、待味方の陣備えとは、これじゃ、皆の衆。ばらりと振った采配に、ひらりと変る陣備え、変るが早いか、おててこて、猫に、鳶に、河童の屁、いざ来い、来れっ、と待ち受けたりーいっ」
南玉は、顔を赤くし、少し、額に汗を出して、伸び上りながら
「謙信公は、これを見て、やああ、奇怪なり、くそ坊主、いで目に物見せてくれん、ついでに、素っ首土産にしょ、と、抜き放ったる業物は、備前の住人、大兼光、三尺八寸二分二厘、真向、上段、大上段、頭の頭上に振りかざし、当るを幸い、右左、前後左右に、前後、細かに切ったが千六本、細かく突いたがところてん。切られの与三が四十と八ヶ所、弘法大師は八十八ヶ所、斬ったの、突いたの、忽ちに、逃ぐるを追うて、駈込む本陣、徐《しず》かなること林の如く、迅きこと火の如しと、名高い孫子の一本旗。やれ、忝なし、嬉しやな。多年の恨みじゃ、信玄殿、この太刀食って、斃《くた》ばれと、えい、やっ、発止と、打ちおろせえーりー。さ、この勝負、いかがに相成るか、明晩の前講にて――」
南玉は、台へ両手をついて、頭を下げた。
「もっとやれえ」
「謙信が勝だに。知ってるで、俺あ」
「祝儀出すで」
蜜柑が、いくつも、飛んだ。南玉は、笑って、蜜柑を拾いながら、立上ると
「南玉」
(小太郎の声だが)
と、思って、その方を見ると、入口の横の羽目の前に、小太郎が、微笑しながら、立っていた。
「只今、只今っ」
と、周章てて叫んで、南玉は、楽屋へ入っていった。
「明日ありと、思う心の仇桜」
南玉の、大きい声が、段梯子の下でした。
「親爺、いい機嫌になって戻って来たの」
庄吉が、深雪を見て、微笑んだ。
「ほんに――」
深雪も、笑ったとき
「人間の運というものは、不思議、奇手烈、妙ちきりん、庄公、びっくりするな」
足音は、南玉一人でなかった。
「久しく、吃驚というものを食ったことがねえ。食わせてくれ」
と、庄吉が、怒鳴った時、障子が開いた。南玉の後方に、小太郎が立っていた。
「おおっ」
「何うだ、一番、食っただろう」
そういいながら入って来た南玉の後方を見た深雪が
「ああ」
と、叫んで、膝を立てた。
「あの、辻びらを見た時、こつんと、頭へ来たんだ」
南玉が、喋っているうちに、小太郎は、じろっと、庄吉を見て、深雪の側へ坐った。庄吉は、俯向いて
「お久しゅう」
と、挨拶した。小太郎は、それに答えないで
「あらまし、南玉から聞いた」
「仕損じまして、面目次第も、ござりませぬ」
「深雪、父上のことは存じておろうな」
「はい」
「綱手も、死んだぞ」
「あ――ど、どうして?」
「殺された」
「牧に?」
「いいや」
「誰に?」
小太郎は、答えなかった。
「綱手さんも――へえ――小太郎さん、何うして殺されなすったのでげすな」
南玉が、小太郎の顔を覗き込んだ。
「いろいろ訳があった」
小太郎は、こういって、眼へ、袖を当てた深雪へ
「泣くな」
と、叱った。
「はい」
「訳とは?――若旦那」
「綱手に、無理の無いところもある。然し、為すまじきことをした。宿命であろう。殺した者は、牧の倅じゃ」
「ち、畜生っ、矢張り、牧でござんすか。又何うして――その、すまじきこととは?」
「何れ、申す機があろう。深雪、お前も齢頃であるが、男には気をつけい。綱手は、それで、殺されたのじゃぞ。いや、殺されたと申そうより、我身で、我身を殺さねばならんようになったのじゃ」
深雪は、黙って、俯向いていた。膝の上へ、滴《しずく》が時々落ちた。
「奥様は」
「国へ戻ったらしいが――母も、何うなったか――」
四人は、黙って、溜息をついているだけであった。
「庄吉」
「へえ」
「いろいろと、世話になったそうじゃが、礼を申すぞ」
「いいえ」
庄吉は、小太郎へ微笑んだ。
「乗りかけた船でござんして――」
「深雪、江戸へ、わしと一緒に戻れ。南玉と、庄吉とは、如何致す」
庄吉は、左手を懐へ深く突き込んで、俯向いてしまった。
「若旦那――江戸へ戻るのも、よろしゅうございますが、戻ると、深雪さんの身体が、危いのでねえ」
