」
と、云った。人々は、刀を引きずりながら、それぞれのところへ坐った。
「洩れたものなら、もう捕吏《とりかた》が来ておらなくてはならん筈だ。洩れたのではない」
「では、何うしてだ」
「吉之助は、何故来ん」
「大久保は?」
人々が、口々に喋《しゃべ》り出した時
「俺は、一足先に、お暇する」
と、云って、立った者がいた。人々が見ると、伊牟田恭平であった。
「俺は、脱藩して、途中に待受けて、お由羅を討つつもりだ」
静かな言葉であった。
人々は、暫く、恭平の顔を、じっと、眺めたままで、黙っていたが、有村が
「俺も、そう考えている」
と、いった。
「それがいい」
と、人々が叫んだ。
「俺も行こう」
一人の若者が、黒い刀をとって、立上って叫んだ。
「厭だ」
恭平が、睨みつけて
「俺は一人でやるんだ。束になって、やりたい奴は、同志を集めてやるがいい」
大山綱良が
「何をいう、伊牟田」
「吉之助が何んだ。吉之助が、来んで、事を挙げられんなら、吉之助が死んだら、何うするのだ。俺は、俺一人でやる。お先に、御免蒙る」
「有村、西郷は、何うした? 伊牟田、待って、話を聞いてからでも、遅くはない。濫りに、結束を破ると、俺が、捨てておかんぞ。坐れ」
大山が叫んだ。
「大久保が、丁度来よって、例の産業立国論を――忘れていた、忘れていた」
俊斎は、高い声を出して
「斉彬公の御世嗣は、決定したらしい。大殿の御出府も、このことのためらしいが――」
「誰に聞いた?」
「吉之助に――」
「吉之助は、家におるか?」
「居る」
「そして、彼奴は、何う申している。何故、ここへ来ん」
「斉彬公の御代となっても、奸臣は、罰されまい。奸臣を処罰することは、大殿の非を、世上へ示すようなものだ。謂わんや、奸臣を討つの、斬るのと、既に、近藤崩れがあった上に、又、家中に紛擾を起しては――」
「それは、口賢《くちさか》しい、大久保の意見ではないか?」
「正義のために、奸臣を斬るに、何を、世上を憚るのだ」
「出府の時日を、確めて、一挙に立とう。西郷が、反対なら、反対でよい」
「そうだ」
人々は、口々に叫び出した。有村が
「俺も、途中でお由羅を討とう。恭平、どっちが早いか、やろうではないか」
伊牟田は、それに答えもしないで、暫く黙っていたが
「見渡すところ、その議論に於て、大久保に優るものなく、その明断に於て西郷に優る者なく、謂わば、これ、烏合《うごう》の徒だ」
「何?」
「俺はとにかく、一人で、江戸までの途中で、元兇共の一人でもいいから、討取りたい。又、京都の模様を見て、討幕の仕事にも、手を出したい。碌々、薩南の一隅で、議論倒れに日を送っている時節では、無いようだ。俺は、身分も低いし、身軽だし、こんな時には、便利じゃ。これから、西郷を訪うて、そうして、上方へ立とう。俺一人が抜けたとて、髪の毛一本抜けた程にも、感じまい」
恭平は、こういって、立上った。
「大久保を斬れ」
と、一人が、叫んだ。
「あいつが、吾々を、動揺させる元兇だ」
「馬鹿っ、動揺する貴様の尻でも、斬っておけ」
と、樺山が、叫んだ。
「何うするんだ。立つのか、立たんのか」
と、一人が、叫んだが、誰も、何んとも云わなかった。恭平が静かに出て行った。
巷騒
「何を、騒いでいるのか?」
と、小太郎が呟いた。深雪は、自分の着物、頭のものなどを、膝の前へ、揃えて
「さあ」
と、表の方を見た。
長屋の人々が、七八人――女も、男も、軒下に立って、不安な顔をし、口早に、喋っていた。
「その黒船って奴は、お前、何んしろ、船の中から、煙を吐くんだそうだ。煙を吐いて走る船なんてものが、あるものけえ。魔物の仕業だわな」
「そいつが、品川へ来るのかえ?」
「来るよ。来たら、何をしゃあがるか判らねえ、何んしろ、ギヤマンで、赤いものを飲んでるって噂だが、こいつは、人の血だねえ。天狗が、人を裂くっていうが、人を裂いて、血を吸うから、だんだん鼻が高くなるんだ。だから、あの毛唐も、鼻が高えや」
「じゃ、荷造りでもして、そろそろ逃げなくちゃ――お梅、お前、浦和の孫太郎のところへ、すぐ逃げて行け。何をされるか知れねえからのう」
