ない。のめのめこうして暮していて、暮しにつまって、朋輩へ、無心に行ったり、又、思いがけぬ災難に逢ったり、或いは屋敷の者の手で、牧を討たしたくはない」
 小太郎は、低く、こう云ってから、強い調子で
「父も、綱手も、死んだ。覚悟は、申さずともついておろう。小藤次に、肌を許して、牧の在所を聞き出したうえ、自害せい。わしも、牧を討取った上にて、お前の後を追おう――」
「若旦那」
 と、南玉が云った。小太郎は、じろっと、振向いて
「止める事ならんぞ」
 と、云った途端、庄吉が
「益満の野郎――命が惜しさに、急に、変心しゃあがって、今更、助太刀するの、せんのって、土台、あん畜生が、いけねえから、こういうことになっちまったんだ。俺《おいら》あ、もうこうなりゃ、承知できねえ。破れ、かぶれだ。あん畜生の首根っ子を押えて、うんと、いわすか、いわさんか。畜生、いわなけりゃ、鼻の頭を、齧《かじ》りとっちまうんだ」
 庄吉は、真赤になって、怒鳴った。
「命の恩人だが、もう、こんな命は、要らねえから、要らねえ命を助けてもらったのに、恩も、へったくれもねえ。そうだろう、師匠」
「庄公、手前、嫉妬じゃあねえか。嫉妬なら、みっともねえぜ」
「馬鹿にするねえ。このもうろく講釈。女なんざ、泥溝へ棄てる程あらあ」
「深雪さんもね」
「うるせえ、俺、これから、益満の野郎を探して、いいたいことだけいって、鼻を齧って来るんだ」
 庄吉は、こういって、深雪の、俯向いている顔を覗き込みながら
「立派に、仕遂げて来なせえ。あっしゃあ、蔭ながら、祈っておりやすぜ――さよなら、いろいろ、いいてえことがあるんだが――」
 庄吉は、懐へ入れていた手を出して
「まあ、よしやしょう。若旦那、長々の、おつき合いで、あっしのような――や、やくざ者を――」
 庄吉は、だんだん俯向いて、泣声になってきた。
「わしが、手首を折ったのに、それを恨みもせず――よく――よく、つくしてくれた。何も、今生で、礼ができんで、心苦しいが、あの世から――」
 小太郎も、俯向いた。南玉は、手拭で、鼻の下をこすっていた。
「深雪さん、そいじゃあ、お別れしますぜ」
 庄吉は、立ちかけた。そして、又、坐って
「操を破ったって――ねえ、何んな、ぼろを下げたって、仮令、夜鷹、辻君になったって、惚れた女は、惚れた女――として、ねえ、惚れた上は、鼻が欠けても、盲になっても、惚れ止めねえのが、本当の、男の、恋ってもんだ。あっしゃ、そうだ――さよなら、もう、お目にかかれるか、かかれねえか? あっしの死ぬのが早いか、深雪さんの死ぬのが早いか――人間、二度たあ、死なねえや。一つ、益満の畜生に、ずばりと、一思いに、斬られてえや。さよなら、幾度いっても、同じだ、今度は、本当に――さよなら」
 庄吉は、立上った。

「行くか」
 と、小太郎が、見上げた。
「ええ――師匠」
「うん」
「あばよ」
 庄吉が、一足踏み出した時
「庄さん」
 と、深雪が、叫んで、膝を向けた。涙のたまった眼で、庄吉を見上げて、手を頭へやって、簪《かんざし》を抜いた。そして
「形見に――」
 小太郎は、ちらっと見たが、黙って、腕を組んだ。庄吉は、深雪と簪とを、見較べて、暫く、突っ立ったままでいたが
「下さるんですかい、あっしに?」
「何も――お礼を――これを、せめて形見に――」
「ええ」
 と、頷くと、庄吉は、はらはらと、涙を落した。そして、それを、手で払って、膝をつくと
「おもらい――申しやす」
 左手に受けると、暫く、押し頂いていた。簪の足に、沁《し》んでいる油は、女の情熱と、肌とを思わせるように粘っていた。
「頂きやす――有難うごぜえやす」
 庄吉は、眼を閉じて、簪を、頂いて、暫く、じっとしていたが
「あっしゃねえ――」
 と、云って
「いいや」
 と、独り言を、云って、首を振った。そして
「云わねえったら、口を割らねえのが、仲間の作法だ――」
「そうだ」
 と、南玉が
「お嬢さんの心は、判ってらあ」
