暫く、言葉を切ってから、斉興を、じっと見て
「久しい前から、二三、家中の徒輩が、唱えよりました、殿の御隠居――御家督を、斉彬様へ譲らせ申そうという企て――」
「それは、江戸表に於ても、わしが、帰国と一緒に、策動しておる。今、その旨をかいて、江戸から書状が参ったところじゃ。見てみい。何も、わしが、十五歳で家を継いだからとて、斉彬が四十になれば、何うしても家を譲らねばならんという法があるか。石見」
斉興は、手を延して、手紙を受取ろうとした。お由羅が、素早くとって、石見の方へ
「御覧なされませ」
と、押しやった。石見は、膝を進め、身体を延して、手紙を手にとった。そして、裏を返して
「二階堂から――」
と、頷いた。
「阿部が、一もなく、二もなく、斉彬を引出して、異国方の掛にしようと致しておる。それを頼みとして、家中の斉彬派の若造共が、いろいろうごめいておるらしいが――」
石見は、手紙を読みながら
「はい、はい」
と、斉興に返事をして、頷いていた。
「異国との交易を禁じておる幕府が、異国と、交通を始めるなど、いろいろと、浮説の多い時分に、幕府己の威信を、傷つけるものではないか」
と、斉興が、いい終った時、石見は、手紙を巻きながら
「仰せの通り――それから、秋水党の徒輩、もし、殿の御隠退が、のびのびと相成るようなら、何か、過激の手立にて、斉彬様を擁立し――彼奴らの、言葉を借りますると、君側の奸を除く、と申しますが――」
「ま、そんなことを、申しておりますか」
と、お由羅が、云った。石見は、お由羅へ笑いながら
「さしずめ、お部屋は、玉藻前《たまものまえ》と申すところでござるな」
「よし。もそっと、調べてみい。一指でも動かしたなら、その分には捨ておかぬから」
「それで、その、秋水党なる者の面々は――」
「それは、わしも、承知致しておる」
「如何して、御承知で、ござりまするか」
「調所の倅が、そいつらの連名を書いて、大阪で、知らせてくれた。山一、高崎、近藤などであろう」
「はい」
「不敵な奴等め。わしを、何んと心得ておるか」
斉興は、もう、米噛をふくらませていた。
「考えの足りない方達でござりますね」
と、お由羅が、静かに云った。
何んの物音も聞えない、奥まった部屋であった。燭台の灯は、少しも揺れないで、きらきらしていた。その一つの灯の下で、手紙を披《ひろ》げて、読んでいるのは、山田一郎右衛門で、その横で、その前で、腕を組んだり、時々蝋燭の心を切ったり、手紙を覗き込んだり、俯向いたり、眼を閉じて聞き入ったりしている人々は、赤山靱負、高崎五郎右衛門、井上出雲守、吉井七之丞、近藤隆左衛門の人々であった。
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一、笑(調所笑左衛門のこと)吐血の事、方円寺にては無之御座候。全く、胃血之よしに御座候。最早死去の事と相成り可申と存候。一、Joera(お由羅のこと)云々、又井上(出雲守のこと)云々、是又致承知候。此度、三人の切地《きれじ》、さや形ちりめん六尺遣申候。一、二、三。印付け可遣候、折角内密之取計い専一に存申候
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井上出雲守が頷いて
「祈祷に用いる、肌付の品々、確かに入手した」
「次に――
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一つ、先比《さきごろ》遣候修法は、当正月元日よりはじめ申候、不動尊も大慶に存候、両尊共に修法いたし候――
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公も、われわれの申分を聞入れて下された。修法は、迷信じゃと、なかなか、お用いにならなんだが――」
と、山田が、微笑した。そして、猶《なお》、斉彬公からの手紙(この手紙は、村野伝之丞の息村野山人が、秘蔵されています)を、読んで行った。
