久光の用人が、いった。久光は、脇息から、手を放して、火鉢の縁を掴んだ。そして、大きい声で
「ふむ」
 と、いった。
「父上が、隠居届を出されたのか?」
「いいえ、福岡、宇和島、南部の三公から、御願いがござりまして、閣老において、御内諾とのことにござります」
 久光は、じっと、用人の顔を、見ていたが
「それでは、父が、厭じゃと申した時に、何うもならんではないか?」
「勿論、左様でございます。閣老とても、内政にまで――」
「では、決定したようでも、何う変るか知れんではないか」
「多分、御国許の今度のことを口実に――」
「左様な、馬鹿な。左様のことをすれば、いよいよ父を怒らせるだけではないか。隠居したくとも、せんと云い出しかねぬ父ではないか」
「はい、それなら、又、一段の儀でござります」
「何が、一段じゃ、たわけたことを申すな。父を、世間から、後ろ指をささせて、一段の儀か」
「お家のためには」
「何が、お家のため? あれだけの士を殺して、何が御家のためじゃ」
「お叱りを蒙りまして、恐れ入りまするが、家中の大多数が、斉彬様に反対の上は――」
「黙れ。予が――支度させい、駕を。伯父の許へ参って聞いて参る」
「はっ――それから、お鷹野の御戻り道にて、無礼を働きましたる仙波小太郎の儀」
「それが?」
「奉行所の手にて居所相判りましたゆえ、召捕らせておきましたが――」
「誰が、召捕れと申した。何故、予に、断りもなく、左様の処置を致す」
「重々のお怒り、恐れ入りまするが、罪の有無は、とにかく、一応取調べませぬと」
「とにかくも、一応もない」
「いいえ。彼の者も、彼の者の父も、牧殿の御祈祷場へ斬込みましたゆえ、これのみにても、十分、死罪に値致します」
「許しやれ」
「なりませぬ。家中の掟が乱れます。大殿様の、今度の御処置を御存じの筈。仮令《たとい》、善にもあれ、悪にもあれ、上席の者に向って、不逞の企みをなす者を、許しておいては――」
「煩い。退れ」
「何を仰せられます」
 用人は、皺の顔の中から、久光を睨んだ。
「斉彬様のおことと申せば――」
「退らんか」
「退りません」
 久光は、火箸をとると、用人の顔へ投げつけた。一本が当って、膝の上に落ちた。一本は、頭上を飛び越した。
「何んとなされます」
 用人が、こういって、膝の前へ、拳を置いた時、若侍が二人、用人の左右へ、走り寄った。と同時に、女中と、近侍とが、久光の側へ、小腰をかがめて近寄ると
「殿」
 と、いって、手を出して、支えた。
「動きませぬ」
 と、いった用人を、二人の侍が、抱いて、連れ出そうとした。
「何をする」
 用人は、強い力の中で、もがいた。
「誰か、奉行所へ参って、仙波を放免しろと云って参れ。広岡は、何処へあずけたか、彼奴も、助けてやれ。いつまでも、兄上を、部屋住にしておくから、いろいろ不祥のことが起るのじゃ」
 久光は、独り言のように叫んだ。真赤な顔をしていた。

