は、蒼白になっていた。
縁側にいた南玉が
(おや)
と、思って、自分の側を、影の如く、通って行った武士の後姿へ、眼をつけた時、小太郎が
「おお、百城」
と、声をかけた。それと同時に、百城が
「ずく入《にゅう》」
と、叫んだ。そう叫ぶのと、義観が
「馬鹿っ」
と、叫んだのと、百城が、抜討ちに、義観へ斬りつけたのと、そうして、小太郎が、下から、戒刀で、月丸の臂を、打ったのと、同時であった。
小太郎は、鞘ぐるみの戒刀で、月丸の臂を打って、脇差を、放させると同時に、もう、次の溝えを、義観の前に、半立ちになって、つけていた。
月丸は、小太郎に、一撃されて、臂から、肩へかけ、手首へかけて、しびれさせたまま、義観を睨みつけて、突っ立っていた。
南玉は、縁側の端へ、立上って、脣を噛みながら、眉をひそめて、拳を握っていた。
義観は、眉の下から、冷笑したように、呼吸を、喘ませながら、立っている月丸を見上げて
「いつかの猿か、敵討ちに来たのだの」
と、いった。月丸は、膝も、拳も、脣も顫わせながら、呼吸を荒くして、義観を、睨みつけていた。小太郎が
「無礼なっ、百城。何事じゃっ、何事じゃっ、その様《ざま》は」
舎《いえ》の中へ、響き亙るように怒鳴った。月丸は、ちらっと、小太郎を見たが、すぐ、義観へ
「ずく入」
と、罵った。それを聞くと、小太郎は、立上りざま
「出ろ」
小太郎の突いて来る手を避けて、月丸は、肩を躱《かわ》して
「何をっ」
「無礼者、出ろっ」
二度目の小太郎の突く手を肩に受けて、月丸は、よろめいた。そして、小太郎を、鋭く睨んで
「の、残りの勝負だ。出い。坊主諸共叩っ斬ってくれる」
と、叫ぶと、縁側へ、足早に出て行った。南玉が、周章《あわ》てて、身体を引いた。義観は、脣を尖らして、眼に、微笑を浮べて、眺めていたが
「小太郎」
と、呼んで、転がっていた脇差を、取って
「戻してやれ」
「はい」
小太郎が、脇差の抜身を持って縁側へ出ると、月丸は、襷を、袖の中から、取出していた。右手が痛むらしく、不自由そうであった。だが
「支度をせい、うぬから先に、勝負だ」
と、叫んだ。小太郎は、縁側へ、脇差をおいて
「これへ置く」
そう云って、南玉に
「危いから、入っておるがいい」
南玉は、一つ、頭を下げて
「講釈じゃ、こうは行かない」
と、呟いた。義観が、箒《ほうき》を持って、月丸の草鞋の土を、掃き出していた。南玉が
「手前、致します」
と、箒をとった時、月丸が
「何が、生死を超越すだ。薩摩隼人は、いつでも、超越しておるぞ。この生臭。小太郎、勝負せい。ずく入風情に、云いすくめられて、それが、隼人か。恥を知れ、恥を」
と、叫んだ。少し、顔色が、蒼白めていた。
小太郎は、縁側に、突立ったまま、黙っていた。義観が
「そう怒るものではない」
と、いって、小太郎の横へ立って、月丸に
「果合は、いつでも出来る。上って来るがよい。その草鞋を、脱いでな」
「降りろ、小太郎」
月丸は、杉木立の中の、しめった草の中へ立って
「隼人の名の汚れを、知らぬか。生臭風情に罵られて、それが、隼人か。腰抜け。斬ってやる。参れ――大阪での勝負のつづきだ――うぬ、人の邪魔立をして――」
月丸は、刀の柄へ、手をかけたが、臂の痛みを、感じると
(七瀬も、綱手も、こやつも、親子諸共に、斬ってやるぞ)
と、思った。臂の痛みも、己の技量も――総ての考慮を、判断を失っていた。義観を討ち洩らした口惜しさ、それを妨げた小太郎への憤りが、身体中を、焔のように、駈け廻っていた。父、牧仲太郎の、悪い、黒い血だけが、月丸の血管に、流れているようであった。
「降りぬか」
「お前、わしを、斬りたいのか」
義観が、笑った。
「もう、貴様などに、用はない。小太郎っ、卑怯者っ。七瀬も、わしが、殺したぞ」
「月丸」
と、小太郎が、叫んだ。だが、そう叫んだまま、黙ってしまった。
(本当か? わしを、憤らせて、誘い出す手か?――よし、本当にしろ、義観のいった生死のこと――あのことを、もっと、考えて――)
