために、七瀬を殺したのだ。父への孝行のために、綱手を殺したのだ。何を、心に咎めることがある)
 墓は、崖のところに――いつの間にか、草が茂り、土が、落ちついて、下に眠っている人の安らかさを、現しているようであった。
(こんな石に脅えて――心が足りなかったからだ。父も、心の不思議を説くが――)
 月丸は、考えてみたが判らなかったし、長く考えもしなかったし、又、出来なかった。墓の前へ、膝をついて、懐中から、綱手の形見の鏡を出した。そして、それを包んである薄い絹をとって、鼻へ当てた。微かな、香の匂のほか、血の香はしなかった。
(何故、さっき、血の臭がしたのかしら――それも、心のせい)
 だが、香の匂を嗅ぐと同時に、綱手の肌を、四肢を、思い出した。眼が、頭が、血管が、熱くなってきた。自分以外の世の中での、一番、いい物を失くしたように感じた。
「綱手」
 と、云って、鏡を眺めてから
「わしを恨んでくれるな。そちを、決して、欺いたのではないぞ。わしは、そちに、惚れていたが、武士の意地として、仕方がなかったのじゃ。成仏してくれ。お前の、霊《たましい》の籠っているこの鏡を、父の墓へ埋めてやるから、父の側で――父に抱かれて、安らけく、眠るがいい」
 そう云っているうちに、だんだん、涙で、眼が曇ってきた。
(お前の母を、わしが、手にかけたと同様にして殺したが、よく、冥土で、母に、わしの恋の、偽りでなかったことを、話してくれ)
 月丸は、頬へ、涙の流れるまま、暫く、眼を閉じていたが
(義観に近い、こんなところで、泣いて、もしも、見つかったなら――)
 と、思うと、手拭で、手早く、涙を拭いた。そうして、鏡を、丁寧に、拭って、自分の顔を写してみた。そして
「判るか、綱手」
 と、いった。そして、微笑してみて、鏡に写った自分の微笑んでいる顔へ
「判ったか?」
 と、頷いてみた。
「今、父の側へ、埋めてやるぞ。これが、別れじゃ。綱手、よく、顔を見ておけ」

 月丸は、狂人のように、自分の顔へ、言葉をかけて、又、涙を流した。
「別れるぞ――綱手、別れるぞ」
 と、いうと、声まで、涙で、曇ってきた。
「綱手、さらばじゃ」
 月丸は、そう叫ぶと、鏡を、口にくわえておいて、小柄を抜いて、墓石の下を、掘り出した。土を掬い上げ、小柄で掘り――二つの手を、土まみれにして、五六寸の深さに、掘った。そして、鏡を、絹に包んで、
「よく眠れよ――さらばであるぞ」
 と、いうと、穴の中へ、静かに置いた。そして、合掌をしてから、自分の小柄を、その上へ入れて
「その小柄を、わしと思え。南無阿弥陀仏」
 と、又、合掌して、それから、土を落した。そして、手で叩いて、その上へ、石をのせて、そのまま、俯向いて、合掌していた。

「何うどすっか」
 と、擦れちがった登山の人々の、振向きつつ、降って行く、後方へ、庄吉は、こう云って
「べらぼうめ――えろう、綺麗な、娘はんやおまへんか。何うどすーっ、何うどすーっ」
 庄吉は、節をつけて、怒鳴った。
「これ庄吉、聞えるではないか」
 深雪が、微笑しながら、たしなめた。
「南玉の爺なら、四方の山々眺むれば、とかなんとか、やらかしゃあがるところだ」
 庄吉は、宿を出る時から、はしゃいでいた。それは、深雪と二人で、初めて――よし、一日であろうとも、旅らしいものへ出る喜びも、あるには、あったが、それよりも、庄吉を愉快にさせたものは、自分と二人だけででも、深雪が、安心して、旅に出る、ということからであった。
「へっ、何うどすうーっ」
 庄吉の声が、谷へ、向う峯へ、響いた。
「まあ――」
「何うどすうーっ――だんだん上手になってくらあ。何うどすうーっ。うめえ、うめえ、何う――」
「庄吉ったら」
「何うどすうーっ」
 深雪が、笑い出した。降りて来た四人連れの男女が、二人を、まじまじと、見つめて、擦れちがうと
