は
「後程、ゆっくりと、ちと、取急ぐ御用を達しに参りますゆえ――」
と、歩き出しながら、振向いて、去ろうとした。百城は、手荒く、手綱を引いて、馬の首を、七瀬の方へ向けつつ
「いや――一言」
馬の首を、立直して、小走りに行く七瀬の後方から
「綱手殿が――」
七瀬は、振向いて
「ええ?」
百城は、じっと、七瀬の眼を見つめて、暫く、黙っていたが
「綱手殿のことを、御存じでは?」
「綱手が?」
四ツ本が、遠くで、馬をとめていたが
「牧っ」
と、叫んだ。
「只今」
(牧?)
七瀬は、牧と呼ばれて、何うして、百城が返事をしたのか、判らなかった。
(牧?――もしかしたなら、仲太郎の倅の)
と、思って、不安そうに、百城の眼から、何かを読もうと、見つめていると
「綱手は――」
七瀬は、百城の、いい渋っているのに、腹が立って来た。
「急ぎますゆえ、これにて――」
と、お叩頭をして
「川上矢五太夫様の許におりますから」
と、いいすてて歩きかけると
「綱手殿は、お果てになりましたぞ――」
百城の言葉は、かすれていた。七瀬が、顔色を変えて、振向くと、百城が、赤い顔をして
「許して下され」
と、低く叫んで、馬の首へ、俯向きながら、手綱を引き、足で蹴って、急いで、馬を返しかけた。
「綱手が」
と、七瀬は叫んだ。百城は、俯向いて
「拙者の手にかかって――」
と、いいながら、向き直った馬に角《かく》を入れた。
「綱手は――死にましたか?――百城様」
七瀬は、こう叫んで、二三歩、馬の方へ馳せ寄ったが、馬は、走り出していた。七瀬は、暫く、じっと立っていたが、すぐ、国分の家の方へ走り出した。蒼白な顔になってしまっていた。
川上、川北の二人の、硬直な裁許掛が、伊集院平の命令を聞かなかったので、同じ掛の三原喜之助の手から、処分の伝達が、斉彬派の人々の許へなされた。
お由羅派の人々は、そうした処分が行われると知って、喜んだり、眉をひそめたりしていたが、それでも、万一のことを考えて、邸の周囲を見廻ったり、隣りの斉彬派の人の行動をうかがったりした。そして、じっと、静かに、耳を立て、眼を見張っていた。
だが、斉彬派の人々は、そうしておれなかった。馬が走ったし、提灯が飛んだし、若侍が、若党が、小者が――女まで、険しい眼をし、呼吸をはずませて、走った。
近しい朋輩、親族の人々は、そうした知らせを聞くと共に、馬上で、徒歩で、処分を受けた人々のところへ、駈け集まって来た。そして、門を閉じ、警戒を厳重にして、書院で、凝議した。
「わしは、評定所へ出る。そして、争う。それは――」
近藤隆左衛門は、人々を前にして、いくらか、興奮しながら
「――わしは、命を惜しむからではない。評定所にも、人間らしい、武士らしい者が、未だ、一人や、二人は、残っていると、思うからだ。その者共に、こうした違法の断罪手続きを詰《なじ》り、それから、わしらの心事を、知らせたいのだ。評定所に召出す、ということが、切腹しろ、との、謎であることくらいは、よく心得ているが、このまま、黙って腹を切りたくはない。いうべきことをいいたい――いっても無駄かもしれぬ、いや、無駄にちがいあるまいが、わしは、最期の間際まで、斉彬公のために、又、お家のために、少しでも、尽したい。できるなら、大殿の前で、舌を抜かれるまで、その御処置――わしへの処置ではないぞ、斉彬公への処置じゃ、その、処置方を諫めて、そして、死にたい」
隆左衛門は、少し、顔を赤くしながら、膝の上へ、手をつき、肱を張って
「そうでないか」
「御尤もと心得ます」
と、一人が、俯向いている一座の人々の中から、顔を上げていった。
「わしには、石田三成が、刑場へ引かれる道で、柿は、痰《たん》の毒だ、といった心懸が、よくわかる。今死罪になる者として、痰の毒でも、ないではないか――と、これは、三成の心を知らぬ者の言じゃ。忠義の者は、最後まで、命を惜しんで、そのあらんかぎりで、忠を尽そうとする。判ってくれるか?」
誰も、口で答えなかった。だが、一斉に頷いた。廊下を轟かして、本田孫右衛門と郷田忠兵衛とが入って来た。人々は二人へ目礼をした。
