いた。
「お前さん、俺の気性を、知っていなさるだろうな」
 益満は
「弱りましたな」
 と、腕組をした。

「手前は、弱っただけで済むかも知れねえが、若旦那や、お嬢さんは、ええ、おいっ、命がけだぜ。命より大事な操まで棄ててかかろうってんだぜ。手前が、髷を切って、大道芸人になっているのたあ、ちっとばかしちがうんだ。ちっとばかし、ちがってるってのは、それだけじゃあねえ。この庄吉も、ちがってるし、この男は、俺の兄弟分だが、こいつもちがってるし、お春も、おかしな女だ。俺に、血の道を上げて、こいつも、ちがってらあな。ちがわねえのは――手前も、ちったあちがっていたが、何んのざまだ。さあ、助ける気がなくなったのなら、俺と勝負だ。益休」
「こっちゃあ又、ちがいすぎちまって」
 益満は、髷へ手を当てて、笑った。
「嘗《な》めてやがらあ。ようし、手前が、嘗めるんなら、俺は、齧るんだ。もう口は利かねえ。うぬっ」
 庄吉は、白鞘をとって、口で鞘をくわえて、左手で抜いた。
「兄貴、待てっ」
 朋輩が、中腰に立って、庄吉の袖を掴んだ。
「よせっ、もう勘弁ならねえ」
 富士春が
「庄さんっ」
 と、叫んで、左手で、庄吉を止める手付きをして、右手を、益満へ振って
「逃げて、早くっ、危いから」
 益満は、笑いながら
「よう、音羽屋っ」
「待てっ、兄貴、俺に、一寸いいてえことがあるから、そいつをいっちまうまで、一寸、待ってくれ、兄貴」
 男が、ぐっと、庄吉の袖を引いた。庄吉は、立ったまま、振上げていた短刀だけは、下へおろした。朋輩は、じっと、益満を睨んで
「名乗りもしねえで、失礼さんでごぜえやすが、こいつと同じ、やくざで、吉と申しやす。お見知り置きを願いやす」
 膝へ手をついて、お辞儀をした。そして、首を上げた途端
「仕方が無えな、庄公」
 と、益満がいって
「深雪は、未だ、小太郎のところにいるか、それとも、小藤次のところに行ったか」
「何?」
「深雪の操を破らさんでも、小藤次を誘《おび》き出して、首根っ子を押えりゃあ、それまでではないか」
「へん、近頃、問屋じゃ、そうは卸《おろ》さねえ。小藤次は、知りませんとくらあ」
「小藤次を囮《おとり》にして、牧の行方を知っている者を誘《おび》き出せばよい。わしに、任せておけ。吉さん、羨ましいな。お前さん方の、仲間の義理は――士が、お前さん方程の、意地と、義理とを持っていりゃあ、天下が取れる」
「益満さん、本当に、庄公に、味方してやって、おくんなさい」
「庄吉、小太郎のところへ参って、深雪がいるかいないか、見て来い。もしいたなら、この吉に、小藤次の許へ行ってもらって、深雪が見つかりましたから、と、ここへ、誘き出して参れ。又、もし、行った後なら、わしが、小藤次の家へ、忍び込む。近頃は、押込、屋尻切《やじりき》りの修業までしているからの」
「困ったなあ、兄貴」
 庄吉は、立ったままで、吉の方へ、首を傾げて、吉の顔を見た。
「何が?」
「引っ込みがつかねえじゃねえか。いうことだけはいっちまったし――さんざ、いわせてから、お前――益満さんも、人が悪いや」
「未だ未だ、庄公は、深雪を救けることばかりにかかっているが、牧の在所が判ったとして、もし、小太郎が、討手に行く時、わしが助太刀せん、と申したら、何うする? もう一度、弁じるか? 聞いていると、南玉の講釈よりおもしろい、序《ついで》にやってみるか」
「あれだ――若旦那に、助太刀せん時にゃあ――今度は、尻を齧らあ。とにかく、早いところから片付けて――吉、俺、一っ走り行って来らあ」
「お前さん、駕でも云ったら」
「へっ、駕で行くのは、お春じゃないか、私ゃ、振られて行くわいな、ってことは、昔話だ。簪を持ってるぞ、簪を――」
「くれるのかえ」
「何い、ぬかしゃがる。後光がさしてらあ、雨、坊主に、桐、桜。松に来んとは、気にかかる。ささよいやさ、えっさっさ」
 庄吉は、走って出て行った。

「おう、戻って来たぜ」
 三人は、未だ、寝ていなかった。南玉が、すかして見て
「何うした」
