いた。道は、一筋だけであった。
「灯が、動かん」
 大久保は、こういって
(もしかしたなら、お由羅派の細作共ではないかしら)
 と、思ったが、西郷吉之助は、返事もしないで、前方を急いでいた。大久保は、すぐ、走って追いついた。
「和田の家の前じゃ」
 大久保は、こういって
「廻り道をしようか」
「俺はせん。何が怖い?」
 灯は、横目付、和田八之進の邸の前で、八之進は、由羅派の人であった。その灯の中に、二人の人影が、動いていた。そして、二人の足音が近づくと、提灯が上ったし、二人の侍が、こっちを、じっと眺めていた。
「見張じゃ、西郷」
「うん」
 と、いった時、邸の軒下に、まだ人がいたらしく、道の真中へ、三人の影が立って
「止まれ」
 と、叫んだ。そして、三人の方から、近づいて来た。
「面倒らしいぞ」
 大久保が、こういった時、提灯の灯で、二人を照らしながら
「何処へ行く」
 と、咎めた。大久保が
「貴公達何んじゃ」
「何?」
「夜、歩くと咎めるという布令は、いつ頃から出た」
「何を申す。軽輩の分際で、布令が無くとも、役の表によって調べる。姓名を申せ」
「役の表?――何役じゃ。誰じゃ?」
「名乗らぬか」
 一人が、正面から、大久保を睨みつけた。提灯を持った小者が、西郷が、側で笑っているのを見て
「姓名は?」
 と、聞いた。
「はははは」
 大久保を睨んでいた侍が、その笑い声を聞いて、西郷を、ちらっと、睨んだが
「何が可笑しい」
「あはははは」
 侍は、大久保に
「名乗らんか」
「その邸は、横目付和田殿の邸でござろう」
「そうじゃ」
「和田殿に、横目付が、いつから、奉行の下職を請合いなされたかと、聞いて参れ。その返事によって名乗ろう。役目の表などと、貴公、奉行所の者か?」
「何?」
「役目が相違しておろう。それとも、企むところがあっての、偽りか? まず、貴公の姓名を聞こう。その上にて、不審があれば、奉行所へ同道致そう」
 侍は、黙った。
「一蔵、もうええ」
 と、西郷がいった。そして
「女郎買いの戻りじゃで、内分に、内分に」
 と、いって、歩き出した。侍は、二人を、睨みつけたまま、じっと、立っていた。

 祇園橋を渡って、磯浜の方へ――右手は低い土堤《どて》であった。その土堤続きの柵の中に、大砲と、弾薬とがあった。高木と、和田とは、その土堤に沿うて、歩いていた。和田が
「油断は、ならんぞ」
「うむ。然し、もし、洩れてでも居たなら、郷田から、今朝の内に、何んとか知らして来る筈だ」
 二人は、暮れかかろうとする、淋しい道を、急いでいた。雲は、落陽《ゆうひ》で、上を真赤に、下を、どす黒く、不気味に、染めていた。桜島は、すっかり暮れたらしく、暗い色をしていた。
 土堤沿いに行って、角を曲ると、すぐ松の木の間に、黒い門と、黒い柵とが、見えた。そこが、入口であった。二人が、門の右手の、くぐり戸を押すと
「誰だ」
 と、中から咎めた。和田が、一足引いて、柵の間から、顔を見たが、知らぬ士であった。高木は、押しても開かないくぐりを、叩いて
「郷田はおるか?」
「ああ、今、開ける」
 鍵の音がして、内部から、くぐりが開いた。二人が頭を低くして入ると、側の小屋の中にも、見慣れない士が三人土間にいて、二人が入って来ると、急に話をやめた。
「何処にいる?」
「案内仕ります」
 二人の士が、先にたった。轍《わだち》の跡が入り乱れている道であった。その小さい原を横切って行く行手に、もう一つ木柵が引廻されていて、その中に、詰所と、白い庫《くら》とが、並んでいた。
「暫く――」
 と、云って、案内の士が、先へ走って行った。二人は、ゆるゆる歩きながら
「ああいう下々の奴はいいかしら。郷田一人が呑込んでおっても、一人では、大砲は運べまいし――」
