彬をよく知っておる。当今、天下第一の人物じゃ。この人物に、お前が、薫陶されたなら、この末、よし、お由羅の陰謀が、成就しようとも、十分、久光を守立てて、天下に号令のできる人間になれるであろう。久光は、愚かではないが、斉彬あっての、久光じゃ。斉彬が無くなったら、無一物になろうかも知れん。その時、お前が、斉彬の意を帯《たい》して、久光の後見をしてくれたなら、当家は、三百諸侯の中で、矢張り、ただ今の如く、重きを置かれるであろう――斉彬は、よく士を愛するが、国許に、お前の居ることを知らんかもしれぬ。お前と話したなら、きっと気に入るであろう。わしは、それを信じて、安心して死ぬ。親爺に、介錯をしてもろうて、倅に、行末を頼んでの。わしの、家来に、お前等二人のいることは、わしの誇りじゃ」
靱負は、こういって、笑ったが、その眼の中には、微かに涙が、薄紅く光っていた。
「忝のう存じまする」
吉兵衛が、手をついていた膝の上へ、涙を落した。吉之助は俯向いて、眼を閉じていたが、父が、こういうと、垂れていた頭を、もっと低くした。
「この間、高崎の死体を掘り出す時に、人夫へ手伝ったということを聞いたが、真実かの」
「はい」
「それもよい。だが、なるべくば、その情をもっと大きく、天下蒼生のために、用いるよう心掛けてくれ。斉彬は、冷徹、信ずる理前の通りに行おうとしているし、お前は、熱情をもって、人間の大道を行こうとしているが、極まるところ、二つは合致していて、何れも、人間の大道は通じておる。そうであろう」
靱負は、こういった時、隣りの部屋で、三時の時計が、ゆるやかに、鈍く、響き渡った。三人は、暫く、黙っていた。
「わしの、この肌衣を、形見に与えよう。血染めになったのを――」
「はい」
吉之助の声は、顫えていた。
「悉く、お集まりに、相成りまして、ござります」
次から、切腹の座に、つらなる人々の、到着したことを、知らせに来た。
「では、戻るがよい」
吉之助は、真赤な、そして、涙の溢れている、大きい眼を上げて、靱負を見た。
「泣くな」
靱負は、そういって、微笑した。
「大久保は、何があっても泣かんし、お前は何かがあると、すぐ泣く」
靱負は、そういいながら、立上った。そして
「判ったか」
「はっ」
吉之助が、そう答えると、振向きもしないで、次の間へ入ってしまった。吉之助は、掌を顔へ当てた。
斉彬は、伊達宗城の言葉の終るのを待って、静かに
「然し、余の事とちがい、父の心一つにて決することゆえ、お志は忝ないが、万事父の心任せに――」
「そういうとは、身も、承知して参った。然し、お身のために、いろいろと、心を砕いている家中の者が、可哀そうとは、思わんかのう。お由羅方の人を、処分するか、せんかは、お身の心一つで――恐らくお身は、手をつけまいが、斉興殿は、この上、何をなさるかも知れん。もし、この後、ああしたことをなさるなら、いよいよ何事が起るか、判らんではないか? お身の孝心は、宗城、感じ入るが、父上一人の御機嫌をとるために、島津の家を亡ぼして、それが、賢人の道かの」
斉彬は、微笑して
「亡びもせん。父も、よいお齢じゃで、その内に、お亡くなりになろう。それまでに、十人、二十人死んだとて、軽輩に、よい人物がうんといる」
「わが子を呪殺した人物でさえ、助けたいお身だから――成る程」
と、宗城は、頷いて
「では、身は、身として、別に考えることに致そう。一言、申しておくが、調所笑左の、密貿易《みつがい》の一件。あれが、伊勢殿の手に入っておる。これを持ち出して――」
「それはいかん」
「身は、仮令、当家が、半地になろうとも、お身を殺しとうない。百万石にも代えられん天下の材と思うから、交りを絶つのを覚悟の上にて、非常手段をとる。これも、閣老と御相談した。多少、減地はされるであろうが、斉興公が何んとしても、隠居届をなされぬ上は、これを持ち出して、詰め寄るより外にない」
「それは、困る」