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一、二(二階堂志津馬のこと)も、去冬より今迄に、金子等も余程つかいこみ、帳面を、仲(仲吉利のこと)へ次渡候事出来兼候よし、其外追々筆紙に難述《のべがたき》様子。しかし、表は、先ず、よろしく相成り候え共、奥の処、甚だ心配に而御座候間、姦女(お由羅のこと)退散之儀、折角工夫、専一に頼入申候
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「そうじゃ」
と、高崎が、叫んだ。人々は、一斉に顔を上げた。
「公も、もう、お判りになったであろう。奥向より、表のことへ喙《くちばし》を入れるは愚か、呪殺まで試みた女を、今日まで生かしておいたのは不思議じゃ。公が、ここまで、お判りなら、論は無い。由羅を斬って、我々が腹をすればよい」
高崎は、顔を赤くして、大声でいった。
「それもよいが」
と、赤山が、口を出した。人々は、黙っていた。赤山は、役は、物頭にすぎなかったが、日置郡、日置郷、八千七百五十四石の一所持の格式者で、城代家老、島津和泉久風の二男であった。
「それもよいが、この春には、福岡(黒田美濃守)も、八戸(南部遠江守)も、中津(奥平大膳太夫)も、宇和島(伊達宗城)と一緒に江戸へ出て、斉興公の隠居を願い出るし、閣老も、肚は、そうときまっているのじゃから、いよいよ斉彬、御家督になってから、一挙にして、奸物共を、殺滅してもおそうは無い。篤之助も、無事に育つようであるし、吾々の企ても、薄々存じているからには、もう此上、そう易々と、不逞の振舞も、しにくかろう。春と申しても、つい、半月か、一月の間じゃで――」
「御尤もでござりまする――それでもう少しにて、終ります故――
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一つ、将(将曹)之、調(調所)より勘弁之よし、尤に候、近(近藤隆左衛門)等の如く悪み候而は不宜《よろしからず》――
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と、まで、読んできた時、襖のところの鈴が、からからと鳴った。吉井が、手を叩いた。
「誰か、参ったかの」
赤山が、襖の方へ、振向くと、襖も開けないで、誰かが
「篤之助様が、又、お亡くなりになりましたぞ。只今、江戸表より、野村喜八郎様、到着なされました」
と、叫んだ。
「亡くなったっ」
井上出雲守が、真赤になって、半分立上りかけて、又坐った。
「入っても宜しゅうござりましょうか。野村氏も、一緒に――」
と、襖の外の若侍が、いった。
「よい」
靱負が答えた。襖が開くと、旅姿のままで、畳敷の廊下の、暗いところへ、野村が、平伏していた。若侍は、人々に、一礼して去ってしまった。
「これへ参れ。真実かっ」
「はっ」
野村は、お叩頭をしてから、膝で歩いて、敷居を入ったところへ坐ると、襖をしめた。そして
「見苦しい姿にて、御無礼仕りまする」
と、人々へ、平伏した。
「呪殺か」
「はっ、そのように、心得まする」
野村は、手をついたままであった。人々は、暫く、沈黙していた。
「赤山殿」
近藤が、呼びかけて、眼が合うと
「春まで、待てませぬな」
「うむ」
「明日にも、手筈通り、取りかかりますか」
人々も、赤山も、頷いた。そして、又、暫く、一座は、黙って考え込んでいた。
「牧は、討てぬか、未だ」
「仙波の倅が、しきりに探しおりますが」
「倅の外に、誰が、討取りに――」
「益満など、とんと、冷淡になりましたとの噂でござりまする」
「益休《ますきゅう》が?」
「玄白斎の弟子など、何を致しているのか、牧一人ぐらいを討つに――」
「行方が判りませぬとのことにて――」
「江戸の奴等は、腑甲斐がない。奸党討伐は、吾々にて致そう」
と、高崎がいった。
「将曹、平、仲等が、殿と共に、帰国中を幸い、お由羅と共に、一挙に討取ろう。そして、久光公へは、誰かが参って、事の次第を、よく申し上げた上にて、お首《しるし》を[#「お首《しるし》を」は底本では「お首《おしるし》を」]頂戴しよう。もう、一時たりとも、猶予ならん」
「そうじゃ、奸者共も、薄々と、吾等の企てを存じておる上は、何をしでかすか計られんから、手筈通りに、豊後の邸は、大砲にて、打っ払い、将曹の邸は、取巻いて、鏖殺《おうさつ》してくれよう。高木市助が、参っておろうが、此奴に、すぐ、大砲の引出し方を命じて、肱岡に、吉井、土持、山内等が将曹へかかる」
