の使の名を聞こう。な、これが早道だ」
「小父様一人で行って聞いて下さいませ」
「これもいかんか。そんなら、この手は、何うだ」
 南玉は、深雪の前に、大手を拡げた。
「何を為されます」
「通せん坊、通せんぼ」
 南玉は、両手を拡げて、足踏しながら、深雪の行方をふさいだ。
「人様が怪しみます」
 深雪は、南玉の手を、押除けて、歩き出した。
「困ったなあ、深雪さん。折角の、益満さんの厚意を無にして――」
 深雪は、もう、答えなかった。南玉は、もし、手を出して止めたなら、きっと、深雪は怒るにちがいない、と思った。そして、街を眺めて、駕の提灯が二つ、走って来ないかしらと、思った。だが、街は、暗いだけであった。
「ああっ」
 南玉が、叫んで倒れた。深雪は、振向いただけであった。
「生爪剥がした。あ、痛っ、痛、たっ」
 深雪は、ぐんぐん歩いていた。
「これも利かねえか」
 南玉は、跳ね起きて走り出した。

 小藤次の家の前に立った深雪は、戸を叩こうとして、手をとめた。何かしら、汚い物へ触れるような気がしたし、叩くということが、自分の操を破るのと、同じような気持がした。だが、それは、ほんの瞬間だけで、すぐ叩いた。返事が無かった。
「今晩は」
 三度目は、物音がして
「誰だい」
「今晩は」
 足音が近づいて
「誰?」
「お開け下さいまし」
 南玉は、心の内で、神に祈りながら、街を見ると、微かに、灯影が、近づいて来た。
(あれであってくれ)
 と、思った時、戸の上の方についている小さい窓が、開いて
「誰方?」
「小藤次様は、御在宅でございましょうか」
「親方かい? 貴女は?」
「深雪でございます」
「深雪?」
「お目にかかりとうて、夜更けに参りましたが――」
 南玉は、戸に、背をつけて、近づいて来る提灯が、二つなら、益満と、庄吉――。
(もし、そうだったら、袖を掴んでも、中へは入れねえぞ)
 と、足を構えていた。だが、提灯は、三つであった。
(駄目だ)
「親方は――今夜、御殿泊りだけど」
 そういいながら、下職は、じっと、深雪をすかし見た。南玉は
(しめたっ)
 と、心の中で、叫んで
「じゃあ、いくら恋しくったって、仕方がねえ、明日になさい、ね」
「深雪さんなら、御殿へ行って、知らして来らあ、近えから――入って、待っててくんな。おーい。三公っ」
 職人が、叫んだ。そして、戸を開けようと、掛金を外すらしく、ことこと音がした。深雪は、宿直《とのい》と聞いて、ほっとした、と同時に
(戻って、明日のことに)
 とも、思ったし
(いいや、このまま――なまじ、戻っては)
 とも、思って、じっと、地獄へ陥ちるような心持で、物音を、聞いていた。
「さ、明朝」
 と、南玉が、肩のところで囁いた時、駕屋の足音が近づいて
「おおっ」
「はっ」
 駕人足の懸声がして、駕がとまった。南玉は
(益満さんだ)
 振向くと、垂れを上げて、庄吉が
「師匠っ」
「早く、来いっ」
 戸が開いた。深雪が、素早く入ろうとした。
「深雪」
 益満が、駕の中から、叫ぶと同時に、庄吉が
「お嬢さん」
 袖を引いた。南玉が、手を掴んだ。深雪が、身体に力を入れて入ろうとするのを、二人が引きとめた。南玉が
「小藤次は、御殿泊りで、居ねえんで――」
「お嬢さん、小藤次さんに逢いたかろうが、明日になせえ、な、留守に行くにゃ及ばねえ。一寸、話があるんだ」
 益満が、駕の中から、声をかけた。深雪は、頭を戸から出した。
「ここで、話ができる。若い衆、一寸の間だ」
 庄吉が
「一寸、内所話」
 と、云って、戸を閉めてしまった。南玉が
「牧は、上方へ参ったそうで、たった今、名越さんから、聞きました」
「上方っ」
 庄吉は、声をひそめて
「吉っ、仲間へ触れりゃ、五日、七日の内に、判らあな。しめたっ」
「七日と踏みゃあ、大丈夫だ」
「ようし、俺、今度、左の腕を、切られに行かあ。休さん、あっしら二人に任しておくんなせえ。さあ、しめた」
「籠屋、女を乗せて、宇田川町へ戻ってくれ」
 益満は、落ちついた声で云った。