南玉が
「困った方で、ござりますな」
と、いって、箒を持って、敷居のところへ出て来た。
「よし、降りて参らぬなら、それへ、参るぞ」
月丸は、窪地の、草の中から、歩き出して来た。
「拙者対手仕ります」
小太郎が、義観にいった。義観が、南玉に、手を出して
「箒」
と、いった。そして、箒を手にして、縁側へ出ると、ずかずかと、低い、崖から、登って来る月丸の顔へ
「猿」
と、叫ぶと、ぱっと、砂を、浴せた。砂は、生物のように、義観の心のままに、月丸の顔へ、当って、散った。
「うぬっ」
月丸が、右手で、刀を抜き払って、左手で眼を防いだが、砂が、眼に入ったらしく、そのまま、佇んで、眼を押えてしまった。
「二度も、生臭坊主の手込めに逢った上は、恥辱であろうから、死ぬがよい。首を縊るなら、枝が、いろいろとあるし、腹を切るなら、得物は手にあるし――隼人が、泣いてはいかん。泣くくらい口惜しければ、切腹するのだの。引導は、わしが、勤める――」
月丸は、眼を拭きつつ、一寸、開いてみて、一足進んだ。そして、顔中を、しかめて、又、一足進んだ。そして、もう一度、涙で開かぬ眼を、開いて、一足進んだ時、第二の砂が、あっと、思って、眼を閉じた瞬間、それよりも早く、眼を刺していた。月丸は、刀を振りかざして、崖を、一飛びに、登った。その刹那
「馬鹿っ」
小太郎は、声と、身体とを、一つの鉄丸のように、月丸へ、叩きつけた。月丸は、草の中へ、仰向きに、ぶっ倒れた。
「若旦郡、その馬鹿野郎をっ――」
と、南玉が、叫んで
「月丸って――あの、綱手様を、殺した月丸?」
小太郎は、倒れたまま、暫く、起き上らない月丸から、南玉へ振向いて
「そうじゃ」
と、頷いて、足の泥を払って、縁側へ、上って来た。そして
「如何、取計いましょうか」
と、義観に聞いた。
「綱手――あの、妹を、あれが、殺したと、いうのかな」
「はい」
「そうか――そして、さっき申した七瀬と、申すのは?」
「綱手の母にござります」
「それも、殺したのか」
「さ、しかと存じませぬが――母は、遠く、国許に居りまして――」
と、答えた時、月丸が、草叢《くさむら》の中へ、坐った。そして、刀を持ったまま、じっと、眼を閉じていた。涙が、頬へ流れていた。
「小太郎――心の出来ておらぬ、武士の意地とは、かようのものじゃ。己を知らず、人を知らず、恥を知って、恥を知らず、恥かしめるを知って、恥かしめられるを知らず、殺人刀を知って、活人剣を知らず、猿が、影を捉えるようなものじゃ。よいか、殺を論じて、一毫《いちごう》を破らず、活を論じて、喪身失命すとは、このことじゃ。わしは、殺を論じたが、一毫も、自他を破らぬが、彼の仁、活を論じて、自らを失っておる。剣刃上に、殺活を論じ、棒頭上に機宜を別つ。わしと、月丸との、この試合をよく考えてみい。人を殺して、生かす、生かして、殺す。二人を較べる時に、自《おのずか》ら、会《え》するところがあろう。身に邪心なく、真知の働く時は、思わざるに、勝ち、然らざる時には、量らざるに破れる。一心、生死を放念し、雑念を去る時、即ち、生を離れ、死を離れるの時じゃ。先刻、わしを、庇った時の働き、あの境を、よく味わってみい。わしを、庇い、且つ、月丸を、庇って、純一無類、それが、不偏|不倚《ふき》、無一無適の意《こころ》じゃ。判るか。言葉にすれば、難かしいが、味わえば、やさしい。どうじゃの」
と、義観は、南玉を、振向いて
「上は天文、判るかの」
と、笑った。
「へっ」
と、南玉は、お叩頭をした。月丸が、眼を拭いて、起ち上った。そして
「仙波」
と、叫んだ。小太郎は、義観の言葉を考えていて、答えなかった。
「討つぞ――忘れるな」
月丸は、刀を、鞘へ納めて
「坊主、いずれ、その首を、取るぞ」
「ああ」
義観が、笑って、頷いた。そして
「然し、のう、月丸、わしの首を、取るより前に、気の毒じゃが、死相が現れているぞ、死に近い相が――」
