とか、仇討の者が、女に手を出しては、汚れるとか、孔孟の弟子みたいな考えで、この乱れんとする当節に、物の役に立つか?」
「そう云ったって、貴下――」
と、南玉が、口を出したのを
「黙れ、駄講」
益満は、退けて
「もし、牧を、首尾よく討ったとしたなら、その後、一体、小太は、何を目当として、暮して行く。島津に対して、いかにも、牧は悪逆の徒じゃ。これを誅するのは、善にして、勇なるものであろう。然しながら、天下の形勢は、島津をして、薩南|偏僻《へんぺき》の、田舎者のみにしておかなくなったぞ。徳川に代って天下をとるか? 取らぬか? よし、取るにしても、取らぬにしても、島津は、今や、天下の島津だ。世界万国に対して、将軍よりも、斉彬だ。よいか、吾々、島津の家来は、島津家一家に対して、忠であると共に、天下に対して、大いになすべき使命があるのだ。片手に牧を討って、片手に、天下の蒼生を救うのだ。黒船の来襲、これを、小太、誰が救う?」
「手前の踊で――」
と、南玉が云って
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瀬田の橋から見渡せば
矢走の船も、帆をハリス
[#ここで字下げ終わり]
と、口|吟《ずさ》みながら、それでも、その眼は、情熱をもって、益満を凝視していたし、その耳は、一語を、一句を、頭の中へ、滲ませていた。
庄吉は、欄干へ片手をのせて、その上へ顎を置いて、清冽《せいれつ》な水を眺めながら
(うめえことをいうわい)
と、感心していた。深雪は、時々、通りながら、じろじろ眺めて行く旅人の眼を避けて、庄吉と同じように、湖水を見ながら――だが、その心は、益満の話を聞きながら
(本当に――)
と、思ったり、そう思うと、小太郎の、父に似た頑ななところを、早く、益満のように、捌けてくれたらと、思ったり、俯向いている小太郎を、眼の隅で見ては
(何んとか、云えばいいのに)
と、兄の肩をもったり――していた。
「わしは、徳川倒壊のために、西郷吉之助等と、力を合せて、江戸表にて、事を起そうと企んでおる。その起す事の第一が、小太、驚くな、押込強盗をするのじゃ」
四人が、一斉に、益満の顔を見た。
「悪事であろう。押込は――然しながら、ここから、倒幕の火の手が上って、それが、天下のためになることなら、即ち、勇を振って押切るの一手だ。悪にして、大善。大道、大義に通じるものじゃ。牧一人を、終生の目当として、斉彬公のお心の百分の一にも当らぬことに、一生を賭すなどとは、少しちがうぞ。わしが、貴様を、救おうともし、救わぬかもしれぬと申すのも、この大きい目当の邪魔になるかならんかが、その岐《わか》れ目だ。判るだろうな、小太」
「よく――よく判る」
と、小太郎は、大きく、頷いた。
「判るか」
益満は、微笑して
「男子、天下の難に赴く、事の成否を論ぜず、善悪を問わず、ただ、勇躍して、死地に入るのみだ。元亀、天正に謳われた、薩摩隼人の意気を、今や、再び、天下に示す時だ。小太郎、嘗ては、身の軽輩に生れたことを嘆じたが、今日では、軽輩であるゆえに、仕事の仕甲斐があると申すものだ。馬鹿老中、馬鹿大名のできぬ仕事を、素町人並に扱われていた軽輩が、しでかすのだ。千載一遇の時期とは、かくの如き時世だぞ。京へ入ってみい、天下の浪人が、風を切って歩いている。五年前に、京都所司代が一睨みすれば、ちぢみ上っていた浪人共が、あべこべに、所司代を脅かしておる。五年後には、何うなるか? 俺は、それを思うと、じっとしておられん。小太、共々に力を合そうではないか? 牧を討つのはよい。然し、討たずともよい。天下のことも、死をもって当らなくてはならん。同じ死ぬなら天下のために死ね。今の時世に於て、只一つ正義は、大義は、徳川を倒して、王政を復古させることだ。よし、破れても、天下対手にして、破れるのは、男子の本懐ではないか? 謂わんや、天下の勢いとして、吾等がよし破れようと、必ず後継者の起る以上、男子として、武士として、この志に赴くのは快心事ではないか。のう、卿等、碌々人によって事を為すの徒、燕雀何んぞ、大鵬の志を知らんや、という語があるの――」