「覚悟はできておるか?」
郷田は、近藤よりも、齢が上であったし、席も上であった。
「申すまでもないが、今夜は切らん」
「何故、切らん」
「お達し通りに、評定所へ出て、お由羅派の徒輩に、一言云いたい」
「無駄じゃ」
「無駄ではない」
隆左衛門が、眼を険しくした時、本田が
「今、川北に逢って参ったが、話の外の沙汰じゃ。そりゃ、評定所で、争うのも――」
「争うのではない。申し聞かしてやるのじゃ」
「それでもよいが、四ツ本一人を対手にするようなものじゃ。川北も、川上も、この伝達を拒んだがため、評定所へは出ん。獣を対手に、しゃべり立てて見たところで、始まらんではないか、近藤」
「四ツ本一人?」
近藤は、睨みつけるように、本田を見た。
「彼奴を、人間と思うか? 申し残すことがあれば、ここに集まっておる者に申せ」
「そうじゃ」
と、郷田も、頷いた。
「倅までが、遠島か」
高崎五郎右衛門は、左手で、火箸を握って、灰の中へ突き立てながら、女房を見て、静かに云った。幼い左太郎(後の、高崎正風)は、父母や、自分の運命も知らないで、いつものように、あやしてくれぬ二人へ、笑顔を向けたり、手を出したり、足をもがいたりして、催促していた。
「井上出雲守様が――」
と、廊下から、つつましく、取次が云った。
「お通し申せ」
そう云って、涙に濡れている妻の眼を見ると、妻は急いで、眼を拭って
「この子は、何う致しましたら」
夫の眼へ哀憐を乞うように
「田舎へでも――」
と、までは、云ったが
(逃しましょうか)
と、口先まで出ていた言葉は、殺してしまった。だが、五郎右衛門は、それを察していて、言下に
「ならぬ」
と、云った。足音が、あわただしくして、出雲守が、引締った表情をして入って来た。
「意外なことが――」
「今更、何んとも致し方がない。それに就て、貴公に頼んでおきたいことがある」
出雲守は、女の出した座蒲団を敷いて
「微少ながら、何んなりとも、頼まれ申そう」
「事が、事じゃで、このままで、止むべきではない。直ちに、残りの同志を集めて、再挙して頂きたいが――」
「勿論のこと――」
左太郎は、見知らぬ人を見ても、快活に、手を握り、足を踏んで、嬉々としていた。女房は、客の前で、涙を出すまいとしながら、今宵の内に、死ななくてはならぬ夫のことと、遠島に処せられる、幼い子のことを考えて、出すまいとして出て来る涙を、袖で拭っていた。
「座を設けて、支度をしておけ」
五郎右衛門は、その女房に、叱るように己の切腹の座の指図をした。
「はい」
女は、出雲守に礼をして、立って行こうと、左太郎を抱き上げると、ああ、と叫んで、父親の方を向いた。それは、父と、自分との運命を知っていて、別れを惜しむように思えた。
「ああ」
五郎右衛門は、笑顔を子供に向けて、同じように、答えた。子供は、母の手の中から抜け出そうとして、もがきながら、母と一緒に出て行った。五郎右衛門は、暫く、それを見送ってから
「わしは、命は、かねてより、無きものとしておるが、今度の処置は、余りにも、無残すぎる。あれを遠島に処すなど、鬼畜の業ではないか」
「あれとは、奥をか」
「いいや、左太郎を――」
「子供を――」
出雲守は、そう云ったまま、黙ってしまった。
「今度の処置は、これのみではなく、次々に同志の上へ、加わって来るであろう。それを防ぐには――大殿の、君側の奸より出る指図ゆえ、防ぎようはないが、大殿を隠居おさせ申して、斉彬公を世に出すこと、これが第一。それから、福岡の黒田美濃守に、お縋り申すことが第二――」
五郎右衛門は、今宵限りの命の人とも見えぬ落ちつきを以て、静かに語り出した。
「それから――御老中は、斉彬殿贔屓であるし、閣議に於ても、最早、家督のことは、時日だけのことと決定してもおるし、御老中に、お縋り致すのも、有力な方法であろう。それに、悪逆の徒の、彼の牧仲太郎は、是非とも、討取らねばならぬ。彼の者の、祈祷の効験の有無はとにかく、世子を呪うておる、その一条のみにても、打ち捨てておく訳には行かぬ」