「それは、郷田の指図一つで、何うにでもなろう」
 と、云った時、木柵のところから
「こちらへ」
 と、叫んで、一人の士が、手招きした。二人は、急いで近づいた。粗末な、黒い板の、扉のところに、二三人の士が立っていた。柵の中には、提灯の灯が、うろうろしていた。
 和田が、人々へ、軽く、頭を下げて、その門のくぐりへ頭を入れると同時に
「何するっ」
 と、叫んだ。そして、右手で、柱を掴んで、身体を引こうとしたが、二三本の手が、和田の肩へ、帯へかかった。和田は
「高木、逃げろ」
 と、叫びつつ、中へ、引き摺り込まれて行った。和田が
「何をするっ」
 と、叫んだ、瞬間、門の前に立って、じっと二人を眺めていた三人の士が、高木の首へ、手へ、飛びかかった。
「何をっ」
 高木は、真赤な顔になって
(露見したな)
 と、思いながら、一人の士の胸を、左手の肱で、突き上げざま、前の一人へ、頭突をくれて、後方から組もうとするのを、素早く、身体を、ちぢめて、右手へ抜けた。そして
「和田っ」
 と、叫んだ。それは、丁度、和田が
「高木、逃げろ」
 と、叫んだのと、同時であった。
「手向いするかっ」
 一人が、腕捲りした。一人は、柄へ手をかけた。三人とも、高木の腕に、一寸、恐れながら、それでも、隙を窺っていた。

 和田は、頭の毛を掴まれた。その掴んでいる手を、掴み返しながら
「これが――」
 と、云った時、一人の手が、自分の腰から、刀を抜き取ろうとしているのを、腰に、感じた。和田は、柱を掴んでいた手を放して、刀を握りながら
「士を召捕る作法かっ」
 と、叫んだ時、五六人もの手が、肩へ、襟へ、腰へ集まって来て、門の中へ、引き摺り込んでしまった。
「高木、逃げろっ」
「黙れっ」
 びしっと、頬に音立てて、熱さを感じた。
「無礼者」
 和田は、激怒に、狂人の如く、昂奮して、動かない両手を、力任せに振ろうとした。その手へ、腰へ、細引がかかったらしく、肌が、肉が、きりっと、痛んだ。そして、身体が、軽くなったと、感じた時には、両手が動かなくなっていた。肩からも、胴にも、縄がかかっていた。
「不届者が」
 一人の士が、正面から、和田を睨みつけていた。和田が、睨み返すと
「斬るな。手取りに致せっ」
 と、叫んで、その士は、門の方へ、走って行った。和田は、人々に、囲まれたまま、襟を乱して、肩の骨を、乳の上までを、現しながら、突立っていた。
 門から、少し遠いところに、懸声と、足音とが、響いていた。和田が、振向くと、もう暗くて、提灯の灯しか、見えなかった。
「和田っ」
 と、高木が、叫んだ。
「おーいっ」
「無事か」
 と、絶叫した。和田が
「やられた」
 と、叫ぼうとすると、一人が、口を押えた。そして
「黙れっ、喋ってはならん」
 と、云いつつ、両腕を掴んで、奥の方へ引立てた。和田は、烈しく、顔を振って
「やられた」
 と、指の間から、叫んだが、もう、その声は、高木に聞えぬらしく、遥かに、遠いところで、いろんな叫びが、ごっちゃになって、乱れていた。
「郷田は、居ないのか」
 和田は、細引の結び目を、指先で、調べながら聞いた。だが、誰も返事をしなかった。門の外から
「おーい、誰か、二三人来い。早く、早くっ」
 と、叫んだ。
「大丈夫か」
「大丈夫だ。わしと、時田とが、見張っておるから」
 と、いうと同時に、二三人が、走って行ってしまった。
(高木は、暴れているな、暴れても――無益だのに――)
 と、和田は思った。何《ど》っか、引掻かれたのか、撲《ぶ》たれたのか、身体中ひりひりしたり、鈍く痛んだりしてきた。
(昨夜《ゆうべ》、二人をつけて来た奴が、矢張り、話を聞いたのだろう――捕えられたのは、二人だけか、悉く、露見したのか?)
