書院に待たせてある親族、朋輩、隣家の人達の、咳だの、話声だのが、微かに聞えて来るようであった。
「うむ」
五郎右衛門は、妻へ頷いてから、左太郎へ、手を出して
「坊」
と、いうと、左太郎も、すぐ手を出して、抱かれようとした。
「何が嬉しい? うむ、さあ、抱いてやろう、さあ」
父の胸に掴みかかるように、母を蹴り、身体を延して飛びついて行く左太郎の勢いに、女房は、よろめきながら
「しっかりと――抱いておもらい。これが――これが、今生《こんじょう》での――」
と、いうと、涙で、途切れてしまった。召使の老女が
「奥様」
と、いったきり、畳の上へ、泣き伏してしまった。五郎右衛門は、子供の笑顔に、自分も、笑顔を、突きつけて
「お母様を、大切にして、えらい者になるのじゃぞ」
左太郎は、そういっている、父の、頬を掴んで
「とと、ああん」
と、叫びながら、身体を反らせた。それは、外へ出よう、という、いつもの、合図であった。
「今日は、馬には、乗れん。もう、暗いからの」
左太郎は、身体を反らして
「とと、馬」
母親は、袖を顔へ当てていた。
「さあ、遅うなるから――」
と、左太郎を、母親に渡そうとすると、左太郎は、身体をもがいて、泣顔になった。そして、母親に抱かれると、足で母の腹を蹴って、泣き出した。
「乳でも、飲ませてやれ」
「はい」
「泣くのではない。不覚者っ、何が悲しい」
「旦那様――この、お坊さまを、遠島になどと――」
と、老女が、おろおろした声で、二人の間へ、顔を出した。
「お前も、よく勤めてくれた。後のことは、親族共が取計らってくれるから、心配致すな」
「いいえ、妾は――妾は、お坊様のお供をして、何処までも参りますから――決して、御――御心配の――」
と、まで云って、又、泣き伏した。左太郎は、母親に、乳房を、押しつけられて、暫く、乳を呑んでいたが、眼を閉じたかと思うと、もう眠入《ねい》るらしく、時々しか、乳房をふくんでいる口を動かさなくなった。
「坊や、坊や、お父様の死目に――」
と、云って、母親は、子供の背へ顔を押しつけて泣き入った。五郎右衛門は、じっと、子供の寝顔を眺めていたが、眼瞼に、涙が、滲み上ってきた。
「余り、同志の者に、遅れてもならぬ。それでは、御一同」
と、云って、山田一郎右衛門は、立上った。白無垢の着物に、白の麻|上下《がみしも》をつけ、左手に、愛蔵の鎧通《よろいどおし》を握っていた。
一郎右衛門が、人々の間を歩き出すと同時に、襖が開いて、次の間が見えた。金屏風を立て、畳を二畳裏返した上に、蒲団を敷き、その上に、舶来の毛氈と、その上を蓋《おお》うて白布とが敷かれてあった。
一郎右衛門が、その上に坐ると、人々は、上席の人から、立上って、次々に、その部屋へ入って、一郎右衛門の座の三方へ坐った。入りきらない人々は、次の間だの、廊下だのへ坐って、心もち、顔を蒼くしながら
(ああして物を云っている人が、今少しの後に死ぬ。そんなことがあろうか)
と、いうような――必ず来る運命ではあるが、来るまで感じることのできない――何かしら、不安なものに心の底を痛くしながら、ただ、不思議な、苛立たしさと、少しの腹立たしさとを感じるだけで、何んの悲しみもなく、じっと、一郎右衛門を、見守っていた。
一郎右衛門は、静かに、立昇る香の煙が、天井へまでも、消えないで、昇って行くのを、じっと、眺めていたが、机の上の短冊をとって、歌を書きつけた。そして
「辞世」
と、云った。人々は、一斉に、頭を下げて、聞き入った。
[#ここから3字下げ]
白雪と消えてゆく身にも思ふぞよ
曇らぬ空の月の晴れよと
[#ここで字下げ終わり]
二度、繰返して
「御一同、さらば」
と、云った。人々は、微かに、肌を顫わせながら、軽い恐怖と、好奇心とに、身体を固くして、じっと、見つめていた。一郎右衛門は、肩衣を脱いで、袴を、ぐっと下へ押し下げた。そして、暫く、左の手で腹《なか》をもんでいたが、膝の前の、鎧通を取って、鞘を払った。人々が、時々、軽い咳をするだけで、何んの物音もしなかった。