 牧仲太郎は、お由羅の邸の、奥の部屋で、書見していた。
「牧様、火急のお使が、将曹様の御用人より参られましたが」
「お通し下さい」
 牧は、前よりも、蒼白い、そして、痩せた顔をしていた。一日中、部屋へ引籠って、書見しているほか、自分からは、口さえ利かなかった。
 牧のために、特別につけてある美しい女中は、食事の時にさえ、遠ざけられた。そして、食事は、牧の註文で、麦飯に、味噌汁だけであった。
 使の士は、入って来ると、険しい、牧の眼に、眼を伏せて
「斉彬様、御相続の儀、只今、閣老にて御内定になりましてござります」
 牧は、頷いた。
「それに就きまして――」
「御苦労」
「将曹様より、御依頼の件――」
「判っております」
「はっ――外に――御用は?」
「無い」
 使は、立上るより外に無かった。
「お暇仕ります」
 牧は、返事もしないで、書物へ向った。侍が、去ってしまうと、手を延して、床の間から、算木《さんぎ》の入った、白緞子で包んだ小函と、筮竹《ぜいちく》の包とを取った。そして、机の上へ、算木を陳べて、幾度か裏返したり、表へ向けたりしてから、筮竹を頂いて、数えてみた。幾度となく、同じことを繰返してから、暫く、瞑目した。そして、眼を開くと、立上って廊下へ出て
「山内」
 と、叫んだ。
「はっ」
 山内でない声の返事が聞えて、暫くすると、山内が
「御用で」
 と、廊下へ現れた。酒気を帯びていた。牧は、ちらっと、それを見ると、眉をひそめたが
「旅支度を、すぐに――」
「旅に?」
「支度をすれば、よろしい」
 牧は、こう云いすてて、部屋へ、入ってしまった。そして、違棚の上の、手函の中から、金包を出した。押入の中から、小さい、支那渡りの赤塗の、金具の光った箱を出した。その中には、旅に必要な品々が、入っていた。女の足音がして
「入りましても――」
 と、聞いた。
「拙者は、祈祷のために、旅へ出る。いつ戻るか、判らぬから、お由羅殿が、お戻りになったら、左様申し伝えてもらいたい」
 牧は、こう云って、脚絆を、足へ当てていた。
「では、お部屋様の、お戻りの先に」
「左様」
「お許しがござりませぬに、お出ましになりましては――」
「左様のことは、よろしい」
「はい」
「駕を二梃申しつけて、山内へ、早く支度をするようと、申してもらいたい」
「はい」
 それ以上に云っても、答える牧ではなかった。女中が、去った。牧は、支度をしてから、部屋の中の品々を、それぞれのところへ片づけて、火鉢の灰の形までも、正しく、整えた。そして、じっと俯向いて、腕組したまま、いつまでも、坐っていた。

  まんじ乱れ

 髪を束ねて――いつの間にか、少し、やつれを見せ、身躾みの化粧も、この頃は、しなくなって――垢染みた着物に――それは、この長屋の人々と、同じようにまで、汚くなった深雪が、洗濯している手を止めて
「あっ」
 と、いった。そして、立上って、眉を歪めて
「お兄様」
 小太郎は、奉行所へ引かれた時と、同じ姿で――だが、いつの間にか、蒼白い顔になって
「無事か。皆、変りはないか」
「ええ」
 深雪は、前掛で、手を拭きながら、胸を嬉しさでいっぱいにしながら、兄に従って、井戸端から、家の方へ、小走りについて行った。長屋の人々が、二人をのぞいて見て
「おお、若旦那」
 とか
「よく、御無事で」
 とか、声をかけた。深雪は
「有難うございます、有難うございます」
 と、左右へ、お叩頭をしながら、涙を浮べていた。
「庄吉に、南玉は?」
「呼んで参りましょうか」
「それにも及ばぬ」
「ええ、もう、参りましょう」
 口早に、こう云って、二人は、家の中へ上って行った。
「もう、大事ないのでござりますか」
「うむ」
「ま、何うして、では、召捕りに?」
「判らぬが、察するところ、御鷹野の連累《れんるい》として、念のために捕えたが、久光公から、何か、御言葉が出たらしい。将曹でも居ったなら、斬られたかも知れんが、あいつ、国許に戻っておるし、斉彬公の御世継の話の定まりそうな折柄、奉行も、濫りに、手をつけて、役の表に障ってならぬと、それで、無事に放免したらしい。召捕らせたのは、将曹か、平か、お由羅あたりの指金らしいが――当節は、奉行も、利口で、風向次第、何んとでもするものらしい」
「まあ、御奉行様が、左様なことを――」
「奉行も、老中も――益満の申す如く、徳川の綱紀は、乱れて来ているらしい」
「妾――お兄様、幾度死のうかと、決心しましたか知れません、本当に――」
 深雪は、こういうと、袖を目へ当てた。
「南玉に、庄吉は、相変らず、来ておるかの?」
「はい、いろいろと、骨を折ってくれましたが――」
 と、いった時、ことこと走る音が、近づいて来た。
「庄吉でござりましょう」
「走って参ったの」
 いい終るか、終らぬかに、格子戸を開けて
「本当だっ――若旦那っ」
 庄吉が、敷居に躓きながら、駈け込んで来た。
「今、町内の奴が、確かに、小太郎さんだと知らせに来てくれましてね。横っ飛びにすっとんで来たが――若旦那」
 と、いって、片手で、何かを拝んで
「死んだ大旦那様の御加護だ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
「心配かけたの」
「自分の災難よりも辛いや、見ちゃおれませんでしたよ。一時は、こんなに、眼を泣きはらして――御覧なさい、この、痩せ方を」
 庄吉は、深雪を見てから、小太郎の方を向いて
「ところで、一体、奉行の野郎、何んてことをしましたのかい」
 と、顔をのぞき込んだ。