 いい終らぬうちに、庄吉は、上って来て
「ま、よかった。今日は、大芝居つづきだ」
 そういって坐ると
「お目出度う」
 と、いって庄吉は、深雪に、お辞儀をした。
「何うしたい、えらい元気で」
「何な、益満の野郎の鼻を齧るつもりで行ったさ。そして、とんとんと、啖呵を切っちまったら、お前、深雪さんの操を破らさんでも、小藤次を誘き出して、首を締めりゃ、牧の野郎の行方は判るではないか。だから、俺は云ったよ、小藤次が知らんと云や、何うするって」
「成る程」
「するてえと、子曰く、小藤次は囮にして、知っている奴を誘き出すって。矢っ張り、智慧があらあなあ、深雪さん、それで――」
 庄吉が、ここまでいうと、小太郎が
「深雪、すぐ行け」
「ええ? はいっ」
「若旦那」
 庄吉が、小太郎の顔を見ると
「人手を借りとうない」
 小太郎は、鋭くいった。四人は、そのまま、白けて黙っていた。深雪は、合せ鏡を出して、暗い灯の横で、髪を撫でつけた。庄吉は、俯向いていたが
「師匠、一寸」
 南玉が、俯向いて立上った。二人は、表の間へ出て、その隅の、暗いところへ立って
「もし、深雪さんが、行っちまった後なら、益満さんが、小藤次の家へ、忍び込んで、盗み出そうてんだ。大丈夫だが、師匠、俺、すぐ、一っ走り、益満さんのところへ行って来るから、お前、一緒にくっついて行って、俺が駈けつけるまで、どっかで、引っ張っていてくれめえか、すぐだから――」
「心得た。だが、二人とも、親譲りの、強情っ張りだからの」
「頼まあ、俺、じゃあ、行くから」
 南玉は、頷いて、元の座へ戻りかけた。庄吉は、ちらっと、二人を見て、土間へ降りると、すぐ、走って出てしまった。
「南玉、志は有難いが、余計なことは、せぬようにの」
「ええ」
 南玉は、そう答えて
「深雪さん、大急ぎで、風呂へ、一つ」
「いいえ、このまま、お髪《ぐし》だけかいて、参ります」
「そりゃいかん――」
「そのままでよい、早く致せ。うるさくていけぬ」
「はい――済みました。着物も、このままで参ります」
 深雪は、鏡を片づけて、膝を二人へ向けて
「小父さま、長々と、御世話になりました。御恩返しも致しませずに――」
「今、お茶を一つ、いれるからの」
「いいえ」
 深雪は、首を振って
「兄を、この上とも、よろしくお願い申します。これで、お別れになるかも知れませぬが、お身体を、おいとい遊ばして――兄様、それでは――行って、参ります」
「うむ」
 立とうとする深雪が、俯向いたまま、畳へ、涙を落した。それと、同時に、南玉が
「いけねえ」
 と、泣声で叫んで
「角まで、送らあ。提灯をさがしますから、一寸」
 立ちかけると
「これにある」
 と、小太郎が、柱にぶら下げてあった提灯を取った。
「では、兄様」
「何を泣くっ」
「はい」
 深雪は、立上った。南玉は、提灯をつけた。暗い土間で、もう一度、振向いて、出て行く妹の後姿を、じっと、見ていた小太郎は、二人の足音が消えると共に、脣を噛んで、涙を落した。そして、立上ると、土間へ、跣足のままで飛び下りて、外へ顔を出した。提灯の灯影の中に、二人の歩んで行く姿が見えていた。だが、すぐ、露路の入口を曲ろうとした。そして、その途端、深雪は、振向いたようであった。小太郎は、心の中で
(深雪)
 と、叫んだ。そして、湧いて落ちる涙で、胸も、頭も締めつけられるように苦しくなってきた。

「ここを曲って――」
「小父様、ここを、真直ぐに参った方が」
「近いにゃ、近いが、病犬《やまいぬ》がいるで、夜は通れん」
 南玉は、左へ曲った。
「一寸これを」
 提灯を出したので、受取って
「何か?」
「犬のことを云ったら、犬便、犬のおしっこ、一寸、こう片足を上げて、石の上へ――」
 南玉は、軒下の石のところへ立って
「しい、こっこっこ、しいっ、こっこっこ」
 いくら経っても、南玉は、小便を止めなかった。
「小父様」
 と、先に立って、ゆるゆる歩いていた深雪が、声をかけた。
「ああ、提灯提灯、早く早く」
「何うなされました」
 深雪が、戻って来ると