「そうだ、ちゃんと、用意しておくのに、越したことはねえ」
長屋の人々が、そうした噂をしている間に、表通りを、荷車に、家財をつんで、通る人があった。
「若旦那」
と、一人が、表から
「黒船が、参りよりまして、江戸中、灰になるかも知れませんぜ」
「黒船が、浦賀へ来たことか」
「へえ」
「あれは、通商を求めに、参ったのじゃ」
「通商って?」
「交易じゃ」
「交易?」
「うむ」
「交易って、何んでござんす」
「交際を致そうと申すのじゃ」
「へえ――物を云いますかい?」
「人間ではないか」
「然し、人を取って食うんでしょう」
「そんなものではない。日本人より、遥かに、利口な奴で、只今申した黒船の如きは、帆前船は、風をたよりで動かすが、あれは、石炭を焚いて、風が無くても、一刻《いっとき》に、十里、二十里と走る」
「本当ですかい」
「本当じゃ」
「落ちついていて、深雪さんみたいな、別嬪は、飛んだことになりますぜ」
小太郎は、返事をしないで、側へ積み上げた着物、陳べた刀の類、調度を、眺めていた。
「師匠」
と、誰かが、南玉が、来たらしく、声をかけた。
「黒船の話を聞いたか?」
「黒船か、うむ、
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黒船に、赤い毛をした奴が乗り
青い眼をして、白い歯を出す
[#ここで字下げ終わり]
とは、何んなものだの」
「品川へ来るって話じゃないか」
「うむ――
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碧眼、紅毛が来たとても
シャスポー、エンピール、何んのその
岩をも通す、桑の弓
皆朱の長柄を、掻込んで
白銀造《しろがねづく》りの、太刀|佩《は》いて
馬上、ゆたかに、桃牛舎
南玉師匠が、乗込めば――
[#ここで字下げ終わり]
はい、若旦那、乗込みましたよ」
南玉は、踊りながら、入って来た。
「遅かったのう。何うであった?」
南玉は、手を、横に振って
「駄目、駄目」
深雪が、眉をひそめて
「困りましたな、お兄様」
「何処の、古着屋も、古道具屋も、皆、黒船騒ぎで、品物を買うどころか、あべこべに、売って逃げようとしておりましてな」
南玉は、そう云って、懐から、小さい風呂敷を出して
「しかし、十五両がとこ、慥《こしら》えて参りましたよ。若旦那、又、厭な顔をなさるかも知れませんが、席亭から、借りた金で――牧の行方は、庄公の仲間も、骨折ってくれてますから、追っつけ知れましょうが、何んしろ、旅には路銀、これんばかしの道具や、着物を売った金では、心細うがすからな、いくら、南玉、張扇で、叩き出すからっても、先ず、持っているに越したことは、ございやせん。さ、お納めおきを願います」
「南玉、今生では、返却できんかも知れぬ。いつもながら、何んと申してよいか――」
小太郎は、手をついた。
「若旦那、それがいけねえ。水臭いって云うもんだ。な、南玉は、ちゃんと、算盤玉を弾いての仕事だ。ようがすかい。若旦那が、牧の野郎に逢う。ちゃん、ちゃんとやって、首尾よく行けば、帰参でげしょう。そうしたなら、この金に、利子をつけて――ね、深雪さん、倍にして、返して下さるでしょう」
「いや、その時には、南玉、百両にしても、礼を申すが、まず、望みの無いことじゃ」
「斬死すると、仰しゃるのでしょう」
「うむ」
「その時のことも、ちゃんと、心得てまさあ。その刀が、青江助次で、何う安う踏んでも、三十両。こいつだけ拾ってもどりゃ――え、若旦那、こんなものだ。十五両、おつりがくらあ。安心して、お使いなせえ」
小太郎は、微笑して
「そうか。この刀をのう。そうか」
と、刀を見て
「安うても、七、八十両にはなろう。死んだなら拾って参るがよい。今、改めて、師匠に譲ろう。そうじゃ。庄吉には、小刀の貞治信綱を譲ろう。成る程、よいところへ、眼をつけた」
「困ったなあ。今のは、※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]でげすよ」
