れば、一つ建白書を出そうと思うてな、下書をしていた」
俊斎が、手を出して
「一寸、見せてみい」
「ほんの項目だぞ」
俊斎が頷いて、受取りながら
「大久保は、何うしておる?」
と、聞いた。
「とんと、逢わん」
と、云いながら、西郷は、はだけた着物の前を合せて、大刀をとった。
「彼奴、真逆、裏切りはせんであろうな」
「さあ」
「判らんか」
「判らん」
「時によれば、彼奴を、血祭に上げるか」
「大久保を血祭にするくらいなら、犬の首でも斬ろうがましじゃ」
俊斎が、紙を繰って、目を当てた時、垣根の外から
「吉之助」
と、人声がした。俊斎が
「大久保だ」
と、呟いて、書類を、膝の上へ置いた。
「俊斎もか」
と、云って、大久保が、垣根を跨いで、入って来た。
大久保は、笑いながら
「韃靼冬へ、出向くのか?」
と、俊斎の、険しい眼へいった。
「うむ――貴公は?」
「俺は、やめだ」
大久保は、こういって、二人のところへ上って来た。そして、俊斎の膝の上の、表紙を読んで
「見せてみい」
と、手にとった。西郷が
「行こうか」
と、俊斎に、声をかけた。
「行こう」
「待て、一寸、話がある」
と、大久保が、止めながら、読んで行った。
[#ここから3字下げ、折り返して5字下げ]
一、知政の当初、国政を誤りたる専横の徒を、貶黜《へんちゅつ》すべき事
一、お由羅の方以下の奸人を処分する事
一、近藤崩れ(お為派崩れ)に、流謫《るたく》したる人々を、速に召喚する事
一、兵政を改革し、範を水戸に、取る事
一、天下の気運に乗じ、幕府と雖も、天朝のお為とすべき事
一、異国交易の儀、配慮深かるべきこと
[#ここで字下げ終わり]
「成る程」
大久保は、こう云って、書類を、机の上へ置いて、立っている西郷に
「坐れ」
と、云った。そして
「有村、韃靼冬に、集まっているらしいが、人の余り近寄らぬところへと思うて、選んだにしては危いのう」
「そうか」
有村は、冷やかに答えた。
「名越の別荘へなど、何処に、犬がかくれているか?――思慮が無さすぎる」
「人間思慮のありすぎる奴も、おもしろうない」
「西郷」
と、大久保は、西郷の大きい、光る眼を、じっと凝視めながら
「大殿の今度の御処置だけで、天下に、恥を晒《さら》したに、又候《またぞろ》騒動を持上げて、斉彬公のお心にもとるなど、思慮があると思うか、無いと思うか。子は父のために痩す、という言葉があるが、斉彬公は、大殿のために、何うしてその非を匿そうかと努められるであろう。それに、奸人を処分せよ、などと、大殿の非を再び天下に晒し、斉彬公の不孝を天下に示し――それで、斉彬公の意にかなう家来か――」
「西郷、行こう」
と、有村が云った。西郷は、黙っていた。
「斉彬公に、建白書などと、釈迦《しゃか》に説法だとは思わんか。筆がちぢんで書けぬことはないか? 俺は、ただ、斉彬公のお意《こころ》に、これ従うという方だ。俺達の考えること、することは、公にとって、百も御承知のことで、俺は、ただ、動かずして命を待つ、ということにしておる。俺達のすることは、ただ、俺達虫けらの虫休めで、決して、公のお為になることではない」
「俺はな、見ん恋をしている。殿に、早う逢いとうて、それは、拙い恋文だのう。そんなものでも書かんと、気がすまん。大久保、では、何うしたなら、斉彬公のお気に入るか教えてくれるか。お前のように、俺は、じっとしてはおられんからの」
「産業立国」
「ああ、それか?――それもいい、然し、斉彬公のお志は、天下にもあるからのう。産業立国だけでもない。それは、基礎だが――大久保の好きなことだが、それだけでもない」
と、西郷が、云った。
「貴公は、天下をとることを考え、俺は治めることを考えているが――取ってから治めるものか、治まった国が、天下を取るものか――わしは、近頃の天下の動揺も知っていると共に、当家の動揺も知っている」
「貴公の論は、了《お》えんでいかん」
と、有村がいって
「行こう」
