は)
 小太郎が、そう思って、一足踏み出した時、多勢の叫び声と、足音とが、聞えて来た。
(見つかってはいけない。犬死だ)
 と、思った。素早く、編笠を拾い上げて、かぶろうとすると、人々の身体の下、脚の間から、広岡の、乱れた髪、歪んだ顔が見えた。広岡は、ちらっと、小太郎を見て
「卑怯者っ」
 と、叫んだ。
「いいや――」
 と、小太郎も、叫んだが、すぐ、堂の後方へ走って入った。
「卑怯者っ、卑法者っ」
 と、つづけざまに、絶叫した。
 と、同時に、一人の侍が
「何か、縛るもの――何をっ、何をっ」
 と、叫んでいるのが、聞えた。
(捕えられた)
 小太郎は、そう思いながら、堂の裏の林の中へ、走り込んでいた。

「師匠、一寸、顔を貸してもらいたいが」
 大家の声が、入口でした。小太郎と、深雪と、庄吉と、四人で、話をしていた南玉が
「よいしょ、只今」
 と、立上って、入口の格子戸の外に立っている大家へ
「急ぎか。耳寄りな話か」
「何――一寸、そこまで、来てもらいたいんだが」
「心得た」
 南玉は、土間の草履を、引っかけて、格子をくぐった。大家は、黙って、長屋の入口の方へ歩いて行った。
「昼間は、暖けえが、夜は矢張り、寒いね、大家さん」
「うん」
 大家は、長屋の入口まで出ると、其処に立っている侍に
「召連れましてござります」
 と、お辞儀をした。侍が
「桃牛舎南玉は、其方か」
「へえ、何か、御用で、ござりますか」
「身共は、奉行所の者であるが、その方の住居に、元、薩州の家来、仙波小太郎と申す者がおるか?」
 南玉は、身体中を固くして
(しまった)
 と、全身で叫んだ。
「済まねえが、師匠、外のことたあ違うんだから――俺――侍は、いるって、云ったよ。仕方ねえからのう」
 大家は、気の毒そうに云った。南玉は、俯向いて、黙っていた。
「何んと致した?――返答が、できんとあれば、踏込むぞ」
「へえ」
 侍が、左手を挙げた。軒下、家の横に忍んでいた捕吏《とりかた》が、足早に、近よって来た。
「この爺を、誰か、見張っておれ」
 侍は、こう命じて
「素直に申さんと、為にならんぞ」
「全く――」
「何?」
「いえ、全く、為にはなりませんが――出し抜けに、びっくりしちまって、そう早くは、返事が――」
「居るのか、居らんのか」
 侍は、声を荒くした。
(逃げられめえかな――おかしい、と、感じて、庄公でも出て来てくれたら)
 南玉は、捕吏を対手に戦っている小太郎を考え、その後方で、顫えている深雪を、想像してみた。
「居ません、と、居るのに申し上げやぁ致しませんが――ここが、大事で――」
 同心は、一人の捕吏に、南玉を渡して、長屋の中へ入って行った。捕吏が、その後方から、忍び足につづいた。
「大家さん、大変だ、こりゃ」
「何う調べたか、ちゃんと、お調べがついているんだから、隠せねえや」
 大家は、気の毒そうに云った。捕吏が
「何うも居るのが判っているに、素直に云わぬと――」
「為にならねえことぐらいは、子供の時分から、心得ているが、そうは行かねえや――大家さん、えらい騒ぎが起りますぜ」
「手向いでもしなさるかのう――困った。当分、借手が無くならあ。あの血ってやつは、なかなか、落ちないもんでのう」
 南玉は、それに、答えないで、長屋の中に、すぐ音立てて起って来る、小太郎の抵抗を、想像して、心臓を喘がせていた。

