へ左手をついて、転ぶのを防ぎながら、四ツ本の顔を見ると狂人のように
「覚えたか」
 と、四ツ本を睨んだ。四ツ本は、脣を噛むと同時に、抜き討ちに、大きく一足踏み込んで、斬り降ろした。七瀬は、首をすくめ、眼を閉じて、右手の刀で、受けようとした。百城が
「待った」
 と、叫んで、手を出して、四ツ本の腕を押えたが、遅かった。刀は、七瀬の腋の下から、胸へかけて、打込んでいた。
「ううっ、わっ」
 と、叫ぶと、七瀬は、刀を落して、両手を広げたが、すぐ、胸のところへ縮めて、顫わせながら、転がってしまった。

  鷹野変

 薄く、低く、土煙を揚《あ》げて、片側並木の、田圃道から、村の中へ、三十人余りの、乗馬《うま》と、徒歩《かち》の人々が、入って来た。
 子供が、家から走って出て、周章てて引込むし、百姓の女は、赤ん坊を背負って、軒下へ立つし、鶏は、馬の脚下から、飛び立って、駈け込んだ。
(久光ではなかろうか)
 と、小太郎は、思った。久しく杜絶《とだ》えていた鷹狩を、久光が、将軍から、鷹匠をかりて、試みるということを聞いていたし、この辺の近くに、お鷹野のあることも、知っていた。
 先に立つ二人の徒歩《かち》のすぐ後に、拳へ、鷹を止めた二人の鷹匠が、裏金の笠に、小紋の鷹野支度をして、馬上で、つづいていた。そして、その後方に、久光が、同じ姿をして、徒歩士《かちざむらい》を、左右――茅葺の屋根、軒下に釣るした、いろいろのもの、道傍へ、軒下へ寄って、小さくなっている百姓などを、微笑で眺めつづけていた。
(久光であろう、きっと――)
 と、小太郎が、百姓家の軒下から、家の横へ入って、近づいて来る人々の顔を、はっきり見ようとすると、先頭の一人の士が、急に走り出して来て、右手へ入ってしまった。
(御場段切《ごばだんぎ》れだ)
 小太郎は、往来へ一足出て、士の入ったところを見て
(そうだ)
 一行は、寺の前で立止まった。久光のほか、悉く馬から降りて、二十人余りの者が、一列に立ち並んだ。胡牀《こしょう》を持っている者。医者らしい坊主頭。槍持。挟箱――そんなものも見えていた。人々が、頭を下げると、久光が、馬をすすめた。二人の鷹匠と、三人の近侍と、それだけになって、近づいて来た。小太郎は、又、隠れた。鷹野へは、多人数で行けぬから、近くへ、供を残しておいて、小人数で行くのが、御場段切れの、法であった。
(久光を討つなら、今だ)
 小太郎は、少し、逆上したように、大きく息をついて、馬の足音の近づくのへ、神経を立てていた。
 朱総《しゅぶさ》と、紫総とを、脚につけた鷹を据えて、鷹匠が、現れると、すぐ、馬が見えて、その金と、朱との、豪華な鞍の上に、久光の、横顔が笑っていた。
(矢張り、そうだ――討つにしても、討たんにしても――いいや、隙があったなら、討つ方がよい――いいや、わしの敵は、牧だ。牧を討って、父の怨みを晴らすまで、なまじのことをしてはならぬ)
 小太郎は、腕組をして、考えていた。
(とにかく、お鷹野のところまで、蹤けて行って――)
 小太郎は、編笠の中から、寺の方を見て、人影の無いのを見定めると、遥かに行く、久光の馬を追って、歩きだした。
(いいや、私の怨みを晴らすよりも、元兇を除くことが、大切ではないか? そうだ)
 小太郎は、心の中で、頷いた。だが、牧のことを考える時のように、憤りが、口惜しさが、湧き立って来なかった。
 牧を討つ、ということは、自分の心の中から押滲んで来る力であったが、久光を討つということは、人から、命ぜられてすることのように思えた。
(矢張り、牧を先に――久光を、後に)
 そう考えたが、お鷹野の方へは、歩いて行っていた。一人の百姓風の男が、腕組をし、頬冠りをして、小太郎の前を、歩いていた。
(見つかったなら、疑われるかもしれん――近寄らない方がいい)
 そうも、思ったし
(顔見知りの者は居ないであろう)
 とも、思った。いつの間にか、久光の姿は、無くなっていた。