  動揺

「未だ、お眼覚めでは、ござりませぬか」
 と、いって、お由羅が、もう、朝の化粧を済ませて、斉興の枕頭に坐った。斉興は、枕の上へ両手を置いて、その上へ俯向きになったまま、お由羅の言葉へ、答えなかった。
「お悪いところでも?」
「いいや」
 斉興は、上夜具を半分除けて、俯向きに臥たまま
「近頃、とんと、気が弱うなった」
 と、呟いた。
「何んぞ、お気にかかりますことでも?」

「うむ」
「あの騒ぎのことでも、お気にかかるのでございますか?」
「いや――」
 と、斉興はいったが、お由羅の心の中で
(きっとそうだ)
 と、考えた。そして
(本当に、ああまで死ななくてもいいものを、勝手に、切腹したりして――)
 と、お為派の死んで行った人々に憐さと――同時に腹立たしさとを、一所《いっしょ》に感じていた。
「将曹様が、お待ちになっております。起きて、陽の目を御覧なされませ。気が晴れます。今日は、からりとした日和で、開聞岳まで見えます」
 斉興は、未だ、俯向いたまま、肩で呼吸をして
「齢をとった。齢のせいであろう」
「何を仰せられます」
「いいや――夢を見た」
「何か――お気に召さぬような?――そうそう、今日は、妾も、まあ厭な夢を見まして――この歯がすっかり、上も下も抜けてしまった夢をみて、ぞっとしたら、眼がさめましたが、未だ、歯の根に夢が残っているような――」
「わしは、高崎の夢をみたが――」
 斉興は、そう云って
(将曹も、やりすぎる)
 と、思った。と同時に、すぐ
(然し、やるなら、あれまでやらぬと、何を又、仕出かすか知れん――だが、今度のことで、わしは、隠居せずばなるまいが――したくない――未だ、したくない)
 と、考えた。そして
「将曹を、これへ」
 と、云って、頭を上げた。
「眼が血走っております」
 お由羅は、心配そうに覗き込んだ。
「昨夜は、ろくろく眠らなんだ。斉彬も、不孝な奴じゃ」
「では、将曹様を、これへ?」
「うむ」
「それでは、お顔の水を、こちらへ運ばせましょう」
「口だけ嗽《すす》げばよい」
 お由羅が、出て行った。斉興は、又元のように枕の上へ、額をつけながら
(将曹は、不逞の徒を、根絶させると申したが――あれだけやらぬと、彼奴の命が危いから――それは、将曹として尤もだが、わしの命を取ろうという奴もないであろうから、わしの命令としては、少し、殺しすぎたと、世上から見られても、仕方あるまい)
 そう思っている時、侍女が、黒塗の浅い器と、薩摩紅硝子のコップとを持って来た。別の女が、同じ塗の桶に入れた水と、手拭と、房楊枝《ふさようじ》とを持って来て、枕頭へ置いた。
「よし、わしがする」
 と、斉興が、手を振った。そして、起き上って、房楊枝をとった時、お由羅と、将曹とが入って来た。
「早朝から――急用か」
「はっ」
 将曹は、敷居際へ平伏してから、枕頭へ出て来た。