「子|曰《のたまわ》くにございましたかね」
「これで別れよう。深雪、わしと、京へ行って、小太郎の便りを待て」
「はい、でも――父の墓へ、一寸――」
「墓へ詣って父が喜ぶか、天下のために働いて、父が喜ぶか、女子などの知ったことか。わしの指図に従え」
小太郎は、心の中で
(益満にあずけおけば、家の名ぐらいは、残るであろう――それがいい)
と、思った。
「深雪、益満に、万事任せておけ」
「はい」
「庄吉」
と、益満が呼んで
「深雪の供をして参れ」
「ええ――然し、若旦那を――」
「それでは、小太郎について行け」
南玉が
「一向、手前には、御指図がございませんが――」
「貴様、この水の中へでも潜っていろ」
南玉は、首を一つ振って
「手前は、講釈師で、水芸師ではございません」
「若旦那御一人じゃあ、ね――師匠、俺《おいら》が、若旦那にくっついてくよ。深雪さんは、益満さんに、あずけときゃあ、大丈夫だ。二人で、一番、牧の野郎の睾丸《きんたま》へでも、ぶら下っちまおうじゃねえか」
「鼻を齧るのはよしたか」
「お嬢さん、命があったら、又――」
と、庄吉は、笑った。小太郎が
「両人共、深雪について参れ」
「いやだ」
と、南玉が、首を振って
「俺、その刀をもらって、金のかたにせんとのう」
と、云って、横を向いてしまった。益満が
「庄吉、ついて参れ。小太郎一人でよい。牧の消息を知ってからのことにして、遅うはない、ついて来んと、深雪を、島原へ、叩き売ってしまうぞ。ついて来い、ついて来い、とっとと、ついて来い」
益満は、節をつけて、ついて来い、といいながら、歩き出してしまった。深雪が
「お兄様」
「行けっ、心配すな」
益満は、足早に、四人は、そろそろと、橋の上を歩いて行った。
瀬田の橋の下に、もう、一刻近くにもなるであろうか、小舟が一艘《いっそう》、じっと、していた。
「この湖から、竜宮へ通じるというが、こうして見ていると、成る程、綺麗な水で、何かが、水底にありそうだの」
一人の船頭が――姿は、船頭であるが、武士の言葉で、こう低く云った。
「うん」
一人は、腕を組んで、眼を閉《つぶ》って、身動きもしなかった。二人とも、頬冠りをしていたが
「一度、様子を見るか」
と、水の面から眼を放すと
「ああああ、畜生っ」
と、欠伸をしてから
「もう、来なくちゃならぬ、陽ざしであるが――」
と、呟いた。
「追っつけ来るであろう」
一人は、未だ眼を閉じたままで、答えた。
「待つ身になるな、虫の声、志賀の都は、荒れ果てて、か。山崎西に去れば、桜井の駅、伝う、これ楠公子に別るるのところ」
小声で、詩を吟じかけた時、馬蹄の音が、橋板一面に響いて、水の面へ拡がって、京の方から、聞えてきた。眼を閉じていたのが、腕を解いて、眼を開くと
「有村」
二人は、ちらっと、眼で、語り合うと、すぐ、艪《ろ》をとって、艪臍《ろべそ》へ落した。静まり返っていた水が、左右へ揺れて、うねりが、だんだん拡がると共に、舟は、橋の下を離れて、湖心の方へ、すべり出した。
有村は、舟の中でしゃがみながら、じっと、橋の上を眺めていたが、馬蹄の轟く音が、近づくと共に、
「そうだ」
といった。
「見えるか?」
と、伊牟田が振向いて
「御持槍が見える。愚図愚図してはおれんぞ、有村」
艪をすてて、胴の間へ、どんと、飛び降りると、二人とも、短銃へ、弾丸を込めた。二梃とも、精巧な舶来物であった。
島津斉興公の出府人数は、先払いから、小半町遅れて徒土頭を先頭に、丸に十字の金紋打った直槍《すぐやり》をつづかせ――だが、急ぎの道中のことといい、町を離れてからのこととて、槍を伏せて、制止声もかけず、足並を乱して、足早に、槍が二本、日傘、坊主、小姓、馬廻り、挟函、医者、胡牀《こしょう》、馬、土産の長持――いつもよりも、人数は少いが、それでも、二百人余りが、長々と橋を轟かして、渡って来た。
