く、御馴染様に、御礼申し上げます。さあて――まだまだお早うござりますゆえ、かく、お銭の集まりましたる上からは、一つ、黒船おっ払いの、お呪いとして、南玉一世一代の踊を、御覧に入れます。後の世までの、語り草――いやあーっ、てん、てん」
と、口で、拍子をとって、尻を端折《はしょ》った。そして、鉢巻をしめて高座へ上って、手をかざして、延び上りながら
[#ここから3字下げ]
品川沖を、見渡せば
ハリスや、ハリス
帆をハリス
煙をハリス、黒船が
来たっ、こりゃ、ばかりで
腰が抜け
見たっ、こりゃ、ばかりで
胆つぶれ
[#ここで字下げ終わり]
と、唄いながら、出鱈目に、踊り出した。
益満は、掛物さえかかってない、小さい置床を枕に、仰向きに、寝ていた。二人の浪人者が、一人は、濡縁から、庭――それは名ばかりの、一坪あるなしの庭へ、足を出して、腹這っていたし、一人は、両腕に頭をのせて、仰向いていた。
「世の中に、退屈しているくらい、辛いことはないのう」
一人が、こう云ったが、二人とも、黙っていた。暫くして、益満が
「小太郎のように、一心に、牧を狙っておれる奴は、幸だ」
と、呟いた。
「近日、又、牧を捜しに立つらしいが、助けてやらんでよいのか」
「それを考えているが、俺の路銀を、南玉に皆くれてやったから――」
「あの、よぼ講釈師が行ったとて、何になる」
「俺は、俺で、又、名越から借りもできるが――俺は、ついでに、京都へ行ってみようと思っている。江戸が騒ぐよりも前に、京都の天地の方が、面白そうだ。吉田松陰が捕えられたし、佐久間象山が捕えられたし、斉彬公の御代になるのを待って、錦旗を乞うて、一戦仕出かすには、何うしても、京都へ一度行かんといけぬ」
益満が、こう云った時、長屋の外で
「この店に、益満って人は、居るかい」
飛脚屋の声らしかった。一人が
「ここだ」
と、云って、起き上ろうとした時、富士春の声で
「ええ」
と、聞えると、下駄の音がして、格子が開いた。
「お前さん、赤紙付の手紙だよ。一寸、印をついておくれな」
富士春は、湯戻りらしく、襟白粉を濃くして、七つ道具を片手に抱えて、右手に、手紙を持って来た。
「おいきた」
一人が、受取ると、益満が、矢立を開いて、朱肉を印へついて、手紙を、裏返すと
「うむ」
と、云った。そして
「おい」
と、赤紙を、富士春に渡して、封を切って読んで行くと、微笑して
「あはははは、西郷め、大きな図体を、持て余して、居やがるぞ」
そう云って、披げたままの手紙を、二人の前へ投げ出した。二人は、少し読んで行くと、笑顔になって
「面白いが、ちと、手荒いの」
「御用盗とは、よく名づけた」
富士春は、鏡台の前で、鬢《びん》を掻き出しながら
「何んの手紙?」
一人が
「女、童《わらべ》の知ることならず」
と、台詞もどきに云って
「行かずばなるまい」
益満は、手紙を、引きとって、巻き納めながら
「調所《ずしょ》の残しておいた金が、かようの役に立とうとは、不思議なものじゃ。一つ、京へ上って、四五千両せしめて来るか」
そう云いながら、手を延して、付木をとって、煙草盆の火をうつすと、手紙の端へ、火をつけた。
「ああ、今、そんなことをしては、髪が、大変――」
と、云って、富士春は、片手で、髪を押えながら、片手で、鏡台を、左へやって、二三尺も、避けて、頭の上で、片手を振った。
「俺も、同じようなことを考えていた。こんなことを考えるのは、俺のような乱暴者ばかりかと思っていたが、人間の考えというものは、一刻早いか、遅いかだ、のう。俺が、これを始めたなら、幾人、俺もそう考えていた、という奴があるかしれん」
益満は、手紙の灰を見ながらいった。
「何かい、商売でも、あるのかえ」
「うむ」
一人が
「姐御《あねご》、って、商売だ」
と、いうと、富士春が、振向いて
「いいねえ」
と、笑った。益満が
「明日にも立とう」
「立とう、とは?」
「上方へ」
「ええ?」
富士春は、周章てて、肩を入れて、襟を直しながら
