、逃げられますよう、対手を殺しますよう――そんな覚悟で、人を殺そうというのが、土台おもしろうない。異邦人共の心懸けは、こんなもんかも知らん。隼人の持つべき武器ではない。玩具――こけ脅かしで、こいつあ、音でびっくりするのう、雀を追っ払うのにええ」
 伊牟田は、帆を操って、追手の船を、眺めながら
「あんな小舟に、七八人も――馬鹿め、舟足がおそくなるだけではないか」
「何うせ、将曹の手下共じゃ。一つ、あの舟を狙って、撃ってやろうか」
 艪を漕ぎながら、振向いた。
「無益の殺生はよせ、唐崎辺へつけて、叡山から、雲母《きらら》越えに戻ろう。大津は、危いかも知れん」
「然し、恭平、これを熟練して、百歩にして、柳葉を撃つ、というようになれば、剣など廃《すた》るの」
 と、有村は、板の上の短銃を、じっと眺めていた。
「心さえ到っておったなら、この短銃と、三十歩にて、小太刀で立合える、と、わしは思う――将曹対手に、命を棄てるのも、と、そんな心掛けでは、矢張り討てんのう。将曹づれを討つにしても、矢張り命を棄ててかからぬとのう」
「長州が、鷹司家へ、よく出入するようになったと聞いたが、長州も、動くのか」
「長州も、土州も、続々浪人して、京へ集まって来るらしい。水藩の有志なども、四方へ奔走しているそうだ。益満が、もう、来る頃ではないか? 彼奴に、江戸のことを聞いて」
 と、いった伊牟田が
「有村、もう、追手は、諦めたらしいぞ。そう、漕がずとよい。今度は――」
 と、立上って
「わしが代ろう」
 と、艫《とも》の方へ行った。有村は、それでも、漕ぎながら
「牧の奴、大阪にいるというが、本当かのう」
「居るには居ったが、今は、居らんらしい。何んでも、伊吹山、とか申す山へ行ったと聞いたが――」
「伊吹山なら、あれだ」
 と、有村が、指さした。伊牟田が
「そうか」
 と、云って、その方へ眼をやりながら
「小太郎などと申す代物は、一体、何うしているのか? 父の仇、主君の敵でありながら――討てば忠孝両全のことを――」
「人のことは、何うでもよい。同志への誓約を、果した上は――」
「果したとは云えぬぞ」
「果したことにしておけ――あれが、唐崎であろう。早う、京へ入って、人を斬らんと、短銃で、やり損じて、胸につかえた形だ」
「斬りたいのう」
 伊牟田は、こう云って、刀の鯉口を、一寸くつろげてみた。
「天下御免で人が斬れるなど、いい御時世だの」
 二人は、いつの間にか、近づいて来た叡山を、唐崎を見ながら、追手が来ないと知って、あぐらをかいて、坐ってしまった。帆は、十分に風をはらんでいた。

「ほほう、これは、尤物《ゆうぶつ》だ」
 有村が、入ると、深雪を見て、益満へ、こういった。深雪は、ちらっと、赤くなったが、心の中で
(何んという失礼な――)
 と、憤った。益満とは、小さい時からの馴染で、兄のように仕えているから、益満の、ふしだらな言行に、何んの反感も、憎悪も起きなかったが、他人から、こんなことをいわれるのは――町人の、巾着切の庄吉でさえ、ちゃんと、礼を心得ているのに、武士が――人の上に立つ武士が――
(何んという無礼な)
 と、感じると、深雪は、顔も、膝も、横に向けてしまった。
 薄暗い造りの京の宿――手摺も、階段も、廊下も、黒光に光っていたし、つつましい床の間、渋い襖――それは、粗末な、街道筋の宿とは、全くちがって、品のいいものであったが、深雪の心は、だんだん、おちつきが無くなって来ていた。
 何んとなく頭のうしろに、鉛が沈んでいるように重かったし、眼を閉じても、光る水玉のようなものが、きらきらと――時々は、眼を開いていても、ちらちらと見えた。
(何うして、こう、不幸なのだろう)
 と、思うと、京へついた夜から、眠れなかった。親に、姉に、兄に――ただ、従え、おとなしくしていろ、と――益満までならいいが
(こんな田舎侍に、あんなことをいわれても)
 と、思うと、横を向いていても、涙が出そうであった。
(お母様から聞くと、国許では、もっと、女子は、男に柔順だというが――何一つ、自分のしたいことも出来ずに)
 深雪は、いろいろの、姉の、自分の、母の苦労を想い出した。
(でも、お由羅様を刺そうとして、あんなに、みじめに捕えられたり――矢張り、女は、駄目かしら?)