「何うえ、夫婦《めおと》かいな」
 と、云った刹那、庄吉が
「そうどすうーっ。へい、御免なさい。今日《こんち》は」
 四人は、びっくりして、足を早めて、降りて行った。
「庄吉、よしませぬか」
「てへへ、面白うござんすね。夫婦かいな、と、抜かしゃがって、何うどすえ、と、称めやがらねえから、一番、おどかしてやったんで――何うも、京|女郎《おんな》に、東男《あずまおとこ》なんて、何を云ってやがる。一人も、面らしい面は、ありゃあしませんや。ほい、又、来た。そうれ、何奴も、此奴も、婆ばかりだ」
「聞えるから――」
「なあに、齢をとると、耳が遠くなるから」
 婆さんづれの三人が、降って来て、中の一人が、庄吉へ、笑いかけると、
「お気の毒えな、婆様ばかりで」
 と、声をかけた。庄吉が
「おう、おう、おう」
 深雪は、真赤になって、俯向いて、先に登って行った。
「若い女子衆と登ると、お山が、荒れるえ」
「婆さん、お前さん、嫁いびりしなさんなよ。死んで、地獄へ行くからの」
 婆さんは、歯を出して、笑うと、降りて行った。
「まあ、庄吉。少し、嗜《たしな》みませんと、もし、口論にでもなったら――」
「ああ、びっくりした。恐ろしく、気の強い婆も居やがったもんだ」
 駕屋が、うるさくすすめるし、腰を押す小さい女の子が、つき纏って来たが、深雪は、断りながら、静かに――だが、正確に、歩いて登った。
「いざ、というと、成る程、えらいものだ」
 と、云って、庄吉は、左手で、手拭を使っていた。右手が無くなってから、遠い路には、身体が、早く疲れてくるようであった。そして、だんだん喋らなくなった。
「お嬢さん、一休みしようじゃあ、ござんせんか」
 庄吉は、真赤な顔をして、汗を拭き拭き声をかけた。

 茶店の中へ入ると、その中に、休んでいた人々が、一時に、二人の方を見た。深雪は、俯向いて、腰掛の端へ、腰をおろした。
「ようこそ」
 と、いって、婆が、他の客へ、餅を持って行っての戻りに、深雪の前を、通ったが
「ああ――」
 と、いって、一寸、足を停めて
「何うえ、ま、よく、似て――のう、爺さん」
 と、叫んだ。爺は、竈《かまど》の前に、立っていたが
「何が?」
「そら、いつかの、お雛さんのような――さっき登って行かっしゃった、お侍衆と、いつかござった、そら――齢をとると、ぼけて」
「お前がか」
「お前が、ぼけて――」
「う、う、義観さんのところへ行くと、仰しゃって、お登りになった――そうそう、あのえらい斬合の後でのう」
「その時の、嫁御寮《よめごりょう》に、何んとまあ、美しい、よう、似てござる方」
 深雪も、庄吉も、身体を固くして、昂《たかぶ》ってくる心を、押えて、じっと、聞いていた。深雪は
(姉のことであろう)
 と、思ったし、庄吉は
(月丸のことではないか――いいや、小太郎?――いいや、小太郎は、坂本から、登ったのだから――)
 と、思うと
「婆さん」
 と、声をかけた。
「その、お侍は、いい男で、齢の頃、二十二三か、四五ではないか」
「そうえ――本当に、そっくりよな、爺さん」
 婆は、深雪を、じっと、眺めていた。客は、婆の大声と、深雪の美しさに、物も云わないで、話を聞き、深雪を、見ていた。
「義観って坊さんを、訊ねて行ったって、何をしに、行ったのか、聞かなかったのかい」
「えろう、沈んで、ござって、碌々《ろくろく》口も利きませんがの、いつか見た時に、あんまり、美しいので、よう憶えていましたが――」
「その時の女子衆は、このお嬢さんよりも、二つ、三つ齢上で――」
「矢張り、この方の、姉さんかいな」
「そうでもないが――そして、その坊さんの居なさるところは?」
「根本中堂《こんぽんちゅうどう》の上やで――」
「いつ頃、登って行ったかのう」
「さあ、もう、一刻になろうか」
 と、爺が、考えて、陽ざしを見ていたが