「暗いと、見えん。おしっこで、へまむし入道を書いていたが、何処が、鼻やら、頭やら、かね。はい、お待遠さま」
 深雪の、頭の中は、ぼんやりとしていたが、こうして歩いていると、家の中にいる程、悲しくはなかった。そして、諦めがついて来たが、いつかの、小藤次の体臭、手の毛、呼吸の臭を思い出すと、身体中が、寒くなった。
(お母様は、お国許に、無事にいなさるかしら――)
 深雪は、もう一度、母に逢って、抱きしめてもらいたかった。母の膝の上で、思いきり、泣いて見たかった。
「ここを曲りましては?」
「その横町は、ももんがあが出る」
「出ても、かまいません」
「その外、三つ目小僧に、幽霊」
 南玉のいうのもかまわないで、深雪は、右へ曲った。
(いけねえ、庄公め、何処へ行ってやがるんだろう。うまく小藤次の辺で、逢えばよいが、この様子じゃ、きついらしいからな)
 南玉は
「齢をとると、どうも、冷えて、又、小便」
「小父様、妾一人でまいります。道は、存じておりますから――」
「ちょっ、ちょっ、一寸、小便め、びっくりして、潜っちまやがった」
「本当に――あの、くれぐれも、兄を。あのように、かたくなでございますから――」
「かたくななのは、貴女も、そうで、老人をいじめて――」
「何か、いじめましたかしら」
「小便をさせないで、出物、はれ物――」
「でも、早く参りませぬと、もしも、臥《やす》んでしまいましては――」
「何も、そう、周章てて、抱かれに行かずとも――」
 深雪は、黙って、足早に、歩き出した。三田の通りへ出ると、暖かい夜とて、通行人が、ちらちらしていた。
(困った。もう、二町と、ありゃしねえ)
 南玉は、思案につきた。
「よう」
 と、声をかけて、一人の若い衆に、擦れちがうと、侍が一人、小者を二人供にして、足早に歩いて来た。小者は、ちらっと、深雪を見てから、すぐ、南玉へ眼をくれて
「今晩は、師匠」
 と、いった。
「ええ」
 南玉が、士を見ると同時に、士が、深雪を見て
「珍しい。深雪ではないか」
 と、声をかけて、立止まった。

「ああっ」
 深雪は、小腰をかがめて
「お変りもござりませんで、お目出度う存じます」
「まだ、江戸にいたか」
「はい」
「小太郎は、如何している?」
「共々――」
「その方は、講釈師だの、よく、益満と一緒に歩いていた」
「はい、名越の殿様でござりますか。お目にはかかっておりますが、つい、御挨拶も致しませず、手前、桃牛舎南玉と申します、何分よろしく」
「只今の住居は?」
「はい、宇田川町の、こちらの家に」
「小太郎は、牧をねらっておるらしいが、牧の消息を存じているか」
「いいえ、それを――」
「又、上方へ上るのを見かけたと、国許から、参った使が、申していたが――」
「あの、上方へ」
「うむ、国許にも、大騒ぎがあったぞ。小太郎にも話してやってくれ。お為派の重立った者は、悉く切腹した、わしも、いつ何うなるか判らん」
「ええっ」
「然し――いや、急ぐから、又逢おう、邸へ遊びに参れ」
 名越左源太は、こういいすてて、行ってしまった。
「お嬢さん、若旦那に、このことを、一刻も早く、さあ」
「ええ」
 二人は、一寸、戻りかけた。だが、すぐ、深雪が、立止まつて
「小父さんだけ戻って、兄に、このことを知らせて下さいませ。妾は、矢張り、小藤次のところへ参りますから」
「め、めっそうな。証拠人がいぬと――」
「いいえ、小父さんだけで――」
「ああっ、しまった。名越が、何を、いったっけ。牧が、牧が――湯治に行った。ちがう。吉原へ女郎買いに――ちがう。何うも、老人は、物憶えが悪うて――」
「まあ、※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]ばかり――頼みます、妾は、お先きに――」
「お嬢さん。その名越に逢うた人に、逢うて、牧が、何処へ行ったか、聞いたら――名越を追っかけて、そ
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