それまでだと思った。もう、神に祈るだけの余裕も無かった。
眉をしかめ、口を開いて、荒い呼吸をしながら、絶望的な気持で、走った。
(同志は、切腹したが、自分は、こうまでして逃げて、逃げきれずに、泥まみれになって死ぬのか)
と、思うと、自分の身体を、泥の中へ抛げつけたいように感じた。
(神官は、矢張り神官だ。武士とちがって、いざとなると、おくれた振舞をする)
と、思われるのが、口惜しかった。追って来る侍に
(わしは、卑怯で、逃げるのではないぞ)
と、怒鳴りたかった。そして、その侍が、自分の気持さえわかってくれたなら、潔く、首を渡してやってもいい、と思った。だが、そんなことを思いながらも、心の底では
(死んだって、福岡まで)
と、絶叫していた。
「おーい」
少し、後方から、腹に疵を受けた一人の方が、呼んでいた。だが、出雲を迫って来る侍は、答えなかった。ただ、足音だけが、だんだん、近く迫って来ていた。
夜の雪空は、暗い低さで、積った雪あかりに、やっと、道は見えていたが、急な曲り角になると、田圃の中へ、飛び込みそうになっては、危く身を躱して、走らなくてはならなかった。出雲守は、脚が動かなくなるか、呼吸が切れるか、何っちかだ、と思った。そして、走りながら、眼を閉じた時、その急な曲り角へ、又、走りかかっていた。そして、眼を開いた時
(しまった)
と、頭の中を、一掴みにされたように、感じた。走って来た勢いで、もう、踏み止まれなかった。そして、踏み止まれないと同時に、もし踏み止まったなら、追手の手にかかるのが、明らかであった。出雲守は
(しまった)
と、頭の中で、絶望的に叫んだが、その瞬間、身体も、脚も、本能的に、全力を挙げて、前へ飛んでいた。それは、追手から逃げようとする一念が、咄嗟《とっさ》の内に、そうさせたのであった。
がばっ、という音と一緒に、出雲守は、泥田の中へ、前のめりに、両手を突き出して、飛び込んでいた。両脚が、膝のところまで、泥の中へめり込んだ。両手は、前へ延びたまま――泥水を、跳ね上げて、脚と同じように泥の中へ突っ込んだ。顔も、胸も――そして、脚の底は、泥の中へ吸いついて
(逃げなければ――)
と、思っても、動かなかった。出雲守が、落込むと同時に
「あっ」
と、いう叫び声がした。追手は、泥田の間際で、踏み止まろうとしたが、はずみで、片脚を、田の中へ滑り込ませて、身体を反らした途端、泥道へ尻餅をついてしまったのであった。だが、すぐ、起き上って
「待てっ」
と、叫んだ。
出雲守は、右脚を持ち上げると、左脚が少し、泥深く入るし、左脚を持ち上げると、右脚の、にえ込むのに、憤りの涙が、出て来そうになっていたが
「出て来ぬかっ」
と、いう叫びを聞いた瞬間
(ここまでは入って来れまい)
と、判断した。そして、振向いて、闇の中の人影をすかすと、侍は田の傍に突っ立ったままでいた。出雲守は
(助かる――これが、天の与えだ)
と、感じた。同時に、大きく、肩で呼吸をした。そして、田の中を、静かに歩いて行った。
卍《まんじ》地獄
「こちら様に――百城様、又は、牧様と、仰せられます方は、おいでなされましょうか」
七瀬は、四ツ本の邸の、内玄関に立った。取次に出た女中が
「貴女様は?」
「七瀬と申しまする。もし、おいででござりましたなら、お手間は、お取らせ致しませぬ、一寸、お目にかかりたい、と、仰しゃって下さりませ」
女中が、立って行って、暫くすると、足早な、男の足音が、響いて来て、襖の内から、百城が、現れた。
「おお」
百城の微笑した顔へ、七瀬も、軽く笑って、お叩頭をしたが、顔色が、少し変った。
「遠慮なく、お上りなされ」
百城は、薩摩飛白の着流しの上に、四ツ本の物らしい、縮緬の羽織を着ていた。七瀬が上ると
「こちらへ」
と、いって、薄暗い廊下から、茶の間へ案内して行った。茶の間には、さっきの取次に出た女中が、座蒲団を用意していたが、挨拶をして、出て行った。
「ここなら、外へ洩れんでいい――一別以来、お変りもなく」