「福岡も、南部も、御同意だ。お身は、いつも、天下のために、己は、生犠《いけにえ》になってもいいと、申しておられるが、その尊い命を、見す見す縮められても、私事の孝のために、黙視しておられるのが、身の腑には、落ちん。わが子の命のことは、とにかく、多くの忠臣が、死罪となるのに、腕を拱《こまぬ》いて、斉興公任せにしておるのも、判らん」
「判らぬことはないが、家のことに、かまう暇がない」
「命が失くなって、天下のために計れるか」
「命は、天でないか」
「もういわぬ。これだけ申せば、お身に判らん筈はない。身は、身で、処置をする。もし、御意に逆ったなら、交りを絶つも、よろしい。御暇しよう」
「ふむ――」
斉彬は、腕組をして
「よく、考えておこう」
宗城は、立上りかけて
「いつもの、明断に、似ぬではないか」
と、いってから、立上った。
「困ったことになったわい」
斉彬は、こう呟いて
「父上の、お戻りを待って、よく、談合してからに――」
と、宗城を見上げた。
「明断、明断」
と、宗城は、振向きもしないで大声でいった。斉彬は、鈴の紐を引いてから、静かに立上った。宗城が、案内もまたずに、出て行った。一人の近侍が、入って来て、斉彬が考えながら、坐っているのを見て
「何か、お争いでも――」
「いいや、わしの心の中での――」
「勝様、お待ちでござります」
と、答えると、宗城を、見送るため、それから、待っている勝安房に逢うため、立上った。
「封襲した上は、近々、帰国せずばなるまい。帰国の上は、海防のことも、心のままにならずと、心痛しておったが、貴殿の御意見を聞いて、大いに、安堵致した。日本のために、切に働いてもらいたい」
斉彬は、そう云って、軽く頭を下げ、手を膝に置いた。
「恐れ入ります。いろいろの御高説、何れ程、勉強になりましたか判りませぬ。お説に従い、身命を賭して、努力仕ります」
幕命を受けて、海軍のこと、造船のこと、国防のことを聞きに来た勝安房は、斉彬の熱誠と、知識とに、身体を固くして顫えながら、今の日本の危機を感じ、自分の責任の重さを感じ、それから、斉彬の存在に安心して、心の底からの、畏敬の、挨拶をした。
庭の松の木越しに、品川の海が見えていた。薩摩の旗印を立てた船が、幾艘も、もやっているのを、主客二人が、暫く、眺めているうちに、帆柱へ、旗が、するすると、閃きながら登りかけた。白地に、日の丸の旗印であった。帆先で、翻ると、それは鮮かに――単純ではあるが、単純ゆえに、他の船印よりも、目につくし、単純なものの力と、美しさとが、感じられた。
「あれは? あの船印は?」
と、安房が聞いた。
「日《ひ》の本《もと》を象《かたど》ったもので、わしが、考案したが、如何であろうかな。真中の朱は、太陽のつもりだが、いろいろと考えた末、物は、簡単なのがええと思うて、あれにした」
勝は頷いた。
「あれが、やがて、日本の旗印となりましょう――そうありたいと心得ます」
斉彬は、微笑して
「水戸の浪人等が、わしを担いで、倒幕の戦を起そうとしているのを、勝は、信じているかの」
「浪人の手では起り得ませぬが、或いは、幕府自ら、倒れるかも知れませぬ。古今興亡の歴史を顧みまして、三百年は、永い天下でござります。一新すべき時が参っておりましょう。手前、せめても、それに対して善処をしたいと――史上に見る、悲惨な末路に、将軍を陥れたくないと、それのみ、心痛しております」
「勝は、私事を捨てて、天下の難に赴きうる。わしは、それが、羨ましい。わしの身辺には、紛擾、ますます頻出《ひんしゅつ》して――」
斉彬は、そこまで云って、黙ってしまった。安房も、暫く、黙っていたが
「お察し申し上げます」
と、俯向いて云った。
「もう、勝にも、逢えんかもしれぬ」
勝は、顔を上げて、斉彬を見て
「それは?」
「お身のような、人材の居るのを知って、安心をした。わしは、ここ三十幾年、安心というものをしたことがなかった――ほっと、重荷を、降ろしたように感じる。こういう時に、人間は、えて、病などに罹るものじゃ。今、ふっと、もう二度と、江戸は、見られんというような気がした」