 そうも思えたし
(姉さんは、自分のしたいことを、一寸、したばかりに、人手にかかって――)
 と、思うと、男の命《めい》のままに、じっとしているより外に、ないようにも思えた。だが、益満が、出たり、入ったり――そして、庄吉が、欠伸をしているのみで、部屋から、一足も踏み出すことのできない深雪は
(せめて、この間に、叡山へ行って、父の墓詣りくらいはしてもいいのに――)
 と、益満へ、不平の心が、起きて来た。それから
(町方の女が、羨ましい)
 とも――それは、自由に出歩ける女を、二階から見ていると、墓詣り一つにさえ――父の墓へ、初めて詣るということ一つでさえ、思うままにならぬ自分に、腹が立ってくるのであった。
「密談がある。次の間へ」
 と、益満が云った。深雪は、何故かしら、腹が立った。
「妾――叡山へ、墓詣りに参りたいと、存じますが――」
 益満が、頷いて
「そうか――うむ、行くがよい。庄吉でも、つれて」
 と、云った。深雪は、中っ腹で、突っかかったのに、益満が、すぐ、承知してくれたので
(怒ったりして、済まぬ)
 と、思うた時
「墓詣り?――何んなら、拙者が」
 有村が、あぐらをかいたまま、笑った。そして
「誰の墓だの。云いかわした男の――いや、墓詣りなどと申して――よくある手じゃて――益満、何うして、手に入れた女だ」
 深雪は、一言一言に、汚れて行くように感じた。

「父の墓で、ござります」
 こういって、深雪は
「では、すぐに行って参ります」
 と、立とうとすると、益満が
「これは、仙波の娘じゃ」
「ほほう、八郎太の――そうか、それは、とんと御無礼だ。御両親とも、無残な御最期で、御察し申す。わしは又、江戸の――」
 と、いいかけているのへ、深雪が
「あの」
 と、叫んで、顔色を変えながら
「ただ今、仰しゃりました――」
 と、いいかけると、益満が
「七瀬も、人手にかかったのか?」
 と、口早に、聞いた。
「知らんのか」
「誰に?」
 庄吉が、次の間で、聞いたらしく、動く気配がした。
「牧の倅に」
「百城月丸か」
「月丸?」
「大阪では、変名しておったそうだが――」
 深雪が
「あの、それは――」
 と、いったまま、拳を顫わせて、眼を、ヒステリカルに光らせて、呼吸を喘《はず》ませてしまった。
「不思議なこともある」
 益満が、いつにない真面目な、腕組をして
「この姉が、矢張り、牧の手にかかって、相果てた」
「ふむ、矢張り、尤物であろうの。それは、惜しい。成る程、不思議なこともあるが、牧の倅と申せば、斉興公の御一行に入っている筈であるが――」
「何うして? 七瀬殿が、又、牧の手にかかったのか――」
「詳しいことは判らんが、噂に聞くと、彼奴、お由羅派として、四ツ本喜十郎の許におったらしい。それへ、何うしたのか、その七瀬が斬込んで、殺されたというがの。無礼討ちになった、という噂もあるし――何れにせよ、牧の小倅の手にかかったことは、真実じゃ」
 深雪は、俯向いていたが、泣いていなかった。死んでみても、何う苦しんでみても、何をしてみても、何を考えてみても、何うしようもない、大きい魔物の力が、自分達一家を引っ掴んでいるように思えた。小太郎が
「死出の旅だぞ」
 と、いったのが、頭の心へ、しみ通って感じられた。
(次は、妾の番――それから、兄上――いいえ、今頃は、もう兄上が、何んなことになっているか――叡山――父の斬死した叡山へ、兄が一人で――)
 そう思うと、叡山の上に、何か、大変なことが起っているような気がした。そして、それは、同時に
(一家が、死絶えるのなら、せめて、姉さまを、母上を、手にかけた、その牧の息子を――百城月丸を殺して――)
 深雪は、狂人のように興奮してきた。
「月丸は、斉興公の御供の中におりましょうか」
「さ、しかとは、判らぬが――」
 深雪は