「五《いつ》つ半下《はんさが》り頃かの、婆さん」
「そんなものかのう」
「もう、四つ半に近いから――」
 深雪は、心を顫わせていた。
(月丸が、何んのために)
 そう思って、この、同じ道に、姉を殺し、母を殺した対手がいる、と思うと、身体が引きしまってきて、冷たくなって行くようであった。庄吉は
(顔は知らねえが、逢えば判るだろう)
 と、思って
(逢ったなら――)
 逢った時のことを想像すると、死物狂いに突きかかりながら、月丸の物に斬られる自分の姿。そして、それと同じように、血塗れになって悶《もだ》えて転がっている深雪の姿が、眼にあった。
(ほんの一寸、深雪と、二人きりになれたと思や――一体、運がいいってのか、悪いってのか、月丸が、この山に登っているなんて、何んかの引合せだ――八郎太様の、御手引だ――やっつけろ。ぶつかりゃあ、それまでだ)
 と、思うと
「お嬢さん、一つ、急ぎましょうね」
 と、いった。

 茶店を出ると、庄吉は
「お嬢さん」
 そう声をかけて、じっと、深雪の横顔を、眺めながら
「あっしゃ、覚悟しておりますよ」
「妾も、しております」
「腕は、片方しかないが、なあに、人間一心凝めて――矢の立つためし有りってんだ。何うせ棄てた命だ。深雪さん、あんたの前で、綺麗、さっぱり、捨てて御覧に入れますからね。安心していておくんなさい」
「月丸は、何ういう男かしら」
「いい男――ちえっ、聞いただけで、げえっと来らあ。男がいいの、色が白いのって、男の値打ちあ、ここでげしょう」
 と、胸をさした。
 深雪は、頷いた。
「こういや、綱手さんの悪口になるが――魔がさしたんでげしょうな」
「兄に聞くと、なかなかの腕前ゆえ、お前と、二人ぐらいでは――」
「だから、だからよ。人間一心、虎々って、そら、虎を見て、何んとかしたって話がありまさあね。あいつだ」
「虎と見て、石に矢の立つ?」
「そうそう、南玉め、虎々々と、教えやがって――ところで、若旦那あ、未だ、京へお入りになりませんが、矢張り、この辺で、虎々じゃあねえんでしょうか」
「さあ、もしかしたなら――でも、庄吉、決して、兄を頼みにしては、なりませぬぞえ、何処までも、二人で――」
「二人っ」
 と、庄吉が、叫んだ。
「二人だっ、嬉しいことを仰しゃいますね。ええ、あっしゃ、命をすてますよ。なあ、いつか聞いた極意だ。斬らしておいて、斬れ。斬るより突け。一太刀でいいんだ。野郎の面へ、ぐさっと、斬りゃいいんだ。死にますよ。脚へ、齧りついたって――そうだ、ねえ、深雪さん。野郎に、貴女が、深雪と、名乗りかけて、話をしている、その後方から、あっしが、短刀で、一突きに――何んとか、そういう工夫を一つ、思案しておきやしょう。もし、出逢ったら、何ういうことになさいます?」
「死ぬつもりゆえ、仮令《たとい》月丸を、殺さないまでも――殺すなどと、思いもよらぬこと。一刀なり恨めばよいゆえ、命をすてて、尋常に名乗りかけて、討たれましょう。何れ、小太郎の耳へ入れば、捨てておきますまい。月丸とて、一流の使手ゆえ、女風情や、お前が、何う工夫したとて、討てるものではなし、要らぬ計《はかりごと》をして、月丸に侮られるより、立派に、太刀打をして、討たれましょう。母子三人、討たれたなら、天の冥利としても、月丸は、いつか殺されよう。なまじ――」
「判った。判った」
 庄吉は、片手で、押えて
「もう、何も申しません。身を捨ててこそ、浮む瀬も――いや、こいつもいけねえ、浮む瀬も、沈む瀬も考えねえで、正面から、やっつけるんだ。ええ、判りやした。ようござんす。えらい、御覚悟で、あっしゃあ、鼻ぺちゃだ――成る程ねえ。武家育ちだけに、ちがったものだ」
 庄吉は、
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