百城は、手をついた。
「貴下様にもお変りもなく。この間は、途中にて、失礼致しまして――」
七瀬は、敷居際で、お叩頭をした。女中が、茶を持って入って、百城も、すすめるので、座蒲団へ坐ると
「その節、綱手殿のことを、一言」
「はい」
「実は――過ちながら、某が、手にかけたと――まず、同様の仕儀にて、お果てになり申しました」
七瀬は、膝へ手を置いて、少し蒼白めた顔をして、黙っていた。百城も、暫く黙っていたが、俯向いたまま
「その――某の過ちと申すのは――小太郎殿と」
七瀬は、ちらっと、百城を見て、すぐ、眼を伏せた。
「武士の意地として、果合を――」
「小太郎と?」
「いや、某などの及ぶ腕ではなく、不覚を取りましたが、その果合の砌《みぎり》、綱手殿が、二人の中へ、割って入り、止めようとなされたのへ――過ち、と申そうより未熟、不覚、血迷っていたと申しましょうか、打ち込んだ刀が、止まらずに、急所へ斬込み――」
七瀬は、脣を、しっかり引き締めた。
「お詫びの致しようもなき仕儀――お目にかかれる顔もござりませぬが――」
百城は、言葉を切って、俯向いてしまった。
「不躾ながら、あれと、貴下様との間には?」
「契り申しました」
そう云って、百城は、じっと、七瀬を凝視した。
「綱手は、貴下様を、牧仲太郎様の御子息と知って?」
「いいや、お身が御存じなかったように、綱手殿も御存じなく」
「そして――貴下様は、娘を仙波の娘と知って、仙波の斬死を、御存じの上で?」
七瀬も、百城を、正面から、凝視めた。百城は、頷いた。
「何も、かも。然し、七瀬殿、綱手殿への恋は、偽りでござりませぬ」
「百城様、貴下は、こちらへお戻りなされましてから、姿を変えて――つい、この騒ぎの前など、和田様、高木様などの、後方《あと》を、お蹤《つ》けになりました由、真実で、ござりましょうか」
「左様、牧仲太郎の倅として、又斉興公の臣として――」
「よく判りました。それでは、妾から申しまする。逆縁ながら綱手の仇敵へ、斉彬公の御家来として、妾は、お立合を、お願い申します」
七瀬は、懐へ手を入れて、秘めていた脇差を取出した。
「立合とは?」
百城は、ちらっと、脇差を見て、組んでいた腕を解いた。
「果合でござりましょう」
七瀬は、脇差を左手へ置いて
「御当家で、御迷惑ならば、何ちらへでも」
「果合などと――家来の務は務、恋は恋。それは、綱手殿にもよくお話を――」
七瀬は、首を振って
「聞きとうござりませぬ」
と、叫んだ。
「さ、ここでか、外へ出なされますか」
「いや、よく話をして」
「いえ、いえ。殺すか、殺されるか? 仙波八郎太の妻として、夫の同志を売る貴下様を、仮令、殺されようとも、お見逃し申す訳には参りませぬ。さ、お立ちなされませ」
七瀬は、片膝を立てて、脇差を取上げた。
「お待ちなされ。とにかく、話をお聞きの上にて」
「いいえ。妾も、不覚でござりました。百城様とばかり信じて、牧様の御子息とは露知らず――」
と、いうと、七瀬は、夫への申訳の無さ、娘へ、百城の頼もしさを語った手前として、締めつけられるように胸が苦しくなって来た。百城を、牧の倅と知り、百城の忍び姿の噂を聞いた時
(娘に取返しのつかぬことを云った)
と、思ったが、この間、百城が、馬上から、声をかけて行った、綱手に対する一言を、胸が潰れるように聞いた。それは、綱手と別れてから、二人の間のことを心配していたいろいろの想像よりも、もっと、考えられぬ恐ろしい結果であった。そして、いろいろとそのことを考えると、百城を一太刀でも斬って、自分も死ぬ外に、夫への申訳は、立たないと思った。自分だけを殺したのでは、不憫な綱手に対して、あの世で顔を合せられないと考えた。
(あの娘は、契った、敵の倅と――そして、死んだ。苦労をして――殺されて――)
七瀬は、百城と逢った夜から幾夜か、幾度か、綱手のために、泣き明かして