「師匠――俺、たった今まで、自棄を起して、死ぬつもりだったが、一寸――ほんの、ちょっぴり、思案をかえらあ」
「そうかい」
「何う変えるか、代は、見てのお戻りってんだが、休公の、鼻を齧るのだけは、変えねえ――じゃ、いよいよ、これが、ぎりぎりけっちゃくの、さよなら、だ。さよなら――お嬢さんにゃ、しかし、もう一度、お目にかかりやす」
 庄吉は、土間へ、降りた。
「さよなら」
「行くか」
 と、南玉と、小太郎とが、答えた。
「南玉」
 すぐ、小太郎が云った。南玉が、顔を挙げると
「これを、小藤次の許まで、送って行ってくれんか」
「ええ――然し、若旦那。小藤次が、牧の行方を知らん時には――」
「肌さえ許せば、御自身、御存じのうても、誰方か、からか、聞いてくれましょう」
 と、深雪が、いった。小太郎が頷いた。
「覚悟を、きめなすったかえ?」
「ええ」
 深雪は、はっきりした口調であったが、顔が、少し、蒼白《あおざ》めていた。
「ようがす――と、いって、いよいよ行くとなりゃ、化粧もして――」
「ええ――兄様、風呂へ参ります暇は、ございましょうか」
 小太郎は、深雪の健気な決心を見ると共に、胸を掴みしめられるように苦しくなってきた。
(一家中、不幸なら、せめて、この深雪だけでも、幸にしてやりたいのを――死ぬより厭がっている男に、肌を許せ、というわしは――いわなくてはならん、わしは――一体――それが、兄の道か? 妹をまで生犠《いけにえ》にして――)
 と、思うと、自分も、益満も、牧も、堪らぬ程、憎くなってきた。
「明日でもよい、今夜、一夜は、ここに臥て――」
「はい」
 小声で、そう答えると共に、深雪は、又、涙を浮べてきた。小太郎は、俯向いて、眼を閉じた。南玉は、顔中を、撫で廻していた。

「おう、流しっ、上ってくれ」
 両国下手の、川沿い、黒い高塀の料理屋の二階からであった。
「有難う」
 富士春は、よく、透る声で、返事をした。そして、打ち水してある石の上を、植込みの竹の横を、くぐりから、内玄関へ廻った。
「今晩は、有難う存じます。姐《ねえ》さん、今晩は、有難う存じます」
 富士春は、人々へ、お叩頭した。
「お座敷は、二階ですよ」
「はい、何ちらから?」
「突き当って、右ですよ」
 玄関の女は、突けんどんにいった。外の女は、二人の姿を、じっと、眺めたり、忙がしそうに、広い廊下を、行き戻りしていた。二人は、編笠をかぶったまま、廊下へ出た。
[#ここから3字下げ]
二階、三階
こちゃ苦界
[#ここで字下げ終わり]
 益満は、唄いながら、広い階段を、上りきると
[#ここから3字下げ]
座敷は、ここかい
ちがうかい
[#ここで字下げ終わり]
「おーいっ、ここだよ」
[#ここから3字下げ]
そうかい――
[#ここで字下げ終わり]
 と、益満が、唄うと
「この人は――」
 と、富士春が[#「富士春が」は底本では「富士丸が」]、袖を引いた。
「ええ、お有難う存じます」
「有難う存じます」
 二人が、廊下へ手をつくと
「入んねえ」
「御免下さいまし」
 客は、三十七、八の遊人風の人であった。盃を、益満に出して
「一つ、やりねえ」
 益満は、手を延して、盃をもらった。女中が、酌をした。
「今、一人来るんだ。一寸、待ってくれ、呼びにやってるから、お前さんの唄を、是非聞きたいって奴でね。つい、そこだから、すぐ来らあ」
 そういっているうちに、手早く、金を包んで、富士春の前へ抛げ出した。
「二つ、三つで結構だ」
「有難う存じます」
 富士春は、帯の間へ、鳥目を押し込んだ。
「いらっしゃいます方は、方と致しまして、何か一つ」
 富士春は、三味線を抱えた。
「野暮に出来ていて、流行唄一つ知らんでの、よろしく、頼まあ」
「まあ、お固うございますこと。たまる一方で――」
「借金山となりにけりさ」
「まあ、御上手な――」
「口先だけは――言訳に慣れているからの」
「ほほほ、これは、とても、妾一人では、太刀打が」
「亭主と、束になって、押寄せるかの」
「亭主と、見えて、実は、いそ的で、へい」