一郎右衛門は、鎧通を、白い布で捲いて、三寸程|刀尖《きっさき》を出した。そして、左の腕を捲って、二の腕を、軽く一寸程切った。顔は、すっかり、蒼白になっていて、手が微かに、顫えていた。一郎右衛門は、布で血を拭いて、袖をおろすと、左手で、又、腹を撫でた。
暫く、そうしてから、腹のたるんでいる皮を、左手《ゆんで》へ、ぐっと、引寄せると同時に、刀尖を、その指の際へ当てて、肩で、大きい呼吸をした。一郎右衛門の眼も、一座の人々の眼も、異様に、光ってきた。
左手の指先で、刀尖を、ここと思うところへ当てて、一郎右衛門は、眼を閉じた。唾をのんだ。又、大きい呼吸をした。そして、人々が、同じように、溜息をした時
「うむ」
と、低く、声をかけると、右手を押した。その瞬間、ぐっと、口が引締って、眉が、歪んだ。額に、冷汗らしく、きらきらと、浮き出してきた。
一郎右衛門は、眉に、眼に、口に力を入れながら、刃が、一寸余り入ると、張切っている皮を、左から右へ――拳が、目に立って震えてきた。
(失敗《しくじ》らぬよう)
と、人々は、念じた。そして、自分が、切腹しているのと同じように、額に、腋の下に、冷汗を出して、膝も、身体も、顫わせながら、蒼白になっていた。
一郎右衛門の顔は、灰色に変じた。眼の周囲に、黒い曇りが現れて来た。それは、苦痛と、それから、死の前兆であった。一郎右衛門は、二寸余り切ると、眼を開いて、肩で、大きい呼吸をした。
「なかなか――」
と、一郎右衛門は、歪んだ微笑した。だが、誰もそれに答えて、笑いもしなかったし、物もいわなかった。一人の若侍は、眼球を剥《む》き出して、乗り出すようにしながら、手許を見つめていた。一人は、脣を噛んでいたし、ある人は、俯向いて、時々、ちらちらとしか見なかった。
切口の上と下とに、微かな血が滲み出して来て、細く、肌を伝いかけた。一郎右衛門は、眼を閉じて、暫く、じっとしていたが
「えいっ」
と、叫んで――人々が、その叫び声に、ぐっと、胃の腑を、突かれた時、力任せに、右手へ、掻切ってしまった。と同時に、刀を突き立てたまま右手《めて》をがくがく震わせ、左手を、蒲団の上へ突いて、俯向きながら、髪の毛を、びりびり震わしていた。人々は、固唾を飲んだ。
切口は、五分余りも、口を開けて、血に染んだ白い脂肪が、厚い層を現していた。そして、その分厚な脂肪の下から、灰色の大腸が、ちらっと、見えていたが、一郎右衛門が、苦痛に、呼吸を大きくし、身体中に、力を入れると同時に、それが、ぐっと食《は》み出して来た。そして、呼吸をするたびに、少しずつ、押し出されて来て、一管が、切口から食み出すと同時に、すぐ、そのつづきが、だらだらと出て、切口から垂れ下った。
一郎右衛門は、俯向いて、手をついたまま、肩で呼吸をしているだけであった。
「山田殿っ」
一人が、叫んだ。返事をしなかった。
「介錯《かいしゃく》を――」
一郎右衛門は、首を振った。そして、ついていた手を、膝の上へ上げて、右手の刀を、抜いた。そして、顔を上げようとしたが、暫く、じっと――それは、残りの力を集めて、頸を掻切るためでもあったし、苦痛を耐える最後の努力でもあった。
そして、左手で、静かに、切口をいじって、食み出している大腸へ触れると、それを切口へ押込もうとした。いつの間にか、分量の多くない血ではあったが、下腹一面が、薄く、血染めになって、帯の辺まで、滲み出していた。
顔を上げた一郎右衛門の表情は死鬼のようであった。眉も、眼も、常とは変ってしまっていたし、その顔色は、暗灰色に変じていた。
一郎右衛門は、右手の鎧通の尖《さき》を、震える手で、膝へ当てて、拭いた。そして、左手を軽く持ち添えると、がくがく震わしながら、右の頸部へ、刀尖を当てた。そうして、大動脈の筋を探していたが、探し当てたらしく、左手で、刀尖を狂わぬよう押しつけて、すぐ、その手を柄頭へ当てて、両手に力を込めた。
