党を立てて、争う機ではござりませぬ。敵は、久光殿でなく、お由羅殿でなく、徳川幕府――」
「益満っ」
名越は、煙管を、畳の上に投げ出して、鋭くいった。
「裏切る所存か」
「議論は、終りまで、お聞き願いとう存じまする」
益満は、身体も、睫毛も、動かさなかった。
左源太は、益満へ、鋭い眼を与えておいて、横を向いてしまった。益満は、ちらっと、それを見たが、平然として
「名越殿」
名越は黙って、益満の方へ振向いたが、顔を見たまま、返事をしなかった。益満は、その顔へ、笑いかけながら
「手前――女を、一人、助けねばならず、家も、国も、天下も――」
「余論を申すな。今の続きを申すがよい」
「これも、その続きの一つでござりまする。女は、常磐津の師匠で、富士春と申し、なかなか、あでやかでござりまするが――」
「それが、天下、国家と、何んの係りがあるのか?」
「酔うて枕す、美人の膝、醒めては握る、天下の権。楚の項羽が、虞美人を抱いて泣き、本朝では、源九郎と、静の故事《ふるごと》など――外に向っては、天下の経綸を論じ、且、行うのは、大丈夫《だいじょうふ》の本懐なり、又、使命でもござりまするが、内へ入って、喃々《なんなん》と、惚れた女の手玉にとられるのも、人間、男女の、生れた時よりの大道で、天下を救うのと、その是非、その大小、必ずしも、痴情を、卑しむことはできませぬ」
「それで――」
左源太は、うるさそうに、冷たく云った。
「それで――案じまするに、物に大小はござりませぬ。女を救うも、久光公を斬るも、徳川幕府を倒すのも、手前にとっては、同じ仕事でござりまして、しかも、これは、同じ時、一緒に、手をつけてもよろしく――久光公への悪逆をのみが、益満の仕事でなく、と申して、女のことばかりでもなく、天下の事のみでもなく、つまり、出でては、天下、入っては女、自由、自在、融通、無礙《むげ》に働きたいと、存じおりまする。従って、浪士と交って、京師へ参ることもござりますれば、女と、遊里に彷徨《さまよ》っておることもござりましょう。益満は、そんな人間だと思召して、万事、お任せ下さるならば、多少の日日《ひにち》はかかりましても、心ず仕遂げて御覧に入れまする」
「左様か――それでは、もう一度、皆の者と、談合してみよう」
「少し、寝言を申しすぎて、御意に逆いましたと見受けまするが、それ程の仕事ならば、某ならずとも、久光公附の、奥小姓一人を味方に引入れさえしますれば、訳のないことでござりまする。例えば、貴船作太郎の如き、仰せつけなさらば、否みは、致しますまい」
「聞いておく。御苦労であった」
左源太は、不機嫌であった。
「手前、近頃考えまするに、善悪不二、大道無門」
「そういう講釈は後日、ゆるりと聞こう」
左源太は、怒ったように、さっと、立上った。そして
「御暇申しまする」
と、挨拶をした益満を残しておいて、手荒く、襖を開けて、出て行ってしまった。益満は、微笑して
「一間の内に、入りにけり。ででん、でん。あとには、独り、益満が、でん――」
口の中で、義太夫節を、唄いながら、立上った。そして、次の間の、襖際へ置いてあった脇差を、左手に提げて、廊下に出た。
「卿等、碌々人に拠って事をなすの徒。燕雀《えんじゃく》、何《いずく》んぞ、大鵬の志を知らんや、か――吾に、洛陽|負廓田《ふかくでん》二|頃《けい》有らしめば、豈《あに》よく六国の相印を佩《お》びんや、か」
と、小さい声で、いいつつ、玄関へ出て来ると、玄関脇の、番部屋の襖が開いて、二三人が、外へ出ようとした。そして、益満を見ると
「待てっ、益満」
と、低く、叫んだ。
「話がある。入れ」
三人が、益満の前へ突っ立って、睨みつけた。益満は
(名越が、もう、自分の云ったことを、この人間に喋ったのか。呆れた小人)
と、思った。[#「思った。」は底本では「思った」」]
「何んじゃ、この頭は?」
一人が、益満の頭を、指先で突いた。
「計は密なるを以てよしとす、とは兵法の初歩じゃ」