 と、益満が、引取った。
「いそ的と見えて、実は、色的で」
 益満が、答えようとした途端、襖が開いて
「よっ」
「早かったな」
 庄吉は、上座に布いてあった座蒲団へ坐ると、俯向いている富士春へ
「久し振りだな」
「ええ」
「冠り物をとれ。益満さん、一寸、話があるんだ。その暑くるしい奴を、取ってくんねえか」
「へいへい」
「厭なこと、いうねえ。へいへい、何が、へいへいだ」
「およしよ、庄さん」
 富士春がとめた。
「何うかしてるよ、この人は」
「うん、何うかしてるんだ。人間、時々、何うかすらあ。手前も、何うかしてやがる。それよりも、おいっ、益満、手前が、一番、何うか、しちまってるぞ。何うか――」
「御勘弁を――」
「巫山戯《ふざけ》るなっ。もっと、前へ出ろ。そもそもだな。そもそもと、来らあ、こん畜生」

「お勇ましいことで、ござりますな」
 益満が、にやりと、笑った。
「何、何、何っ――」
 庄吉の朋輩が
「おい、話をするんなら、もっと、穏かにしろや」
「ほんとに、見とむない――お前さん、嫉妬なのかえ」
「黙ってろ、手前なんぞの出る幕じゃあねえ。幕へ出なさるなあ、お嬢さんだ。手前なんざ、奈落で、廻り舞台を担いでろっ」
 富士春は、益満と、いつの間にか、後ろめたい関係になっていたので、庄吉の意気込みに、気圧《けお》されていたが、お嬢さん、と聞くと、自分が、着物を曲げてまで、苦労して来たことが、思い出されて
(五分と、五分だ)
 と、思った。そして、そう思うと同時に、いつまでも、深雪深雪と、物にもならない娘っ子を、命がけで追い廻している庄吉に、情なさと、嫉妬と、腹立たしさが、起ってきた。
「そうかい――本当に、妾ゃ、縁の下の力持ちさ。腐った性根も知らないで、いろいろ苦労をしてさ」
「苦労は、手前ばかりじゃあねえ。義経だって、九郎と云わあ。うるせいっ、なあ、益満さん。お前さん、一旦、約束しておきながら、それも、他人とじゃあねえ、義兄弟と、ちゃんと、牧を討つと、約束しておきながら、今更になって、変更《へんが》えとは、一体、何うしたんですい? 今日も、小太郎の旦那が、深雪、操をすてて、牧の在所を、突きとめてくれ、小藤次に、肌を許したなら、聞き出せる術もあろうと、天にも、地にも、たった一人の妹の、操を破らせる話だ。そしたら、深雪さんが、はい、と、活溌《かっぱつ》に、聞き出しましょうって。お春のような、のべつに、操を破っている代物とは、代物がちがうんだぜ」
「おやっ」
「うるせいっ、おやおや、どっこい、すとひよっとこ。泣きもしねえで、はい、と答えた健気さに、益満さん、俺あ、肚の中で、泣いた」
「小藤次に、してやられて、口惜しいからだろう」
「黙ってろっ」
 庄吉は、左手で徳利を掴んで、富士春を睨んだ。朋輩が
「よせったら――お春さん、暫く、黙って」
「ええ、でも、憎らしい、まるで人を、夜鷹かなんぞのように――」
「夜鷹? 手前なんざ、夜鳶《よとんび》だ、河童の屁玉に、のら猫だ」
「お上手で、恐れ入りやす」
 益満が、笑った。
「笑い話じゃねえ。一体、武士が、一旦誓って置きながら、今更、知らん顔するたあ、ちっと、休さん、話がちがいますぜ。貴下は、命の恩人だ。だが、俺、もう命は要らねえから、返しますよ。ね、返しちまえば、五分と、五分だ。一体、何うしてくれるのか。小太郎さんも、深雪さんも、このまま見殺しにするのか、それとも、助けてくれるか、その返事が聞きたいんだ。返事の模様によっちゃあ、あっしにも、一寸、考えがあるんだ」
「へ、考えがね、凄うがすな」
「そのおかしな物いいをよしてくんな。そいつが、第一、気に入らねえ。昔の通りで、話をしてくれ」
「へへへへへ、只今は、身分がちがいます。昔は、昔、今は今」
「そうかい、何処までも、白っぱくれて、胡麻化そうというんだね。おい、益休《ますきゅう》っ」
 庄吉は、懐から、白鞘を出して、畳の上へ置
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