「御免」
 入口から、声がした。
「へえ――誰方?」
 庄吉が、襖の中から、顔を振向けた。
「こちらに、仙波小太郎さんって、おいでですかえ」
 小太郎も、庄吉も、胸を突かれた。御鷹野から戻って来た時から、小太郎には
(もしかしたなら――)
 と、いう不安があった。庄吉は、巾着切として、すぐ、奉行所の手段の、常套的なものが、頭へ響いた。
(俺ではねえかしら)
 と、ちらっと、思ったが、明らかに、仙波小太郎といっている以上、小太郎の心配している鷹野からのことにちがいない、と思うと、後方へ、手を振って、早く、逃げて下さい、と合図をしたかったが、自分では、右手を振ったつもりのが、その手が無かった。そして、それの無いのを考えないくらいに、庄吉は、危険の迫っているのに、気をとられていた。庄吉は
「小太郎?」
 と、いいながら、時間を、少しでも、延そうとして、立上って、表の間へ出て来た。
「何ちらさまで?」
 庄吉は、南玉が、出て行ったままで戻らないのと思い合せると、もう、自分の判断に、間違いはないと、考えた。そして、小太郎と、深雪とが、物音も立てないで、坐っているらしいのを感じて
「居りませんよ」
 と、いった刹那、変装している手先は、ちらっと、庄吉を見てから、格子の外へ、手を振った。足音が集まって来た。
「若旦那っ、手が廻ったっ」
 庄吉が、こう叫んだ時、一人の手先が、飛び上って来て右手を掴んだ。だが、右手が無くて、袖だけを掴んで、足を払った。庄吉は、よろめいて、壁へ、どんと、ぶつかりながら
「何をするんでえ」
 と、睨みつけた。手先の中に、混って、同心が、土間へ入ると
「小太郎、神妙に致せ、無駄な振舞致すな」
 そういった時、左手に刀を提げた小太郎が、襖のところへ、現れて来た。表の間へ、上って、踏み込もうとした二三人の手先が、立止まって
「御用」
 と、叫びつつ、身構えた。小太郎は、土間の人数、表の気配をうかがって、それが、相当に多人数であると、判ると同時に、憤りと、悔恨とが、頭の中を、突っつき廻して、馳せめぐった。
(自分一人に、こんな人数を向けて――斬り破る見込みはない。斬り破っても、逃げ果《おお》せるものでない。潔く、捕えられた方がいい)
 小太郎は、自分の処置を、すぐ、こう判断すると同時に、こんなにまでして、自分を召捕らしに来た久光の心が判らなかった。
(あの時斬りつけたら、斬れるものを、主君とあがめて、手を出さなかったのに、礼さえつくしたのに、そして、それを、見ていながら、自分に対して、こんな処置をとるとは?)
 と、思うと、久光の無情さに、極度の怒りが燃えて来た。
(矢張り、討つんだった――斉彬公の仰せの如き人ではない。お由羅の子だ。鬼畜の如き心をもっている)
 そう久光を、非難する一方、深雪のことを考え、一家のこと、父のこと、母のこと――小太郎は、静かに、刀を差出して
「同道致そう」
 と、いった。

「若旦那っ」
 庄吉は、壁際に押しつけられながら
「そんな」
 と、いうと、涙が流れて来た。同心が
「神妙の至り」
 と、頷いて、手先に、刀を取れと、合図した。
「お兄様」
 小太郎は、それに答えないで
「刀を、お渡し申す上は、縄を御容赦願いたい」
 同心は、暫く考えていたが
「いかにも」
 と、頷いた。二人の手先が、小太郎の左右に添って、袖を掴んだ。
「今一つ、無心ながら、妹と、暫く話を致したい」
「よろしい」
 深雪は、蒼白になっていたが、泣いてはいなかった。
「万事は、益満と、談合致せ。お国許では、お歴々達が、何んの罪咎もないに、切腹をしていなさる。それに較べると、わしは、よくここまで生延びてきた。同志として、軽輩として、かく、多人数の捕吏を受けることは、武士の面目として、この上もない。わしは、潔く、処置を受ける」
 と、云った時、二三人の足音がして、南玉が
「放せったら」
 と、叫んで、格子を入ろうとした。手先の一人が、肩を掴んだ。
「若旦那っ」
 南玉は、捕吏に、左右から押えられている小太郎の立姿を見て
「一体――」
 と、いうと、顔をしかめて、眼を撫でた。
「牧を――あんた、牧を、一体」
「親爺――庄吉、いろいろと世話になって、何一つ、恩返しもできんが、許してくれい。二人の世話にならんなどと申したが、わしの間違いじゃ。よく尽してくれた。改めて礼を申すぞ。この上は深雪をよろしく頼むぞ。天にも、地にも、仙波の家のは、これ一人に相成った」
 小太郎の眼の中には、薄く涙が、滲み出て来た。
「余り、未練らしく振舞って、笑われとうない。深雪、申し聞かさずとも、一人前の判断のできる齢じゃ。よく考えて、この二人とも、益満とも、談合して――」
 深雪は、俯向いて、黙っていた。いいたいことが、いっぱいあったが、何からいっていいのか、判らないし、何ういえばいいのかも、考えられなかった。
 捕吏は、深雪を、じろじろ眺めて、早く、顔を上げたらいい、と思った。南玉も、庄吉も、黙っていた。長屋の人々は、格子の外から、いっぱいになって、中の気配をうかがっていた。
「忝《かたじけ》のうござる」
 小太郎は、同心に一礼して、歩き出した。
「お兄様」
 深雪が、立上って、手を延した。
「何んじゃ」
 小太郎が、振向くと一緒に、涙が、頬を伝って、咽《むせ》び泣きの声が、漏れてきた。
「未練者」
 小太郎は、睨みつけたが、同じように、涙を浮べていた。
「深雪さん、とにかく――」
 庄吉は、深雪に、蹤いて行け、と、眼で合図をした。小太郎は、群集の中を、袖をとられて出て行った。庄吉と、南玉と、深雪とが、人々の後方からつづくと、長屋の一人が
「庄公、お前でなくてよかったのう」
 と、云った。
「この野郎っ」
 庄吉は、左手で、そう云った男の、横面を撲った。