お由羅は、朱塗、金蒔絵の女駕に、斉興も、駕に、平、将曹等は、馬上で――その左右には、書院番、奥小姓などが、付き添うて、それぞれ、陣笠に、陽を避けつつ、いろいろの響きを、混合させて、橋いっぱいになって、通りかかって来た。
「顔がしかと見えぬが――」
「前のが、平だ」
伊牟田は、こういって、短銃を、右手にして、四辺の舟を、十分に注意してから
「よいか」
と、有村を見た。
「よしっ」
有村は、いつでも、帆を上げられるように、用意して、その帆の蔭から
「将曹を撃つぞ」
と、いって、狙いを定めた。
「十分に、狙いを――落ちついて」
と、伊牟田が、声をかけて、片膝を立てながら、引金へ指を立てた。
駕脇の一人が
「あっ」
と、叫んで、湖水を、指さすと、一人が
「曲者っ」
と、叫んだ。人々が、湖上から、それを見つけ出そうと、一斉に、左を向いた刹那
「危いぞ」
と、平が、叫んで、馬の頸へ、身体を、伏せようとした。その、ほんの一刹那――だ、だあーん――湖水いっぱいに、山々に、橋に、響き渡った。
駕脇の士は、刀の柄へ手をかけて、お互に身体をぶっつけながら、駕に当りながら、駕を守った。
「急げっ、急げっ、走るんだ」
と、供頭が、陸尺《ろくしゃく》を、叱りつけて、棒鼻を叩いた。駕は人々と一緒に走り出した。足音と、叫び声とが、高く、渦巻いた時、将曹が
「周章てるな、不覚者。何が、恐ろしい!」
と、叫びざま、馬から、降りた。そして、右手で、左の腕を押えていた。二三人が
「御前、手疵を――」
と、顔を寄せると
「掠《かす》れ弾《だま》じゃ」
と、云って、
「曲者を追え。その辺に漁夫の舟があろう」
「はい」
と、答えて、二三人が、左右へ、走ったが、それよりも早くに、後の方にいた七八人の人々が、もう走って行っていたし――走りながら
「船頭、舟を貸せっ」
と、叫んだり
「おーい、船頭、その舟を捕えろ」
と、絶叫したりしていた。一人が、橋の上から袴を脱いで、飛び込もうとするのを、一人が
「泳いで、追いつけるか、この馬鹿」
しがと、止めたり――平は、馬の頸に、獅噛《しが》みついて、滑り落ちるように、飛び降りると、びゅーんと弾丸の唸りを聞いた。
(危いっ)
と、感じ、そして、将曹の、撃たれたらしいのを見ると
「何うした?」
と、侍に守られながら近づいた。
「お上は?」
と、将曹が聞いて、周囲へ群立って来た人々へ
「馬鹿っ。何故、お上を警固せん。わしに係り合って、何になるかっ」
と、怒鳴った。そして、逃げて行く舟を見ながら
「これしきのことに、騒ぐな。みっともない」
手で、傷を押えて、歩みかけると、医師が来て
「御手当を」
と、云った。将曹が、腕をまくると、二の腕のうしろから血が出ている。
「これは、掠れ弾で、ござります。別条のない――」
と、医師が云って、供の持っている函の中から、膏薬を出してきた。
有村の舟は、帆を上げて、艪を漕いで走っていた。二三艘の舟が、近づいたが、短銃に、威嚇されたらしく、追って行かなくなった。
橋づめから、一艘の舟へ、七八人の人々が、乗り込んで、漕ぎ出したが、船頭が一人らしく、有村の舟を、追えそうにもない、舟足の鈍さをしていた。
「お為派であろう」
と、平が、将曹に云った。
「さあ、何れにしても、まず、仕合せ」
と、将曹は、腕に繃帯をしながら
「駕脇を十分に固めて、先触れの人数を、もっとふやすがよい。江戸まで、油断ならんぞ」
と、人々に、注意した。
「何んと、まんまと、失敗《しくじ》ったの」
有村は、追って来る舟を、時々、振返りながら
「何うも、命を惜しんでする仕事は、いかんて」
「いかんと申しても、これで、気が済む。何うも、短銃は、便利は便利だが、武士の用具ではないのう。矢張り、近づいて、刺すのが、一番確かのようじゃ。こんなもので、遠いところから、どんと、やらかして、命もありますよう
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