(兄に逢うて、このことを話して、それから、斉興公のあとを追って、百城を――兄が承知しても、しないでも――万一の時には、庄吉と二人で――庄吉は、きっと、死んでくれるであろう)
 そう思うと、庄吉と、二人で、斬り殺されて、何も知らぬ人々から、二人が不義をしていたように見られて
「武士の娘が、巾着切と――姉も姉なら、妹も妹だ」
 と、罵られるのが、はっきり想像できた。だが、深雪は
(何うなってもいい――もう、自棄《やけ》だ)
 と、思った。
「庄吉」
 と、益満が、呼んだ。
「へい」
 襖を開けて、入って、有村に
「お越しなさいませ。手前、庄吉と申す、やくざで、ございます」
 左手をついて、丁寧に、御叩頭をした。有村が
「うむ」
 と、頷いた。深雪は
(あんなに、威張って――)
 と、又、腹が立った。
(貴下方よりも、ずっと、庄吉の方が、よい人間でございます。武士の、士のと云って――人を見下げてばかりいて、本当に、やさしい心の人は、一人だっていないのに――それどころか、人の母を殺し、姉を殺し――)
 と、思ってくると、有村も――益満さえ、憎くなってきた。
「深雪と一緒に、叡山へ行ってくれんか、墓詣りにの。すぐ立てば、白川へは、夜に入らぬ内につくであろう。気晴らしに、行って来るがよい」
 庄吉は、俯向いたまま
「はい」
 と、答えた。
「その間に、わしは、同志と打ち合せをしておく。或いは、小太郎と、逢えるかも知れんが、逢ったなら、共々、ここへ参るがよい」
「ほほう、小太郎が、叡山に?」
 と、有村が、
「彼奴は、よい稚児《ちご》であろうが」
 深雪は、自分だけでなく、兄まで、汚されるような気がして
「行って参ります」
 と、益満へ、手をついた。
「庄吉、物騒なところゆえ、気をつけい」
「ええ」
 庄吉は、襖越しに聞いた七瀬の話――二人っきりで語った時の、深雪の愚痴話を思い出し――それから、深雪が、自分の口から、叡山へ行きたい、と、云い出したの、と、三つを考え合せると、はっきりと、深雪の気持が判った。
(よく死にたい、と仰しゃるが、今のようだと、本当に、そんな事になるかもしれん)
 と、思えた。そして
(この人が死んじまったら、俺は――)
 と、考えると、身体中から、何かが、悉く抜け出してしまうような感じがした。
(一緒に死ぬ?――馬鹿らしい。ここで、この人を死なしちゃあ、己の男が立たねえ。死ぬったって、そいつを止めて、笑顔を見せるようにするのが、男ってもんだ、それが男の強い力ってもんだ)
 庄吉は、自分さえついていたなら、侍の一人や、二人――
(俺が死ぬつもりなら、指一本、ささせるものか)
 と、思った。だが、その底の方には、深雪の悲しみに同感して、同じように、泣き濡れている心が、じめじめとしていた。
「行って参ります」
「深雪、懐剣は?」
「片時も放しませぬ」
「では、庄吉、頼むぞ。駕をやとって、陽の落ちぬうちに戻れ」
「心得ました。では、貴下様」
 有村に、お叩頭をすると
「羨ましいぞ、こら」
 と、云って
「貴様、片腕か」
「女に手を出して、斬られたの」
 庄吉も
(厭な野郎め。手前なんかに、江戸っ子がわかるけえ)
 と、怒りながら
「切口の鑑定はわかっても、心の善悪は、ね」
 と、いって、立上った。
「切口か、うむ、出してみろ」
「へへへ、戻ってからね」
 と、いって、庄吉は、襖を出て行った。

(父の、斬死した山――)
 小太郎は、夏の、陽盛りの空に聳えている叡山を見て
(そして、自分の、死にかけた山)
 それは、二つながら、自分の眼で見、自分の身体に刻みつけた事実であったが、恐ろしい夢の記憶のように、自分の経験ではなく、もう一つ別の自分の経験であるように、感じられた。
 床下から、調伏《ちょうぶく》の人形を掘り出して以来の、旋風のような、いろ
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