 街道の右手に、雑木林の点在している広い原があった。黒い森と、幾段にもなった草原とが、高くなり、低くなりして、遥かまでつづいていた。
 小太郎の前を歩いていた男が、林の中へ入って行って、草の中へしゃがんだ。そして、ちらっと、小太郎の方を見た。
 小太郎は、腕組をして、往来に立ったまま、小さく、黒く、動いて行く、久光の人数を、じっと眺めていた。村の若者、子供などが、口々に語りながら、原へ入る畝道のところまで来て
「あいつ、お鷹野へ、入っとる」
 と、草原の男へいった。所々に、立札が立っていて、原へ入るのを、禁じてあった。男は、子供の言葉が聞えたらしいが、腰から、煙草入を出して、煙管を口にくわえた。小太郎は、子供達が
「あんな遠くへ行っちゃ、見えねえではねえか」
 とか
「詰んないから、戻ろうよ」
 とか、いいつつ、じっと、鷹狩の方を眺めている子供の側に立っていたが、男の顔を見ると
(見覚えのある――)
 と、思った。そして、男の口から出る煙に包まれている眼を、口を、じっと見つめていたが一
(広岡だ)
 胸が、突かれた。
(久光を狙っているのだ。きっと――)
 小太郎は、編笠をきたまま、畝を越えて、草を踏んで、徐《しず》かに、男の方へ近づいた。男は、ゆっくりと、だが、手際よく、煙管を、腰へ差して、立上った。
「仙波じゃ」
 小太郎は、低くいった。
「そうらしいと思うた。人目に立つ」
 と、広岡は、口早にいって、立木の多い、少し、村の方へ引返した窪地のところへ、歩いて行った。小太郎も、村人を警戒しながら、素知らぬ振りをして、ついて行った。子供も、若者も、ちりぢりになって――若者は、畠へ、子供は、走って、遊んでいた。
「討つ所存か」
 小太郎は、編笠をとった。
「その疵は?」
 広岡は、生々しい、小太郎の頸の疵を見ていった。
「叡山で、牧を襲って」
「そうだってのう。大した働きをしたと、聞いたが――」
 広岡は、こういって、久光の方を、ちらっと、振向いてから
「益満が、引受けんで、わしへ廻って来たが、究竟の機じゃ」
「うむ」
「何うして、貴公は、また」
 広岡は、一人の同志の来たことに、嬉しくもあったが
(もし、小太郎の方が、討ったなら、自分の立場が無くなる)
 とも、考えて、こう聞いた。
「つい、ふらふらと――そこで、見たものじゃから」
「討つか?」
「さあ――」
 久光の一行は、鷹を放ったらしく、小さい、黒点が、一直線に、昇って行った。その昇って行く下のところに、白い点が、急速度に閃いていた。黒点が、昇りつめたらしく、ぴたっと止まると、その瞬間、流星の落ちるように、その白い点の方角へ、落ちかかった。それは、正確そのもののように――そして、白点が、上下に、左右に、あわただしく閃く、と見る瞬間、黒と白とは一つになって、一直線に落下して、忽ち、見えなくなってしまった。