出雲守は、腕を組んで、黙々として、聞いていた。主人の切腹の座を設けている邸の人々は、すすり泣いたり、囁き合ったりしていたが、その悲しい、人を押しつけるような空気が、邸中いっぱいに拡がっていて、二人の耳にも、入って来た。
「もし――有力な同志が出来たなら、最後の手段として、久光殿と、由羅を討つ。或いは、何れか一人を――平、将曹の如き、その罪は憎むべしと雖も、末輩にすぎぬ」
出雲守は、死んで行く人の云うことを、そのままに聞き入れて、快く自裁させようと、何んの、自分の意見も云わないで、頷いていた。
「それから――恐らく、わしらの志は、軽輩が継いでくれよう。見渡したところ、家中に於て、相当の位置におるもので、斉彬公に、お味方しておる者は、僅かであるが、軽輩中の、頼もしい者、伊地知、西郷、大久保、樺山等は、悉く斉彬公に、心服しておる。わしは、この若者の前途を考えると、必ずや、わが党の勝利になると思うて、安心できる。のう、出雲守、そうではないか」
五郎右衛門が、こういい終った時
「出雲守様へ申し上げます」
と、襖の外から、一人が
「ただ今、川上様から、お使が参りまして、お目にかかりたいと――」
「用向きは!」
「是非、直々にと、申されておりますが」
出雲守が
「暫時」
と、いって、立上って、出て行った。
五郎右衛門が
「座は、出来たか」
と、大きい声で聞いた。
「はい」
「銘々《めいめい》、見苦しい振舞をしたり、騒いだり、泣いたりしてはならんぞ。よく、申し伝えておけ」
「かしこまりましてござります」
人気が無くなると、五郎右衛門は、じっと、考え込んだ。出雲守が、足早に入って来て
「わしにも、手が、廻って来たらしい。今、川上から、内所《ないしょ》で知らせて来てくれたが――わしは、出奔しよう。ここにおっては、危いかもしれん」
「そうだ、出雲。逃げてくれ。同志が、悉く死んでもならん。逃げられる者は逃げて、再挙を計ってくれ」
「聞いたことは、よく合点した。わしは、これから、山田殿の許へ参り、その足で国越え致そう」
「うむ、そうしてくれ。頼んだぞ、出雲」
出雲は、頷いた。
「別れの盃を交したいが、急ぐゆえ――」
出雲守は立上った。
「これで、お別れじゃ。無事に、働いてくれ。わしの分もな」
「最期も見届けないが、許してくれ」
「いいや、急ぐがよい」
五郎右衛門は、出雲を見送るために立上った。
「長い間、交際《つきあ》ったのう。三十幾年――」
「はははは。もう、死んでも、未練のない齢じゃ。腹に皺の寄らぬうちに死ぬのも、武士らしゅうてよい」
二人は、話しながら、玄関へ出た。出雲守が、供が草履を持って来るのを、待っていると
「辞世じゃ
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思ふことまだ及ばぬに消ゆるとも
心ばかりは今朝の白雪
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出雲、桜時じゃに、雪がちらちらして参った。天にも異変があると見えるのう」
出雲は、空を見上げた。いつの間にか真暗な夜空から、ちらちら、春の雪が、落ちて来ていた。
蒲団を、二つに折って、白い布に包んだのが、部屋の真中に置いてあった。そして、それを、半ば屏風で囲い、その前には、経机があった。その上には、線香の立った香炉と短冊と、硯函とが、置いてあった。五郎右衛門は、それを見廻してから、茶の間の襖を開けた。
そこの正面にある仏壇には、灯がまたたいていて、その前に、古くからいる召使が、泣き倒れていた。五郎右衛門は、ちらっと、それを見たまま、出ようとすると、左太郎を晴着に着替えさせた妻が、眼を赤くして、入って来た。
「未だ、時刻には大分間があろう」
と、云うと
「はい――皆様が、お待ちかねで、ございますから――」
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