「お心、静かに」
と、誰かが、叫んだ。低いが、唱号を称えている声がした。すすり泣きが、聞え出した。微かな声で
「それでは――」
と、云った一郎右衛門は、眼を開いたが、もう、その力さえ十分でなかったし、瞳は開きかけて空虚であったし、すぐ、眼は閉じてしまった。
「うむっ」
呻きとも、叫びともわからぬ声がして、脣を、きつく噛んだ刹那、鎧通が、頸動脈を突き通したらしく、濃い、太い、勢のいい鮮血が、二尺余りも、横ざまに飛んだ。そして、畳の上へ、叩きつけたように散った。頸から、胸へ、血の流れ落ちるのが、人々に見えた刹那、一郎右衛門の身体は、頭から、よろめき出して、崩れるように、右手の前へ、突伏してしまった。
雪空は低く、暗かったが、地上には、雪が薄くつもっていて、人影は、ほのかに判っていた。
井上出雲守は、小脇差を差し、笠と、蓑《みの》とに身体をつつんで、人目につかぬ脇道から、城下を離れるため、急いでいた。
春の雪ではあったが、足は、凍えて、いつの間にか、指の感覚が無くなっていたし、両掛けにしている小さい荷物が、旅慣れない肩には、もう、重くなって来ていた。だが
(福岡へ――)
と、思って、冷える手を懐へ入れたり、擦り合せたりして、街道筋へ出る、曲り角まで来た。そして、街道筋の模様を、暫くうかがってから、林の中を、左の方へ斜めに横切って、街道へ出た。
(同志のために、斉彬公のために、お家のために)
出雲は、時々、後方を振向いたり、前をすかして見たりしながら、小走りに――道端の茶店を通り抜けようとした途端
「待てっ」
暗い油障子の半分開いている中から、一人の侍が出て来た。出雲守は
(しまった)
と、感じた。そして、たたっと退った。それを追い込むように、侍が
「何者だ」
と、手を延して、笠を掴もうとした。障子に鈍い灯がさして、提灯と、もう一人の侍とが出て来た。そして
「判ったか?」
「灯を貸してくれ――」
と、振向いてから、出雲守に
「何れへ参る」
出雲守は、笠へ手をかけて、顔を見ようとするのを、一足退って、避けると同時に、足構えをした。そして、侍が、提灯の方へ、手を出した隙を
「やっ」
右脚で、払った大外刈。全力的に突いた両手の力。
「くそっ」
よろめきながら、手を延して、出雲守の胸を掴もうとする相手の体の崩れに、どっと、体当りをくれると、己も、よろめきながら――だが、提灯を持った侍が
「待てっ」
と、いう叫びを、後に、走り出していた。
「待たぬかっ」
足音が、すぐ迫っていた。出雲守は、脇差の鯉口を切った。そして、迫って来る足音で、その距離を計りながら
(ここを、無事に、逃げられますよう)
と、心の中で、何かに、祈った。そして、時々、ちらっと、振返りながら、幾度か、己の呼吸と、距離とを計ってから
(ここだ)
さっと、左膝を雪の中へ曲げるが早いか、全身の力を右手にこめて、ぴゅーっと、振った片手|薙《なぎ》――
「あっ」
と、低く、短い叫びと同時に、追手は踏み止まって、ぐっと、腹を引いて、刀尖を避けたが、出雲守の掌へは、肉を斬った手答えを感じたし、対手は、刀を抜いたまま、よろめいた。そして
「己っ、手向いを」
と、叫んだ。出雲守は、それを聞きながら、対手が、何うしたか?――倒れたか? 追って来るか? 眼の底に、その、よろめく姿を残したまま、立上ると、走り出していた。前かがみに、笠を押えて、右手に刀を持って、荷物を捨ててしまって――。
だが、突倒された男が、出雲守と同じ速度で起き上って、追って来た。そして、出雲守の抜刀したのを見ると、走りながら、刀を抜いて
「卑怯者っ」
と、叫んだ。神官である井上出雲守は、若侍を対手に、勝てようとは思わなかった。走った。走った。神に祈りながら走った。だが、足音は、だんだん近づいて来た。
出雲守は、追われている鹿の如くに走った。追っつかれたら、
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