「何う危い」
「小藤次の野郎め、草を分けてでも、探すって惚れ方で、彼方一人なら、益満さんだって、こうして、わざわざ、お国へ送り届けるなんてこたあ、なさいませんが、何んしろ、あいつの後方には、七十七万石ってのが、ついておりましょう。此奴が、何を仕出かすか判らねえので――」
「よし」
小太郎が、鋭く止めた。
「深雪、そち一人、生き残る所存か」
深雪は、涙の目で、小太郎を見て、首を横に振った。
「そうであろうな。では、江戸へ戻れ。益満には、そち如き手足纏《てあしまと》いであろうが、わしは、一人の妹として、生きるも、殺すも、二人っきりじゃ。一家五人の内、二人っきりになったわしらが、こうして逢うて別れては、世上の物笑いになる。又よし、乞食をしても、他人の世話にはなりとうない」
「一寸――ちょ、一寸、若旦那。他人の世話になりとうない、と、仰しゃいましたな」
南玉が、小太郎へ膝を向けた。
「悪気で申したことではないぞ。心苦しいから――」
「それは判っておりますが、この深雪さんが、お由羅邸へ、奉公に上んなすったのも、他人の世話でございますよ。何んなことでも、これから、二人っきりでおやんなせえますか。益満さんも、他人――」
「益満とは――」
「ま、お聞きなせえ。益満さんは、一味だから、朋輩だからと、仰しゃるんでしょうが、それなら、その益満さんの見込んだ、あっしらは、又、味方の、従兄弟《いとこ》味方、な、従兄弟同士ってこのことだ、同じ長屋にいたから味方で、泥溝泥《どぶどろ》長屋にいたから味方でないってこともござんすまい。益満さんが、すっかり、何も、かも打明けて、南玉頼むぞ、庄吉やってくれと、この庄吉なんて、大馬鹿野郎あ、片手斬られてまでの働きでござんすよ」
小太郎は、庄吉の右手を見て
「何うして、斬られた。斬落されているな」
「へえ、調所さんのために、えいっ、ぽろっ。何うせ、若旦那に折られて、使えなくなった腕でござんすから、惜しくはございませんや」
「その時盗んだ書類で、調所の罪が、発覚したんでさあ。それがね、この男が、深雪さんに――てな――つまり、一手柄立てさしたい、盗んだ書類を、深雪さんに渡して、御大老へ駕訴《かごそ》をさせようって、大芝居をするつもりでござんしたがね、益満さんに笑われて、益満さんが、島津の家には傷がつかず、調所だけ死ぬようにと――あの人の智慧は、文殊さまみてえでげすな」
「よく判った。然し、わしは、深雪と、江戸へ戻る。志は受ける。一緒に、戻るなら戻れ。戻るのが不服なら、これは、南玉――わしが悪かろうと、よかろうと、お前方の勝手じゃ。わしは、妹と二人で、牧の行方を探して、討つか、討たれるか、このまま、深雪を、国へ帰すことはできん」
「庄吉、何うする」
「戻るより外に仕方あるめえ」
「時に――若旦那、甚だ、不躾《ぶしつけ》で、叱らんで下せえ。あんた、路銀は?」
「多少、持参しておる」
「牧を探すのに、五年、十年かかっても、大丈夫でげすかい」
「そうはあろう訳がないでないか」
「でげしょうな。庄吉、今度は、お二人のお供だ。乗りかかった船で、一番、牧のところまで、食いつこうじゃねえか。手前だって、このまま別れられねえだろう。若旦那、大船に乗ったつもりでいておくんなせえ。南玉といやあ、天下の講釈師だ。庄吉といやあ、巾着切の名人だ」
「叱《し》っ」
「路銀は、他人様の、懐中《ぽっぽ》に、あずけてあるんだ。のう、庄公、いやあー、目出度《めでて》え、こうなりゃ、意地だあ」
流行物
「南玉が、舞戻って来た」
益満が、立止まって、独り言のように、いった。富士春が、益満を眺めている眼の方を見ると、床屋の、油障子の下に
[#天から3字下げ]久々にて御目通り、桃牛舎南玉
と、書いた、寄席のびらが、貼ってあった。床屋の店先で、将棋をさしていた若い衆が、二人の姿を見て
「ようよう」
と、冷かした。益満は、濃染の手拭で顔をかくし、富士春は、編笠をきて、益満が唄うと、女が弾く、流しの、流行唄《はやりうた》唄いの姿であった。