「又、急に――」
と、益満の方へ、膝を向けた。
「一月、膝っ小僧と、寝てりゃいいんだ」
「いやだよ――妾ゃ。厭《いや》だよ」
富士春は、煙管へ手を延して、煙草をつめかけた。一人が
「三人では、然し、心細いの」
「同志は、いくらもある」
益満は、富士春のつんとした顔へ、笑いながら
「此奴《こいつ》との流しも、いざといえば、こういう時のためと、人の勝手元から、家内の模様を見ておいたが、案外早く、役に立つ時が参った」
「そりゃ、何んの話だえ」
「女、童の知ることでない」
「変な台詞、よしておくれよ――妾ゃ、厭だよ――何処まででも、くっついて行くよ」
「それもよかろう」
益満は、そう笑って
「それでは、上方への路銀を、一つ、名越で、いたぶって来るかな」
と、呟いた。
「お前さん」
と、富士春が言葉を鋭くして
「妾を、棄てるつもりなのかい?」
「時と場合、義理と道理とによりましてはな」
「妾ゃ、戯談にいってるのじゃないよ。庄吉に――棄てられて、又――」
富士春は、涙声になっていた。
「ささ、その嘆きも御尤も」
益満が、仮声《こわいろ》をつかった。二人の浪人は、腕組をして、天井を眺めていた。
「た、たよりないったら――お前も、茶化してばかりいて、頼りないし、妾ゃ――妾ゃ、この齢で――」
そういうと、袖を目へ当てて、泣きじゃくった。一人が
「お春さん――益満は、そんな、薄情者じゃない。安心して――」
「頼りのうて――この齢をして、これから先、何うなるかと思うと――心細うて」
「わしも、金が無うて、心細うて――」
益満は、富士春の真似をして
「あったら、白粉を、三文方台なしにして――はい、行って参じます」
と、富士春の側を通って、出ようとした。富士春が
「お前さん」
と、延す手を、素早く避けて
「金を、小判というものを、たんと土産に致します。泣かずに待っていやしゃんせ、チチントンシャン」
と、唄いながら、出て行ってしまった。
同じ道に
斉興公の供の中へ加わって、京都の藩邸へ着いた月丸は、湯から上ると、庭へ出て、月を眺めていた。
(わしの地位として、齢として、手柄は十分に立てた。然し――)
月丸は、月の明りの中に、黒々と聳えている叡山を見て
(綱手を、手にかけて――それから、七瀬も――)
と、思うと、初めて契った叡山の夜が、悔恨と、なつかしさとを混えて、想い出されてきた。
庭の立木の、朦朧《もうろう》としたのが、何んとなく、二人の怨念を含んでいるように感じられた。
(叡山へ登って、八郎太の、あの墓の中へ、綱手の鏡を、埋めてやったなら――)
月丸は、己の功名のために利用はしたが、好きであった綱手のために、あの世において、いい目を見せてやろうと、思った。
(鏡――そうだ、当時は、肌につけていたが、いつの間にか――何処へ行ったか――探せば出て来るであろう)
月丸は、二人で登って行った時のこと、お堂のことを思い出すと
(そうだ、あの坊主、あの坊主)
月丸は、悲しい、呪わしい叡山の記憶の中に、黒く、口惜しさの現れてきたことに、腹が立ってきた。
(一太刀でもいい、斬ってやったら――斬って斬れぬことはあるまい)
そう思うと、一つは綱手のために、一つは、己の面目のために、叡山へ登ってみたくなってきた。
(明後日、出立とすれば、中一日、その間には仕事もあるし、重役に願って、五日七日の暇をもらったなら――そうだ、外の者とはちがうのだから――)
月丸は、そう思いながら、部屋へ戻って来た。若い人々は、旅の疲れもなく、何処へか遊びに出たと見えて、一人も居なかった。入ると、何んとなく陰気で、黒い天井に、二人の血が滲んでいるように感じられたし、薄暗い部屋の襖の向うの暗闇の中には、綱手と、七瀬とが、血塗れになって、立っているようにも感じた。
(気の弱い――急に、ここへ来て二人のことを、こんなに思い出すなど――不覚だ――何を二人のために憐むのか? 父が、お為派なら、わしは、或いは、人の刃にかかって、死んでいるかもしれぬ。何方《どっち》が善で、何方が悪か、誰が判る? 所詮は、武士というものの辛さだ)