(死んだものは仕方がない。だが、妾は、あの子の魂を慰めてやらなくてはならんし、夫へ申訳もしなくてはならんし――小太郎にも、深雪にも、母の不行届を、詫びなくてはならぬし――」
七瀬の眼は、険しくなってきた。
「尋常に、お立ちなされ、挑まれて立たぬは、御卑怯でござりませぬか」
「まず――」
「いいえ、いいえ。お立ちなされぬなら、そのままに――」
七瀬は、柄へ手をかけた。
「狼藉な」
百城は、聞きわけのない、七瀬の態度――無法な、無謀な――及びもつかぬ女の腕でありながら、刀にかけて、己を通そうとする愚かさに、腹が立ってきた。
(綱手は、満足して死んだに――それが、綱手を慰める母の態度か)
と、思ったが
「綱手は、喜んで死んだ」
とは、初めに、二人を欺いて、素性を隠していた百城として、気が咎めて云えなかったし、云っても、信じてもらえるとは思わなかった。
「さあ」
七瀬は、脇差を抜いた。そして、膝を立てて、立上りかけた。
「何をなさる」
百城は、鞘ぐるみ、脇差を抜取って、片膝を立てて身構えた。
「何をなさる。無法な――思慮の無い」
百城は、片膝立てたままで、低く、叫んだ。七瀬は、立上って、脇差を、突き出して、じりじり迫った。
「卑怯なっ、何故立たぬ」
百城は、大人気なく、女一人ぐらいを対手に、立ちたくなかったが、七瀬は、立ちもしない百城に、女と侮られていることを感じると、だんだん憎しみを深くしながら
(娘を欺し、自分を欺して――顔に似ぬ、図々しい――)
と――そう感じて来ると、気が苛立って来た。
「立てっ」
七瀬が、こう叫んだ時、廊下に足音がして、女中が近づいて来た。
「今、入ってはならぬ」
百城は、この場を人に見せて、邸を騒がしたくはなかった。それから、綱手への志としても、七瀬を殺したくなかった。押えて、よく訳をいえば、判ると、考えていた。
「娘の敵《かたき》」
七瀬は、近づいたが、踏み込みもしないで、斬りつけた。百城は、自分の好意を無にして、女中の耳へ十分入るように、そんなことを叫んだ七瀬へ、怒りが湧いてきた。躱して立上った。そして、鞘ぐるみの脇差を突き出して
「この家の主人に聞えたなら、縄目の恥を見ますぞ。はしたない」
廊下から
「百城様」
と、女中が呼んだ。その途端
「えいっ」
七瀬が、再び斬りつけた。百城が、払った。かんと、強い響きがして、七瀬の左手が、刀の柄から離れた。七瀬は、蒼白になって、ヒステリカルな眼を光らせて
「おのれ――よくも、娘を――」
七瀬は、二度の失敗に、取乱しかけてきた。及ばぬ腕だと、知ると、一太刀も斬らないで、自殺しなくてはならぬ口惜しさに、脣も、身体も、拳も、脚も、わなわな顫え出してきた。廊下に人の走って来る音がした。と同時に、七瀬は、両手に力を込めて、斬りつけた。躱した。畳みかけた。躱した。百城は、足も動かさずに、巧みに、上半身を躱していたが、七瀬は、足許を乱して、百城の躱す巧みさと、自分の刀の短さとに、苛立ちながら、身体を浮かして、次の刀を、手いっぱいに――腰までも延し切って、斬りつけた途端――さっと、百城の身体が、沈むと、右手の鞘が、七瀬の両腕の下を、払い上げた。襖が開いて
「何事じゃ」
四ツ本が、刀を持って入って来た。そして
「無礼者っ」
と、叫んだ。七瀬は、腕を打たれて刀を取落そうとして、刀の方へ気をとられた隙、百城は、左手で、七瀬の肱を掴んだ。七瀬は、もがきながら
「放せっ」
と、髪を乱して叫んだ。
「この、たわけ者がっ」
四ツ本が、七瀬の腰を蹴ると、同時に、肩を力任せに突飛ばした。七瀬は、裾を乱して、倒れかけたが――百城の手が、肱から離れた刹那、力任せに、刀を振廻した。その刀尖が、四ツ本の頬から鼻へかけて掠めた。すっと、薄赤い線が、滲み出ると、忽ち、血の粒が、湧き上って来た。それを、ちらっと見ながら、七瀬は、倒れまいと、片膝をついたが、それでも支えきれずに、倒れかけて、畳
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