 久光の人数が、原の中を、二人の方へ、動き出すと同時に、二人は、草原を出て、村の方へ歩き出した。村への入口に、汚い、小さい地蔵堂があった。破れた扉に、赤い、白い涎《よだれ》かけが、いくつも縛りつけてあったし、堂の中の石地蔵は頭の上にまで、それを乗せていた。
(討つか――討つまいか)
 小太郎には、未だ、決心が、つかなかった。だが、広岡が
「ここより外にはない。ここなら、警固方から見えぬ。あちらからも、判らぬ」
 二人は、地蔵堂の横に立った。そこは、久光からは、堂の蔭になっていたし、警固の者のいる寺からは、百姓家の蔭に――そうして、堂の前は、雑木の林であった。広岡が
「初太刀は、某に――仕損じても、仕損じんでも」
 小太郎は、頷いた。広岡は、往来を覗いて見て
「もう、出て来る頃じゃに」
 と、呟いた。そして、懐中している脇差の鯉口をゆるめて、目釘へ、唾をつけていた。小太郎は
(この男を、犬死さす訳にも行かぬ――いいや、五人に、二人としても、久光と、鷹匠は物の数ではない。さすれば、三人に二人――十中の九まで、仕損じはない――久光は討てる。易々として討てるなら、討って――この場を逃げて、牧をも討つ――そうだ、何う逃げるかが考えるべきところじゃ。要は、逃路、逃げる方法――)
 小太郎が、じっと、地上を眺めていると
「出た」
 と、広岡がいった。小太郎は、一足引いた。久光の一行が、今、二人の立っている畝道から出て来て、近づいて来るのが、頭の中へ、鮮かに描き出された。
 広岡は、ぴたりと、堂の板へ、右手をつけて、その手に、一尺八寸の大脇差を抜いて、持っていた。小太郎は、片膝を、地につけて、広岡の脚下から、頭を下げて、丁度、堂の縁側の下から、往来へ現れて来る、久光の一行の脚を見るように、構えていた。
「未だか」
 広岡が聞いた。
「うむ」
 二人は、少し、顔色を蒼くしていた。
「見えた――松の前――もう二三間」
 そこまでいって、小太郎は立上った。と同時に、鉄蹄の響き、人の足音がして――その瞬間、広岡は、往来へ閃き出ていた。そして
「御家のためにっ」
 と、叫んだ。
 久光は、馬を乗下げようと、馬上で、身体を反らしていた。一人の鷹匠は、馬にぶっつかりながら、周章てて馬の横へ廻った。一人の近侍は、鞘ぐるみ、刀を抜いて――馬上の久光へ斬りかかろうと、片手上段で、飛びかかった広岡の刀を払った。
 小太郎は、久光の顔に、狼狽と、恐怖との歪みを見た。そして、供の三人が
「曲者っ、曲者っ」
 と、叫んだり、一人の鷹匠が
「大変だっ」
 と、叫びながら、走り出したのを見ると
(斬られるな)
 と、思った。だが、三人の近侍は、馬側へ集まって、一人は、素手で
「広岡っ。たわけっ、たわけっ」
 と、狂的に絶叫しながら、広岡へ組みつこうとした。広岡は、初太刀を払われて、二の太刀を――片手突きに突いた。
「誰か」
 と、久光は、絶叫して、鞍の上で、身体を反らせた。馬が、前足をあがいた。久光は、落ちまいと、手綱を引きしめていたが、突いた刀が、帯へ、刀尖が当ると同時に、ぐらっと、大きく揺れた。

 久光は、蒼白になっていた。広岡の刀の、反対側へ飛び降りて、馬を楯にするという寸法よりも、馬を走らせて、逃げようとしていたが、広岡の刀を避けて、身体を反《そ》らしたり、曲げたりしたため、馬が走らなかった。
 広岡は、一人の近侍を組みつかせたまま、素早く、三度目の刀を、振下ろしたが、それは、一人の鞘ぐるみの刀で、受留められてしまった。
「仙波っ」
 広岡は、捻じ倒そうとする近侍の脚がらみに、よろめきながら、こう叫んだ。一人が、広岡の後方から、組みついて、右腕を掴んだ。
「仙波っ」
 広岡が、又、叫んだ。小太郎は、ほんの瞬間に起った刃の閃き、人々の格闘を、自分に関係の無い人々が起したように、眺めていたが、広岡が、つづけざまに、来援を求めた叫びを聞くと
「おお」
 と、答えた。人々は、夢中に、組み合っていたが、久光は、小太郎の返事を聞くと同時に、ちらっと、小太郎を見た。その眼と、小太郎の眼とが、ぶつかった。久光の眼の表情は、怒りと、驚きと、恐れとの混じたものであった。小太郎は、それを見ると同時に、編笠を捨てて、お叩頭をした。
(討つべき人ではない)
 と、感じた。それは、武士としての、本能的な、主君に対する感情であった。
「仙波っ」
 右手の、自由を失った広岡は、三人に組みつかれて、脚をよろめかし、手を振上げ、身体をもがいて、闘っていた。
(不覚だ。ああいう、斬込み方をするなど、何故、近侍を一人倒しておいてから、斬りつけぬ?)
 小太郎は、不用意な襲い方をして、すぐ、自分に、援けを叫んでいる広岡に、憤りたくなった。
 久光は、手綱を捌いて、鞍へ、落ちつくと共に
「手に余らば、斬れ」
 と、云って、馬を走らせて行った。広岡は、それを見もしないで
「何をっ」
 と、叫んだ――そして、その瞬間、四人は、一塊になって、よろよろと、二三尺よろめくと、転んでしまった。広岡は、上からも、下からも、抱き締められて、顔も、身体も見えなかった。
(広岡を助けて逃してやらなくて
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