「堪《こた》えられねえぞ。畜生っ、こう、突いたら何うする」
「あれえー、お父さん、恐いようっ、と、ひらりと躱《かわ》して、角の王手だ」
若い衆は、二人を見たり、盤を見たりしながら、ほのかに、店から流れ出している灯の中に立っている、睦まじそうな二人に
「王手、嬉しい、二人の仲、か――俺《おいら》、癪だから、こう、お城の中へ、お引っこもりだわな」
二人は、店先を離れた。
「庄公も?――」
富士春は、益満の肩のところで、呟くように聞いた。
「さあ――とにかく、寄席へ行けば、判るであろうが――」
[#ここから3字下げ]
南玉、何処へ行く
油買いに、酢買いに
隣りの油は、十文で
横町の油は、七文で
三文、徳しょと、急いだら
横町の、犬の糞、踏んづけた
[#ここで字下げ終わり]
益満は、唄いながら、ずんずん歩いて行った。富士春は、庄吉にも逢いたし、益満と又、いつの間にか、昔のような仲になっていることを、庄吉に知られたくないし――
(庄吉のことを、口へ出したので、休さん、気を悪くしたのではないかしら――)
と、心配しながら、益満の、機嫌をとるように、出鱈目な、その唄と、節とに合せて、三味線を弾きながら、ついて行った。
街は、すっかり暗くなっていたが、寄席へ行くのには、少し早かった。
「女師匠の浮気さは、か。のう、お春」
「ええ?」
富士春は、朗らかな益満の声に、笑顔と、媚とを見せた。
[#ここから3字下げ]
女師匠の浮気さは
水に落した月の影
[#ここで字下げ終わり]
「まあ――それから」
[#ここから3字下げ]
掬めば、止まらず
掬まなけりゃ
つんと、すました、仇姿
[#ここで字下げ終わり]
と、云って、益満は、扇で、富士春の肩を軽く叩いた。
「ま、いやな――」
富士春は、大仰に、そして、媚《なま》めかしく、身体を躱《さ》けて
「撲《なぐ》ったりしてさ」
と、睨んだ時
[#天から3字下げ]ええ、じれったい
益満は、手早く、編笠の上から、又一つ叩いた。
「あれ、又一つ――」
と、云って
益満は、大きい声で、節をつけた。そして、すまして、歩きながら
[#ここから3字下げ]
飛び込みゃ
からんで、命とり
[#ここで字下げ終わり]
「憎い人だねえ」
と、富士春が、うしろから、小走りに、声をかけると、通っていた若い衆が
「えへんっ、えへんっ、だ」
と、富士春と、すれちがいざま、怒鳴って行った。
寄席の裏木戸から
「御免よ」
と、声をかけた。誰もいなかった。汚い入口の右手に、下駄箱があって、正面に、色の褪せた暖簾が、かかっていた。その奥が、楽屋から、すぐ高座らしく、裏木戸を入って、戸口に立つと、南玉の演じている声が、聞えていた。
「去る程に」
とんと、扇が入った。
「一夜明くれば、御正月――には、これあらで、いつなんめり、延元の元年、五月は二十と五日の日。小手をかざして、御陣原――にはこれあらで、兵庫沖、かすむ霞の晴れ間より、ちらりと見ゆる軍船《いくさぶね》。漁《いさり》にかえる海人《あまびと》か、晦日の金か、三日月か、宵にちらりと見たばかり。潮路、はあーるかに、見渡せばあー」
扇が二つ入った。
「取梶、面梶、刀鍛冶。煙波、渺々《びょうびょう》たる海の面、埋まったりや、数万艘、二引両、四目結、左巴《ひだりともえ》に、筋違い、打身に、切疵、肩の凝り、これなん、逆賊尊氏の兵船。えんや、やっこらさっと、漕いできたあ。義貞朝臣、これを見そなわせ給い、いかに、者共、よっく聞け、耳かっぽじって、承われ――」
楽屋から、一人の男が出て来て、益満を見ると
「何んだい、お前さん」
「南玉に、逢いたいが――」
「今、駄目だよ」
そう、ぶっきら棒に云って、横へ入ってしまった。
「かかりけるところに、本間孫四郎重氏、黄瓦毛の太く逞しきに、打乗って、紅下濃《
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