そう思う片方から
(わしは然し、一旦脱走して、帰参を許されたものの、それは、許されて元々だ。綱手を失っただけが損だ)
とも、考えた。そして、暫く、俯向いて、腕組をしていたが
(そうだ、あの鏡――)
と、思った。そして、小さい、旅行李を出して、蓋をとった。その中には、懐中薬だの、折本の、道中細見、手帳、守り札、着換え、というようなものが、入っていた。そして、その底に、印籠の側に、薄い絹でくるんだ、綱手の形見の鏡が、入っていた。
薄い絹は、少し、黒くなっていた。それは、鏡をしまっていた懐へ流れ込んできた綱手の血に、染まったところであった。
月丸は、鏡を手にとって、自分の顔を、写してみた。そして、じっと、睨みつけていたが、ふっと
(もしかしたなら、父が――父も、叡山へ、来てはいないであろうか)
と、思った。父に似た自分の顔に、父に似た曇りと、疲れとの出ているのを、月丸は、感じた。
月丸は、兵道家の子として、兵道を学びはしなかったが、その少しを、知ってはいた。仙波八郎太のために、叡山の上の、修法《ずほう》場を荒された牧仲太郎は、いつか又、叡山で、修法を――それは、最初の行よりも、三倍の行をしなければならなかった。
(父は、叡山へ来るかも知れぬ――自分が、京へ入ると共に、急に、あの山へ行ってみたくなったのは、何かしら、父の霊と、自分の霊とが、ふれているのでは、ないであろうか)
そういう風にも、思えてきた。
(そんなことは、あるまい――父は、よく、人の霊魂の、不思議を説くが、自分は、七瀬の夢さえ見たことがない――魂の不思議――そんなことがあるであろうか?)
月丸は、父の修法の効験のことを考えると、十分に、あるとも思えたが、自分が、二人の女を殺したのに、何んの不思議も、起って来ないのを考えると、無いようにも思えた。だが、こうして、叡山のことを、考えていると、何かしら、自分が、叡山へ行ったなら、不思議な事が、起るような気もした。そして、そのことが、不安なようであり、怯けるようであり――行ってみたいが、何んとなく、恐ろしいようにも、感じられた。
(何を、怯ける?――行こう――きっと、行く)
月丸は、そう決心した。そして、鏡を、絹へ包みかけて、もう一度、自分の顔を、写してみて
(よく、剣難の相とか、水難の相とか、ということがあるが――)
と、じっと、自分の顔を見ていると、何かしち、いつもよりも、険しいものが、眉に、眼に現れていた。
「剣難の相」
と、呟いて
(対手から、理不尽に、斬られるようなことは、そう、人間には、起らない筈だ。己の心から起したことによって、剣難がくるものとすれば、わしの、近頃の心は、何んとなく、自分を斬り、人を斬るという心だ。これが、剣難であろう。気の短くなったのが、眉間に、現れている)
そう、月丸が、感じた刹那
(綱手の呪い)
と、頭の底深く、閃くものがあった。
(綱手の鏡で、そういうことを、考えるのは――それが、霊の仕業というのであろうか)
月丸は、鏡の裏を、眺めた。蓬莱《ほうらい》山が、浮彫りにしてあった。その図を見ると同時に、胸が、じりっと、苦しさに、圧迫された。
(嫁入の品として、求めたのであろうに)
と、思うと、その苦しさが、悲しさを混えて、だんだん強くなってきた。
「愚にもつかん」
と、いって、月丸は、頭を振った。そして、鏡を、手早く、行李の中へ、入れてしまった。
足音が、遠くから、入り乱れて、響いて来た。人々が、戻って来たらしく、話声と共に、近づいて来た。そして、襖が開くと
「一人で?」
七八人の人々が、入って来て、どかどかと、坐って、刀を、座に置いて
「いよいよ、天下、動乱かのう」
一人が
「月丸」
と、呼んで
「頼山陽の倅を存じて
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