斉彬は微笑して
「牧の呪いかも知れん、ははは」
と、笑った。
「そういう噂も、ござりますが――」
勝も、微笑して
「西洋科学にも、こればかりは、ござりますまい」
「牧も、英才であったが、身を誤った」
斉彬が、呟いた。庭に、人影が動いて
「恐れながら――」
斉彬が見ると、庭番が、蹲《うずくま》っていた。
斉彬が、頷くと
「お国許より、急使でござります」
「通せ」
「書状を、持参致しましたが――」
斉彬が、手を出すと、庭番は、廊下から、手を延した。勝が、取次いで、斉彬に渡した。
庭番は、去ろうとした。斉彬は、手紙の封を切りながら
「休息させてやれ」
と、その後姿へ、声をかけた。
「それでは、これにて――」
勝が、膝を動かすと
「暫く――この状に、何んな珍聞があろうも知れん。又、イギリス船が、来襲したとか――」
と、云いつつ、封を切って、眼を当てると、微笑が、すぐに消えてしまった。勝は
(何か、大事だな)
と、思いながら、日の丸の旗の翻っているのを眺めて
(水戸、越前、土佐、それぞれに、大名中の人物にちがいはないが、この公とは段がちがう。人物の練れている点、肚の据っている点、知識の広い点、見識の抜群さ、頭脳の鋭利さ――)
安房が、そう考えて、斉彬の顔を、じっと見ると、斉彬は下脣を噛みながら、溜息をした。
(国許に、何か重大事が起ったな)
勝が、こう感じた時、斉彬は、手紙を巻き納めて
「親の心、子知らずと申して――」
淋しそうに、微笑した。
「はっ」
「わしのためを思ってくれた家来共が、大分、父上のために、処分されたが、若い者が、未だ、一揉しようと――何うも、困った人々じゃ。ここに――」
斉彬は、手紙の上へ、眼を落して
「西郷吉之助、大久保一蔵などと申す者の名が出ているが、勝、よく憶えておいてくれんか」
「はい、西郷吉之助、大久保一蔵」
「わしの亡い後は、こういう軽輩上りが、仕事をしてくれるであろう。家老でもない、重役でもない、軽輩共じゃ」
「羨ましく存じます」
「そうか」
「徳川の旗本共の行状を、お聞き及びでござりましょうか」
「薄々――」
「廟堂に、一人、二人の人材があったとて、この旗本の上に立って、何が、出来ましょう。それに、浪人の勢いは、勇気は――尊王、倒幕という理窟を考えるだけでも、それを唱道するだけでも、無為の旗本より、優れております。殿の御推挙なさる人物なら――やがては、日本を背負って立つ底《てい》の――」
「それは判らんが、何時か、どこかで、逢う日があろう。わしは、勝という偉者が、徳川にいるということを、この連中に、伝えておこう。敵として逢っても頼もしいし、手を握るならこの上もない」
「忝なく存じます。それでは、手前、これにてお暇仕ります」
「久し振りで、気の合うた話をして、晴々とした。もう、帰国までに、会えまいが、くれぐれも、日本のために働いてくれ。頼む」
「はい」
勝は、これまで逢った何の大名よりも、親しく、友人のように、師のように、話をしてくれた斉彬の別れの言葉に、感激して、涙が出て来るように感じた。
「これ」
斉彬は、次の間の近侍を呼んだ。
「お帰りになるぞ」
「日本のために――」
勝は、手をついて、溢れ上ってくる感激を、眼の中に燃えさせて
「御自愛下されますよう」
「うむ――疲れたぞ、勝。いろいろのものと、闘って来たわい――よく、闘ったわい」
斉彬が、こういうと同時に、勝は、はらはらと、涙を落した。
「わしは子を亡くするので、家来を、皆わが子だと思うているが、その子同士が、よいとか、よくないとか、争ってのう――」
勝は、だんだん頭を下げて行った。斉彬は海の方を眺めている。
「斉彬様、いよいよ御世継のことと、御内定に、相成りました由、只今、御家老御用人より、お知らせが、参りましてござります」
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