と、勢いよく立上った。西郷は、有村に答えないで
「のう、大久保、斉彬公が、仰せられる、天下のため、ということは、今を指すのではあるまいか。俺はいい日の下に生れ、いい主の下におると、この心が躍り上っている。古くば、関ヶ原、近くば、木曾川治水、積年の鬱憤を、晴らすべき時節じゃ」
大久保は、又、建白書の草案を、膝の上で披げていた。
「そのためには、非常手段を取ってもよいと思うてな――」
西郷は、大久保が、膝から眼を放さないので
「大久保」
と、言葉をかけた。大久保は、頷いて――だが、俯向いたまま
「手段とは?」
「益満に、昨日、手紙を出した。あいつなら、やると思うが――江戸中を荒し廻って――人を斬るなり――押込もよい、強奪もよい。とにかく、江戸中を騒がせて、三田の御邸へ匿れるのじゃ。上役人から、引渡せと申して参ろう。知らんと答える。これが、度重なると、そうでなくてさえ、斉彬公を奉じて、倒幕をしようという輩の多い時、幕府は黙っていまい。人数を向けよう。それを口実に、戦うのだ。倒幕の挙は、口火さえつけば、一挙に爆発するであろう。そして、いよいよ戦となれば、先ず、幕府には金子がない。当家には、調所の残しておいた三百万両の非常準備金がある。それから、江戸は四方から攻めかかれるが、当国は一方口じゃ。そして、天子を奉じて、錦旗を翻すなら、戦はそれまでであろう。斉彬公は、未だ、倒れんとする幕府を何んとかして生かそうと、考えておられるらしいが――それで、俺は、天下の気運に乗じ、幕府と雖も、天朝のお為とすべきこと、と、穏かに書いておいたが、俺は、先手を打って――脱藩しても、口火を切るつもりだ」
「大久保」
大久保は、顔をあげて
「三百万両で、幕府が倒せるか?」
「天下の勢いということもある」
「もし、天下が、徳川へついたなら?」
「そんなことはない。少くも、天下は二分してしまう」
「それでも、三百万両で、事足りるか」
「それは判らん」
「足りぬ時に、何うする?」
「何んとかなろう。そう一々、先のことを考えていては、何もできん」
「斉彬公は、その、先の先まで、考えておられるではないか? 調所は、一生かかって、薩摩のために、三百万両を積立てた。常人にできぬ腕だ。だが、斉彬公は、日本国中のために、三千万両、三億万両の富を作ろうとしておられる。それが判らんか?」
「判らん、判らん」
と、有村が、大きい声を出した。
「判らんなら、聞かしてやろう」
大久保は、有村の方を向いて、有村の顔を睨みつけた。そして
「斉彬公のため、斉彬公のためと、斉彬公の御意に反いても、為だというのか」
大久保は、いつになく、熱していた。有村も、大久保の顔を睨みつけていた。
「高崎殿への、御書状のことを聞いたであろう。将曹、平の如き人物に対してでさえ、人には何か、取柄のあるものゆえ、喧《やかま》しく申すなと仰せられた。幕府に対しても、このお心で、接しておられる。犯さずして、救いたい、というお心だ」
「救えるか?」
「日本中が、富めば、幕府は自然に倒れよう。と、申しても、判るまいが、当家の力にて、日本が富めば、幕府を倒さずとても、天下は、当家へ集まってくる。今日の問題は、幕府を倒すか、倒さぬかということでなく、日本の進歩を、異国と同じところまで、引上げるか、引上げぬかだ。公が、何故、硝子を製造し、紡績機を造り、反射炉を作り、大砲を鋳造し、異国の科学に、いそしんでおられるか、判るか? 専心、産業の開発に、力を尽していなさる意が、那辺にあるか、判るか? 戦はいつでも起せる。民の力を養うことは、そうは行かない。幕府も、敵であると共に、異国も敵だ。公は、四方、八方のことを考えて、その根本を、国力の充満と考えておられる。三百万両の金の如き、眼中に無いぞ。謂わんや、お由羅や、将曹の如き、蠅にも如《し》かぬ。その虫を相手に、二十人の、三十人の集まって、一体、何を斉彬公のおためにしようと、申すのだ。有村、それが、忠義と申すことか? 忠義とはそれだけか?――俺は、お由羅が憎い。憎くて耐らんぞ。然し、こうまで考えてくると、俺は、公の仰せのままに、御指図のままに働くより外に、本当の公への忠義というものはないと思うのだ」