 和田は、悲しさも、憤りも、何もなく、静かに
(外の人は、無事であってくれ。高木も)
 と、心の中で、祈った。刀を抜いているらしく、烈しい、気合が、聞えて来た。

「待てっ。待てと、申すに」
 高木は、じりじり退きつつ、叫んだ。手は刀にかかっていた。三人の対手は、黙って、隙をうかがっていた。
「誰の指図で、何ゆえに召捕るのか? 拙者に、罪があれば、何ゆえ、評定所より――」
「黙れっ、黙れっ」
「何?――訳を明かさずして、盗賊と同じように召捕るからには、捨ておかんぞ。訳を申せ、訳を――訳さえ判らば、召捕らしてもやろう。申せ。申さぬかっ」
 高木の、後方から、走って来る二三人の足音がした。
(門番所の奴だな)
 と、感じると、共に
(後方から、かかられてはいけない)
 と、思った。高木は
「いわぬかっ」
 と、絶叫すると同時に
「ええいっ」
 刀が光った。人々が、さっと、退いた瞬間、左手へ走り出した。
「此奴っ」
 と、一人が、叫んだ。門から、走って来た三人が
「抜いているか」
 と、走りながら叫んで、提灯を、高木の方へ突き出した。
「おおっ」
「高木、手向い致すか、卑怯者っ。申訳あれば、目付の前で申せっ」
 高木の後方から、走りつつ、一人が、叫んだ。高木は、木柵の前まで来ると、向き直って、刀を構えた。
「神妙にせんか」
「何故、士を捕えるに、士の扱いをせん。欺し討をして、どっちが、卑怯だっ。一応の筋道さえ申さず、不意討をして――たわけっ、薩摩隼人は、死んでも、盗賊に等しい縄目にかかると思うか。さ、来いっ、かかって来いっ」
 六人の内、三人は、棒を持っていた。
「かかって来い。うぬら、奸者共の指図を受けて、吾々、正義の士の――」
「何っ、何が、正義だっ。どっちが奸者だ。家を乱そうと、企んで、何が、何が、正義だっ」
 六人の背後に、足音がして、提灯を持った士が近づいた。そして
「抜いたか」
 と、聞いた。
「はい」
「高木」
 その士は、提灯を、高木の方へ突き出した。そして
「四ツ本じゃ。和田が、捕えられたのを見棄てて、一人、逃げる所存か」
 睨みながら、脣へ、微笑を浮べていた。
「逃げる?」
 高木の眼が、きらっと、閃くと
「この、ど狐がっ」
「危いっ」
「おのれっ」
 高木と、四ツ本との間へ、怒声と、棒とが入り乱れて飛んだ。四ツ本は、素早く退いて
「加勢を呼べっ」
 と、叫んだ。一人が、走って行った。高木は、刀を提げたまま、じっと、立っていたが、四ツ本が、人々の背後へ入って、陰険な眼で、睨んでいるのを見ると
「出ろっ、四ツ本、卑怯者っ」
 と、叫んで、刀を振りかざすが早いか、飛びかかった。
「ええいっ、えいっ」
 棒が、肩へ、股へ飛んだ。
「それでも、武士かっ」
 高木は、暗い中へ逃げ去った四ツ本の後姿へ、こう叫ぶと、力任せに、刀を投げつけた。そして、素早く、脇差も投げ出すと
「和田は、何処にいる」
 と、聞いた。
「神妙にしろ」
「同じ家中だ。貴公等を斬ったとて、褒められはせん。和田のところへ、連れて参れ」
 と、云って、突っ立っていた。

「不届者がっ」
 斉興は、脣を、びくびくさせて、斉彬派の人々の姓名を、読んでいた。
「何れも、重い役目で、一藩に、範を垂るべき人間でないか」
「はい」
 伊集院平は、膝へ両手を置いて
「それで、誰々を、如何ように、処分仕りましょうか――」
 と、斉興を見た。
「処分か?」
 斉興は、書面から、眼を放して
「将曹の邸へ、斬込もうとした奴は、誰と、誰とじゃ」
「それは――国分猪十郎、土持岱助らでござります。拙者の邸へは山内作二郎、松元一左衛門。それから、仲吉利の許へは、吉井七之丞、肱岡五郎太、村田平内左衛門等でござります」
「大砲を持出して、豊後の屋敷を撃とうとしたのは?」
「高木市助に、和田仁十郎」
「それを、指図しておるのが、山一に、近藤、高崎か」
「はい」
「そちに任せる。それぞれの罪によって、重くば切腹、軽くて、遠島――」
「はっ」
「然し――」
 斉興は、眼鏡を外して、袖で拭きつつ
「赤山など濫《みだ》りに重罪にしては――家中の者が動揺して、軽輩共が、又、二の舞を起してはならんから――蟄居《ちっきょ》か、謹慎ぐらいにして――」
「はっ」
 斉興は、暫く、考えていたが
「いや、他国へ聞えても面白うない。こっそり、切腹でもさせてしまえ。ここも、江戸表も、ずい分、根深いのじゃから、十分注意をして、手早く
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