益満は、襖のところから、こう、大声で云いながら、部屋の中へ入った。六七人の、同志の、身分の低い、若い人々が、壁に凭れたり、柱によりかかったりして、腕組していた。
「何を云っとる。坐れ、益満。今日は、返事の如何により、許さぬぞ」
一人が、こういって、刀を、膝の前へ突き立てた。
「ただ今、名越殿から、以ての外のことを聞いた。吾々の前で、もう一度、名越殿へ申し上げたことを、申してみい」
いくらか身分の高い、齢の行った一人が、こういって、益満の正面から
「本心を聞きたい」
入口の襖のところへも、二人が、刀を持って、坐った。部屋の人々は、四方から益満を、睨みつけていた。
「本心を明かさぬと、斬るとでも、申すのか」
「いいや――」
「その明かした本心の如何に、よりじゃ」
「明かしたことが、本心であるか、ないか、何うして判断する?」
暫く、一座の人々は、黙っていた。
「議論ではない。討つか、討たぬか。何うして討つか。それを聞きたい」
益満の左右の人々は、鯉口をゆるめた。
「討つ、ともいえぬ。討たぬ、ともいえぬ。まして、その手段など――」
「何っ」
「それ程の大事を、うかうかと、口外できるか? 口外するのが武士か? 敵を欺くためには、先ず、味方を欺く、という教えを、何う聞いておる。馬鹿めっ。斬れっ。人を疑うにも、程があるぞ。某《それがし》如きを、か程までに疑うような、やくざ共に、口を裂かれても、計が漏らせるか? 同志とはいい条、この大勢の面々に、秘計を語る如き輩で、大事が成せるか? 名越殿にも申せ、かような、徒《いたず》らに、血気と、浅慮のみの人間に対して、軽々しく、物を仰せられるな、と」
「浅慮であろうと――同志ではないか」
「同志に対して――」
「計が定まったなら、一々、回状にして、同志へ廻せ、とでも、申すのか? 某は、貴公らと同輩ではあるが、某一人が、計を行う上は、同志であって、同輩ではないぞ」
「貴公と、議論はせん。一言聞く、久光を斬るか?」
「斬らぬ」
「何っ」
一人が、片膝を立てた。
「久光を斬って、何んになるか? 久光公を、根元の、元兇のと、久光公が、斉彬公を呪咀しておられるとでも申すのか。久光公に、逆心があるとでも申すのか? お由羅を残して、久光公を、何んの訳で斬るのか? 申してみい。聞こう。調所は、自滅した。自滅させたのは、誰じゃ。仰々しく、刀を握ったり、膝を立てたり、左様な、軽々しき振舞をする奴輩に、大事が成せるか? 大勢がかりで、某一人を取巻いて、隼人の恥を存じておるか? それとも、一人になって、某と、只今申した事を論ずる仁がおるか? 一人で、某と、果し合う仁がおるか。恥を知れ」
一人は、刀を下へ置いた。一人は膝を坐らせた。誰も、何も云わなかった。
「先刻、某の、頭を突いた者があったの。指が腐るぞ」
益満は、勢よく立上った。二人の襖際の若侍が、身体を開いて避けた。人々は、黙って、益満の出て行くのを眺めていた。左源太が、次の間から、出て来て
「あいつには敵わん」
と、立ったままで、大きい声で云った。
「王侯将相、何《いずく》んぞ種あらんや」
益満の声が、玄関でしていた。
蜘蛛の巣網
「おう、おう、おう、おっ」
南玉が、曲り角――道しるべと、石燈籠との立っている角の、低い、小さい、駄菓子を置いた休み茶屋の前で、立止まった。
「何んだ、講釈のびらかえ」
庄吉が、振向くと
「軍談講釈、江戸初下り、扇風舎桃林って――この野郎、女をこしらえて、ずらかったと思ったら、こんなところに、うろついてやあがら」
南玉が、大きな声で、びらを読んで、独り言を云った。茶店の中に、腰かけていた人々が、南玉の顔を見た。南玉は、その内の一人へ
「この講釈のかかっている小屋は、入ってますかい」
と、聞いた。
「よしねえ、見っともねえ」
庄吉が、止めた。
「何うだか――俺、知らんが、茂作、どうだの、流行《はや》ってるけえ」
「講釈か」
「うん」
「なかなか、面白えって、評判だよ」
人々の中の二三人が、こういうと、南玉が