月丸は、鏡を見た時に、自分でも、そう感じたのを、思い出した。そして
(何かしら、魔物の住家のような山だ)
と、思った――そして、口惜しさが、全身に、溢れていたが、いくらか、落ちつくと
(二人がいる上に、臂を打たれているのでは、敵わぬ。ここを耐えて、次の機を――だが、隼人の意気は、十分、見せておいた。今夜にも、あの坊主を――そうだ、綱手の鏡を埋めて――忘れていた)
と、思って、歩みにくいが、一足歩み出した。そして
(俺は、卑怯で、逃げるのではないぞ)
と、思った。南玉が
「若旦那、綱手様の敵《かたき》を――」
と、いいかけると
「霊地を、汚すのではない」
と、小太郎が、静かにいった。
木立の中――遥かに、上の梢で、小鳥が鳴いた。月丸には、それが、自分を侮っているような声に聞えた。
(何かしら、わしは、心の平均を、失っているようだ)
と、思った。
(この間から、眠れないで、気が立っているが――)
それが、義観に斬りつけて、失敗《しくじ》った因のように思えた。
(あいつは、魔物だ――小太郎が、一喝されて、縮み上ったのも、無理はない。然し、意気地の無い――わしは、よし、彼の坊主に、殺されようとも、もう一度は、必ず、襲ってやるぞ)
月丸は、綱手と契った夜の無念さを、忘れることができなかった。義観を怨むというよりも、義観のために一喝されて、木にぶっつかりつつ、石に躓きつつ、逃げ出した自分の醜さに対して――人に顔向けのできぬ、その時の醜さに対して、自分の心の癒えるように、したかった。
(もっと、落ちついて――あの、小太郎への説法ぐらいに、吾を忘れて、憤るようでは、いかん。何うして、こう、気短かになったのか――それにしても、小太郎の技量は、一流の達人だ。わしも、不用意であったが、義観へ、斬り込んだ時に、臂を打った早業は、人間業ではなかった)
月丸は、草の中、木の中を歩みながら、八郎太を埋めてある墓の方へ近づきつつ
(真知の働く時は、思わざるに勝つ、と、あの坊主は、小太郎に説いていたが――)
そう考えてくると、心が、落ちついてくるし、小太郎に対して、説いていた義観の言葉が、頭の中へ明るく、微笑して、浮んできた。だが
「馬鹿らしい」
と、呟いた。
「糞坊主、坊主の分際で、隼人に剣を説き――小太郎め、説かれて、恐れ入って、何んたるざまだ」
月丸は、憑《つ》かれた人のように、独り言を云いつつ、くるりと、堂の方を、振向いた。もう、縁側には誰も居なかった。月丸は、大きい溜息をした。そして、暫く、じっと、凝視めていたが、振返って、踏み出そうとして、さっと、顔色を変えた。
今まで、前方を、眺めながら、歩いて来たのに、少しも、眼に入らなかった墓が、はっきりと、眼についたのであった。そして、それが、眼に入ると同時に、月丸は、何かしら、脚下から、寒いものが、背骨を伝って、全身を掠《かす》めて行ったような気がした。
(墓が、おれを、招いている)
と、感じた。そして、佇んだまま、じっと、墓を睨みつけていた。
(こんなに、明瞭《はっきり》と、こうしていて見えるものなら、先刻から、見えるべき筈だ)
月丸は、何かしら、墓が、生きているように思われた。風もないし、小鳥も囀《さえず》らないし、寂寞とした、深い杉木立の中に、じっと、生きている墓を、睨みつづけていた月丸は
(八郎太が、招いている)
と、感じると同時に、綱手の死んだ時の血の臭が、鼻を掠めた。七瀬が、手を握りしめて、白い眼を剥き出して、脣を噛み切って、仰向きに、転がった時の、その、怨恨に充ちた眼を、思い出した。立っている地が裂けて、地獄へ陥るように感じたり、墓の後方から、三人の霊が、のぞくようにも、感じた。
(何うかしている)
月丸は、眼を閉じて、落ちつこうとしたが、眼を閉じると、赤く閃く玉が、上へ昇ったり、下へ降りたりするし、又、血の臭が、鼻の中へ、
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