「何んじゃ」
 斉興は、房楊枝をつかいながら、聞いた。お由羅が、コップに水をとった。
「処分すべき人は、悉く、処分を終りましたが、井上出雲が、唯一人、捕まりませぬ」
「引渡さんのか?」
「何んと掛合いましても、福岡では、知らぬと突張っております。それのみでなく、宇和島殿と共に、閣老を動かして、いよいよお上の御隠居を、強制するようでござります」
「強制?」
 と、云って、唾を吐き、水で漱《くちすす》ぎ終った斉興が
「わしにも、それなら手段《てだて》がある」
 お由羅が、長煙管を、斉興に差出した。
 斉興は、それを吸いながら
「第一、無理に押しつけられる性《たち》のことではなかろうがな、将曹」
「それが――例の、密貿易《みつがい》の書類、あれで、詰腹を切らそうと、某は、そう観ておりますが――」
 斉興は、暫く、喫っていたが、吐月峯《はいふき》へ、雁首を叩きつけながら
「奇怪な計をやる」
 と、呟いた。
「それから――例の、軽輩の秋水党、こいつ奴《め》が、又二の舞を演じて、某らを討取ろうと――」
 と、云って、お由羅の顔を見て
「お部屋を第一番に斬ろうと、よりより集まっておるとのことにござります」
「誰々じゃ、その軽輩等は?」
「名が判りませぬが、西郷とか、有村とか、大久保などの輩であろうと存じます」
 斉興は、眼を閉じていた。
「なかなか、重立った者を処分したくらいで、治まりそうにもござりませぬ」
 斉興は、煙管をお由羅の方へ差出したが、未だ、黙っていた。
「それで――某、一存でござりまするが、早々、一旦、江戸へお戻りになりましては――御家督のこともあり――恐らく、近々、閣老より、御呼立ての沙汰があろうと考えますが、その前に、御出府なされましては?――」
「秋水党は、幾人くらいおる?」
「さあ――詳しいことは、何うも申し上げられませぬが、若者の重な奴は悉《ことごと》く入っておる模様でござります」
「そして、妾をねらって――妾をねらっておる者は?」
「悉《ことごと》くの奴が、ねらっております」
 お由羅は、歯の抜けた昨夜の夢を思い出して
(不吉な)
 と、感じた。そして
「何れ、近々、出府するものなら、早く為されましては?」
 斉興は俯向いていたが
「そうか」
 と、云って、眼を閉じた。
「そんなに、若い奴等が、団結しておるのかのう」
 三人とも、若い人々の意気、武芸、学問を知っていた。
「そうか」
 と、斉興が、又呟いた。
「四面楚歌《しめんそか》か」
「いいえ、左様ではござりませぬが」
 と、将曹が云いかけると、斉興は、肩で溜息をして
「仕方があるまいな」
「仕方があるまい、とは?」
「家を譲ることじゃ。斉彬は大事でないが、家は大事じゃ。若者は殺せぬ――斉彬は、そんなに、若者に人望があるのかのう」
 斉興は、しみじみと云った。お由羅は、俯向いて、煙草をつめた煙管を、膝へ置いたままにしていた。

「西郷」
 と、声をかけて、庭の雑草の中を、有村俊斎(後の海江田信義)が、入って来た。吉之助は、何か書物《かきもの》をしていたが、俊斎を、ちらっと、上眼で見て、又、書きつづけていた。有村は、縁側から上って、机の側へ坐った。そして
「何を、書いている?」
 吉之助は、筆を置いて
「福岡から――出雲守からの便りを聞いたか?」
「聞かん」
「福岡(斉彬の弟、黒田美濃守長博)、宇和島(伊達遠江守宗城)、南部(南部利剛)の三公と、阿部伊勢とが、内々談合してのう、近日、斉彬公御世継と決まるらしい」
「本当か? それは?」
 俊斎は、睨むように、西郷の眼を見た。
「出雲守は、そう申している」
「本当かも知れん。なら、目出度いことだ。赤山殿の魂魄《こんぱく》も、浮ぶことだろう――ところで、皆が集まっているが、出向いてくれんか」
「何処へ」
「韃靼冬《だったんとう》へ――御世継は、御世継として、何うしても、われわれ秋水党は、お由羅、将曹を初め、奸物を斬らんと、勘弁ならん――」
「誰々が、集まっている?」
「大山(綱良)、樺山(資之)、などだが、一緒に来てもらいたい」
「行こう」
「死屍に鞭うつということは、士を恥かしめる上において、この上無しとされているが、死屍を掘り起して、曝すなどとは、斉興公はともかく、将曹め、主君を恥かしめて悔無きの徒だ。かようのことが、世上へ洩れた時、何う恥辱を受けるか、己のみでなく、主を辱かしめ、家名を辱かしめ、八つ裂きにするより外に、申しようのない奸悪の徒だ。俺は、玉藻前を思い出した。お由羅という奸婦は、公の世子を呪い殺すどころか、あいつ、妊婦の腹を裂いて、赤子の生胆を取りかねまじき奴じゃ。美女には、得てしてああいう惨忍な、鬼畜がおる。今度のことも、あの女の指図かもしれん。わしらの企てが破れたなら、或いは油煮、鋸引きに処せられるかもしれんが、それを覚悟の上にて、彼等を殲滅《せんめつ》させるつもりだ」
「それでは――」
 と、吉之助がいって、机の上の書類を、仕舞いかけた。
「何を書いていた?」
「斉彬公が、御世継とな
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