「この桃林野郎の、私は、師匠だがね。京の一条、東小路中納言様に招かれて、この弟子をつれて行く途中だが、一つ聞かして上げようかな、今晩」
「何んて、名ですい」
「桃牛舎南玉って、これで、下々の小屋へは、なかなか出んでのう。大名、大旗本の、つれづれを慰めに廻っているが――」
「余り、聞かん名だのう」
「聞かんに蜜柑に、竹に虎。はい、御免なさい。いずれ、今夜は、小屋でお目にかかりましょう」
南玉が、茶店を離れて、庄吉と、深雪の立っているところへ来た。
「冷汗をかくぜ、爺さん。東小路中納言だなんて、俺あ、横っ飛びに、逃げ出したよ」
「あはははは、今夜、久し振りに、一席叩いてこまそ。三文にでもなりゃあ、得というもんだ」
「本当に、桃林って知っていなさるのかい」
「一寸、馴染がある――何うでえ、庄公、一つ、富士春仕込みの、怪しげ節でも、助《す》けにやらんけ。割をやらあ」
「よしてくれ。乞食芸人になっちゃあ、仲間へ面出しが出来ねえや」
「これで、お嬢さんが、娘手踊か、水芸とくりゃあ、儲かるがのう」
「小父様、お琴は?」
「琴? ――ころん、ころんって、眠いやつだのう。こと[#「こと」に傍点]こわしとは、これよりぞ始まる。小屋へは向きやせん――」
「東小路中納言向きだのう」
町へ近づいたので、屋並が多くなってきた。びらが、大きい木の幹だの、辻堂の狐格子だの、酒屋の軒下だのへ、貼ってあった。
「庄公、江戸の流行唄、って触込みで、益満さんのよく唄う、小手をかざして、御陣原見れば、でもやりねえよ。温まるかもしれねえよ」
「田舎じゃあ、判らねえか知れねえが――小屋へは、初めてだからのう。半畳でも入ったら、ぽーっとすらあ」
「半畳って、何?」
と、深雪が聞いた。
「いろいろと、あっての。商売繁昌。火事半鐘、木綿半丈、絹半丈」
町へ入って少し行くと、汚い、薄い板で囲って、板屋根を葺《ふ》いただけの小屋があった。表に、幟《のぼり》が一本立っていて、扇風舎桃林の名が、紅を滲ませていた。南玉が、入口から、真暗な中へ
「桃林っ」
と、大声で呼ぶと、遥か奥の方から
「何んでえ。誰だ」
と、返事した。
南玉は、張扇で読み台を一つ叩くと、肩を聳かして
「もやもやもやと、もやつき渡る、朝霧の中へ、俄然――忽然として現れ出でたる旗印、地から降ったか、天から湧いたか、とんと判らん、摩訶《まか》不思議、あらら不思議に、妙不思議、奇怪奇手烈、テンツクテン――」
南玉は、力任せに、ぱちんと台を、叩いた。
「おもしれえぞっ」
と、客が叫んだ。蜜柑が一つ、飛んで来た。
「蜜柑、きんかん、わしゃ好かん。朝から敵は叶わんと、瞳を定めて、よく見れば、これぞ、上杉方名代の勇将、柿崎和泉守政景が、大大根《おおだいこん》の打掛纏い、一手の軍勢一千と八百。政景その日の扮装《いでたち》は――」
小屋の表では、頻《しき》りに客を呼んでいた。莚《むしろ》を敷いただけの上へ、群衆は、寝たり、坐ったりして、物を食べながら
「上手だに。よく喋るでねえか」
とか
「桃林よりゃ面白え」
とか、評判していた。
「――一天高しと、押し頂き、青貝打ったる三間柄、大身の槍を引提げて、乗ったる馬は薄栗毛、目指すは、信玄只一人、その坊主首引っちぎり、手毬《てまり》の代りになしくれん、進めや、進め、いざ進め――」
入口の狭いところに垂らしてある、垢まみれの暖簾をくぐって、齢の若い侍が、宿のどてらに、一本差したまま、入ってきた。そして、南玉を見て、微笑して、そっと、人々の背後へしゃがんだ。
「時しもあれや、時こそあれ、一天俄に、掻き晴れて、眺め見渡す隅田川、あれ鳥が鳴く、犬が鳴く――総勢八千六百余騎、おめき渡って打ちかかれば、武田信玄公におかせられましては、いざ、強敵の御入来、せくな、騒ぐな、周章てるな、明日という日が無いじゃ無し、と、忽ち、備える、四十と八陣。世にいう
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