「うわーっ、うわーっだ」
 南玉が、大きい声を出して、長屋の入口から、走り込んで来た。そして、土間に立って、小太郎に、口々に、挨拶している人々に
「赤飯炊いてくれ、赤飯を。鯛をつけてな、鯛を――」
 人々が、振向いて
「師匠、嬉しいだろう」
「何をっ、こうなるとは、ちゃんと、天文で見抜いていたんだ」
「※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]をつけ、二三日、飯が食えねえって云ってやがったくせに――」
「あの時は、腹をこわしていたんだ。退け、退け、おけら」
 南玉は、人々を掻き分けて
「いや、実に、何うも――」
 上り口の端へ上って、ぺたりと、坐ってしまった。そして、胸を叩きながら
「ああ、苦しい」
「小父様、お冷でも?」
 と、深雪がいって、立上ると
「老人の冷水――いや、齢はとっても、桃牛舎南玉、這《は》って参ります、這ってな」
 南玉は、ごそごそ這いながら、奥の間へ入った。長屋の人々が、見舞の品を置いて、戻って行った。
「有難うよ、有難うよ」
 庄吉が、一々、挨拶した。南玉が
「又、明晩も、早々から」
 と、お叩頭をして
「若旦那、あっしゃあ、奉行め、もし、若旦那を罪にしゃあがったら、高座で、奉行が袖の下を取って、罪のない者を、召捕ったと、御政道をめちゃめちゃにこき下ろしてやろうと――」
「袖の下などと、何故判る?」
「そりゃ、ちゃんと、上は天文から――」
「下夜鷹の湯巻に至るまで」
 と、庄吉が、口を出した。
「実は、益満さんに、飛んで行きましたよ、何うしようかって――するてえと、先生|曰《のたまわ》く、捨てておけ、と。嚇《かっ》としましたよ。張扇で、叩き殺そうかと思いましたが、待てしばし。待て待てしばし、待てしばし。腹立つ胸を押殺して、こは如何なこと、益満殿――と、聞くと――今の町奉行ってのは、妾狂いをしていて、これが――」
 と、南玉は、指で丸を作った。
「要るんで、お由羅方の誰かの指金で、捕らしたのだろうが、斉彬さんが、御家督ときまったと聞いたら、びっくりして、戻すだろうと――若旦那、そうでござんしょうか?」
「そうらしい。わし如き者でも、死罪にするには、奉行の一存では行かんからのう。老中、将軍の判がいるし、一応、薩藩へ、問い合わさなくてはならんからなあ」
「成る程、人の命だの、南玉の講釈なんてものは、尊うござんすからの」
「何、いってやがる。ところで、若旦那、すっかり、旅の陽焼けがとれて、いい男っ振りに、又、戻りましたねえ」
 小太郎は、微笑して
「深雪、身体を拭きたいが」
「では、お風呂へ」
「いや、相談事があるし、取急ぐから」
 深雪が、井戸端へ、立って行った。小太郎は、じっと、その後姿を見送っていたが
「不憫な奴じゃ」
 と、呟いた。
「然し、何んて、やさしい、利口な方だろう、若旦那。もう、三十若いと、厭とは云わさんが――庄吉、無理はない、人の懐をねらうだけあって、手前、眼が高えや」
「こん畜生、いやな称め方をする爺だ」
 と、云った時、深雪が、水を汲んで、戻って来た。

 建込んだ長屋の、薄暗い、狭い部屋――それは、夏に近い夕だけに、四人も坐っていると、むっとするくらいであった。
「深雪」
 と、小太郎が、顔を挙げて、鋭く云った。
「はい」
 と、深雪が、周章てて、眼を上げた。
「操を、棄ててくれぬか」
 深雪は、小太郎の眼から、眼を外らして、低く
「ええ」
 と、頷いた。庄吉が
「何か、思案が、つきましたかい」
「小藤次の口から、牧の在所《ありか》を聞き出す外に、手段《てだて》は
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