大久保が、言葉を、これで切ってしまったが、有村は、何も云わなかった。西郷が、頷いて
「よく判る。理窟は、そうにちがいない。だが、俺は、俺の出来ることからして行こう。お前が、理窟を考えている間に、俺は、同志を糾合しよう。人、各々、性に従って、長短がある。俺は、今更、科学者にもなれん。ただ、名も、金も要らん。赤心をもって、公のため、天下のために働いてみる」
「そうか」
大久保が、こう云った時、女中が
「旦那様が、お召しでござります」
と、云って来た。西郷が、去った。二人は、黙って、明るい陽ざしの庭を眺めていた。暫くして、西郷が出て来て
「有村」
と、云って、刀を、刀掛けに置いて、坐った。
「大殿が、急に、御出府になるぞ」
「駄目か」
有村が、叫んだ。
「同志の者に――御出府のこともあるし、御家督がきまるし、斉彬公の御代になってからのことにしては、と、申して参らんか。今から、用意しても、追いつくまい」
有村は、立上った。大久保が
「その方がよい」
と、云った。有村は、西郷に目礼したままで、足早に、出て行ってしまった。
「西郷、なまじなことをしては、当家に、人種《ひとだね》が無くなるぞ」
「斉彬公と、貴公とさえ残っておってくれたなら、何んとかなるであろう。俺は、何んでも、頼まれたら、断れんからのう」
と、云って、西郷が、笑った。
「益満とは――又、乱暴者を選んだの。何をするか知れん、彼奴は」
「困ったら、貴公が、尻拭いをしてくれ。俺は、大久保のように、じっと、考えておれん性《たち》だ」
西郷は、そう云って、笑った。
韃靼冬へ集まっていた若い人々は、西郷が来ないので、雑草の深い庭へ出て、草の頭をむしってみたり、縁側へ寝転んで、美少年の噂をしたり、懐から、日本外史を出して読んだり、それから、七八人の人々は、見取図を書いて、何う襲撃したらいいかを話していた。
町から、登り道になって、だんだん淋しくなってくる韃靼冬には、二人の見張が出ていて、同志以外の者の来るのを見張っていた。その一人が
「誰か、走って来よる」
と、木の間の中で叫んだ。一人が
「俊斎だ」
と、じっと、凝視めていた。
「俊斎だ」
俊斎は、眉を歪めて、口を開いて、喘ぎながら、右手で袴を掴んで、左手で刀を押えて、走って来た。一人が、林の中から
「水」
と、叫んだ。俊斎は、ちらっと見たまま、走り抜けようとした。
「水」
それは、合言葉であった。俊斎は、答えないで、走り抜けてしまった。
「待て」
見張が、叫んで、走り出ると共に、俊斎が振向いて
「たわけっ」
と、睨みつけて怒鳴った。
「然し、合言葉を」
と、見張が、云ったとき、俊斎は、もう、七八間も、走ってしまっていた。
「自ら、盟約を破って――有村は、いつもあれだ」
見張が呟いた。
「乱暴者は、仕方がない」
二人は、森の中へ、又入った。そこから、名越左源太の別荘、韃靼冬の屋根が、木の間に見えていた。俊斎が、その門をたたいて
「水っ――有村だ」
と、叫んだ。すぐ、門が開いた。庭の人々も、縁側の人々も、一斉に、有村を見た。そして
「吉之助は?」
と、聞いた。
「吉之助どころか、大殿は、明日にも、御出立になるぞ」
庭の人々も、座敷の人々も、俊斎を見、俊斎の方へ寄ろうとした。そして、俊斎が、座敷の方へ歩いて行くので
「集まれ、皆上れ」
と、叫んだ。
「西郷吉兵衛が聞いて来よった。俺は、それを聞いて、吉之助んところを出て、柴山へ寄ってみたら、矢張り、そうだと、いっていた」
「洩れたか」
と、一人が、絶叫した。そして
「吾々の襲撃を怖れてであろう」
俊斎も、人々も、立ったままで、丸くなっていた。柴山が
「座につけ、周章ててはいかん
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