「何うするの、こうするのって、何うも、こうも、ありゃしねえ」
 南玉は、いつもの、飄逸《ひょういつ》さを、すっかり無くしていた。庄吉も、深雪も、黙って、俯向いていた。
「俺、これから、吉んとこへ行って、仲間の奴らに、手別けしてもらって、益満さんを捜そう」
「そうかい。そうしてくれ。一刻でも、早い方がいいや」
「行って来らあ」
 庄吉が、立上った。
(俺が、片腕を失くしたくらい、何んでもねえ。深雪は、自分が殺されるよりも、辛いだろう。人間ってやつの、運ってものは、一つ悪くなると、何処まで、曲り出すものか、判らねえ)
 庄吉が、入口を出ると、向い側から、大家が、顔を出して
「もしもし」
 と、呼んだ。
「何んですえ」
「何っかへ、お出かけですかい」
 庄吉は
(何を、いってやがるんだ)
 と、思った。そして、返事もしないで、歩き出すと
「もしもし一寸」
 大家は、草履を、引っかけて、走り出して来た。そして、庄吉に
「係り合いの人が、勝手に、出歩いちゃあ、私が、迷惑します。御奉行所から、御達しのあるまで、動かないで、いてもらわんと。もし――」
 庄吉が、とんとん歩いて行くので、大家は、こう云って、庄吉の袖を掴んだ。
「何?」
「何、って、困りますよ」
「うるせえや」
 庄吉は、袖を払ったが、臂から下の無い腕では、掴んだ手を、振切ることが、出来なかった。庄吉は、かっとなった。
「放せっ、この、ぼけ茄子《なす》」
「何を」
「何も、くそもあるもんか。この、珍毛唐あ」
「おい、誰か、来てくれえ」
 庄吉の、凄い見幕に、大家は、手を放した。庄吉は、右袖をひらひらさせながら、走り出した。
「仕様《しょ》んねえ、畜生だな」
 大家は、呟いて、引返した。そして、南玉の家の表から
「今のは、誰だえ。師匠」
 南玉は、黙っていた。
「御奉行所から、お達しのあるまで、係り合いの者は、一足も動いちゃならねえと、この長屋の者まで、出ないでいるのに――困るなあ、私だって、忙がしい用事を控えて、そのために、こうして、来ているんだよ。一体、何処の奴だえ、あの野郎は?」
「聞いてみな」
「誰に?」
「あの野郎って野郎に」
「変に、突っかかりなさんな。外のことじゃあねえ。何んなことになるかも知れないよ。大捕物の係り合いだからのう」
「大捕物が、怖くて、高座で、板が叩けるけえ」
「南玉さん」
「今日の南玉は、いつもの、南玉たあ、ちがうぞ」
 大家は、黙って、引返した。
「だんだん人気が、悪くなるよ。喜《よし》さん、近頃は、物騒だねえ。黒船は来るし、変な浪人がうろうろするし――」
 大家は、呟きながら、向う側の家へ入って行った。

  萌出る物

 謹慎の意を表して、二尺ぐらいの長さの木に、小さく、高崎五郎右衛門の墓、と書いてある、墓標の木が、土の下から
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