「いや、志はよく判っておる。礼ができんで、苦しゅう思うていたが、教えてもろうた。わしが、斬死したなら、二人で、大小を分けてくれ。それでは、明朝、早々に、出立するとしようかの」
「ところで、お上じゃ、浪人を募集していますね。支度金十両くれるって、一番、金だけもろうて、ずらかったら?」
「それもよかろう。南玉、そちが、応募してみては」
「小父様、張扇で、お対手仕る」
「やっとうが出来るなら――口だけじゃ、何うもね」
「と、仰しゃいましては」
と、深雪が、笑った。
「ささ、この扇、扇がお役に立つならば、叩いてお金が、出るならば、益満さんから、借りないに――」
「南玉、何んと申した」
南玉は、きょろきょろと、四方を見廻して
「庄吉、何うした?」
と、叫んだ。
「南玉っ」
「出鱈目を、一々、若旦那。本当に、益休と、つきまぜてえや」
小太郎は、俯向いた。隣長屋が、荷物を造りかけたらしく、物音が、床板へ響いて来た。
[#ここから3字下げ]
当節、世間で、恐いもの
安政地震に、神田火事
水戸の親爺(烈公)に俺が嬶《かか》
浪人、ころりに、鼠取り
人の女房を口説く時
女郎の手管に、鈴ヶ森
オランダ、アメリカ
オロシャ船
[#ここで字下げ終わり]
流しの唄が、後方に、聞えていたが、庄吉には、気がつかなかった。
(あいつの、懐中物を――)
小太郎と、深雪とが、日数の定まらぬ旅へ立つ路銀に、物を売るのを見て、庄吉は、決心した。
(仕納めだ)
と、思った。
(いいや、手はじめだ。右手は、いつ、仕事仕舞いをしたか?――そうだ。若旦那の、印籠が、お仕舞いだったが、左手は、初めてだ。左手のかんで、何のくらいやれるものか?――仲間の奴も、見てやがるだろうが、庄吉、一世一代の仕事の仕始めの、仕納めだ。今までだって、俺は、悪事をしたことはねえが、今度の金も、お二人への金だ)
庄吉の蹤《つ》けて行く人は、町家の旦那らしく、結城紬に、雪駄の後金を鳴らして、急いでいた。往来の人々は、誰も彼も不安そうに、急ぎ、口早に話し合っていた。家の中で、荷造りしているところが、所々にあった。
庄吉は、右の軒下を、足早に――だが、目立たぬように急いで、その男を追い抜いてしまった。そして、小半町も先へ行って、くるっと振向いて、その男の正面から、俯向きつつ歩いて来た。
久しくしなかった仕事に、心が顫えた。初めて左手を使うということに、不安があった。だが
(俺が、仇に使おうって金じゃねえ。難儀していなさる、お二人を救おうって金だ。なあ、観音さん、阿弥陀さん。御利益を垂れんと、眼が潰れるぜ」
とんと、軽く、ぶっつかっておいて――首からかかっている紐を切っておいて、懐中物を抜く――それは、左右の手を使っても、困難な仕事であったが、庄吉は
(逃げられさえすりゃいいんだ)
と、すぐ、追われるのを、覚悟していた。そして、俯向いて
[#天から3字下げ]当節、世間で、恐いもの――
と、首を振りながら、右肩を上げて、商人《あきんど》の正面から、突っかかろうとした時、商人が
「ああっ、もしっ」
と、叫んだ。庄吉が、眼を上げると、吉公の後姿が、行きすぎようとしていて、商人が、それへ、手を出して、追い縋ろうとしていた。庄吉は
(吉だっ)
と、思った瞬間
(俺の仕事の邪魔を――そうじゃねえ、吉め、此奴を、俺がつけていると知って、俺の代りをしてくれやがったのだろう)
と、判断した。
「もしっ」
商人が、顔を、少し、蒼白めさせて、そう吉に呼んだ時、庄吉は、商人に、どんと、ぶっつかっていた。
「おう、危えっ」
庄吉は、よろめいて、同じように、よろめいている商人に
「まごまごするねえっ」
「済みません」
口早に、いって、もう七八間も離れて、振向きもせずに行く吉公へ
「待てっ」
と、商人が、叫んで
「泥棒っ」
駈け出そうとする商人へ
「この野郎っ」
庄吉は、左手で、袖
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