高崎は、静かに、だが、決心と憤慨とに充ちた口調で、こういった。
「それでは、至急に、若者達を集めて、手筈の次第を申し聞かそう」
山田が、立上った。
「夜更けゆえ、提灯などつけては、目立っていかん。それを心得て、忍び忍びに、集まって参るよう、申しつけてもらいたい。こちらから参る者も、十分に、気をつけて、察しられぬよう廻るように――」
赤山が、山田へ、注意した。
「十分に――」
と、山田が頷いて、出て行った。
「何んという無残なことを致す輩か」
井上出雲守は、腕組をして、俯向いたまま、呟いた。
「師を呪殺し、主君を呪殺して――」
暫く、誰も、物をいわなかった。赤山が
「野村、疲れておろう。退って、休憩するがよいぞ」
「はっ、お差支えなければ、御役に立てて頂きとう存じまするが」
と、野村は、じっと、赤山を見た。
近藤隆左衛門の邸の、質素な――だが、頑丈な門を出た、和田仁十郎と、高木市助との二人は、足早に、急ぎながら
「こう早う、きまろうとは思わなんだ。先ずもって、目出度かりける次第なり、じゃ」
「うむ」
「大砲庫の鍵は、誰が、あずかっておる」
「郷田じゃ」
「お為派か?」
「うむ」
「弾薬庫は?」
「それを考えておるが――」
「お由羅派か?」
「寺本じゃが、あいつの心底が判らんで――郷田も、この間、話しておったが、何うも、企てを聞かしてええか、悪いか――もし、二人で行って、鍵を渡さぬか、とやこう申せば、打った斬るの外に無いが――上手に、欺したら――」
「斬れ、斬れ」
「うむ。なまじ、不愍《ふびん》をかけて、欺し損じでもすると、面倒じゃで。そうも考えるが、あいつは、子供が多いでのう。倅も女房もよく知っているから、不愍がかかって」
と、云った時、和田が、急に立止まると、後方を振向いた。そして、じっと、闇の中をすかしながら、小声で
「足音がせなんだか?」
と、高木に云った。
「足音?」
高木は、こういって静かに、もと来た方へ歩き出した。風が歩むように、影が歩むように、静かに身構えることのできる鼠のように、その脚は、獲物へ近づく猫のように――音もなく、声もなく、二三間、引返した。
和田は、往来の真中に立ったまま、じっと高木の方を凝視めていた。
「うぬっ」
高木の、呻くような、低い、絶叫が聞えると、大地に足音が、けたたましく響いたし、袴の音が、草履の音が――それから、闇と、融け合いながらも、黒く閃く影があって、高木の手から、逃れたらしく、魔のような早さで、閃いて、消えた。
「高木っ」
和田は、刀を押えて、走り出した。
「高木っ」
「おおっ」
高木の声は、遥かのところから答えた。何者かを追っかけているらしく、二つの足音が、夜更けの、侍町の大地を、微かに、だが、あわただしく、響かせていた。両側の家の中から、犬が吠え出した。二三疋は、和田にも吠えついてきた。
(細作《しのび》かしら?――今の話が聞えたであろうか? もし、聞えたとすれば一党の破滅になる――いいや、聞えても、そこまで判るまい。いいや、聞えはすまい。何んぼう、静かでも、あのくらいでの話が聞えるものなら、その前に、わしの耳に、つけて来ている足音が入る筈だ)
和田は、そうしたことを、頭の中へ、ちらちらさせながら、走った。
「高木っ、大丈夫か?」
「うむ」
と、答えた時の高木の声は、少し離れていたが、すぐ
「逃した」
と、云った声は、和田の前すぐのところから聞えて、闇の中に、高木の黒い影が立っていた。
同じ邸の、裏木戸からも、二人ずつ、三人ずつ、外の様子を透かして見ては、右へ、左へ、時々に出て行った。
「暑い」
甲突《こうとつ》川に沿う道を、それらの中の二人が、小走りに走っていた。二人とも、兵児帯に、裾短い、着流しで、草履ばきであった。
「急ぐと暑くなるもんじゃ」
「少し、歩こうか」
「では、俺だけ、走る」
二人は、喘ぎながら、急いでいたが、一人が、走るのを止めて
「誰か、来よる」
と、呟いた。二人の行く先に、提灯の火が見えて
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