考えられて来た。
肩から、背へ、大きく、深く斬り割った疵であった。月丸が、布を当て、帯で縛ったくらいでは、血はとまらなかった。
月丸は、膝の上へ、綱手を抱き上げて、その肩をしっかり押えて、抱きしめながら、顔を綱手の胸の上へ伏せていた。
「綱手、許してくれえ」
微かに、むせんで、そういったまま、肩に波を打たせて、顔を埋めていた。綱手は、水から、口を離すと、どんよりとして来た眼で、小太郎を見上げて
「契りました――知らずに――ゆ、許して」
小太郎は頷いた。
「手を――握って」
動かない左手の手の指を動かしながら、右手を、小太郎の膝へかけた。小太郎は、その手を、握りしめた。
「死にます――不孝を――許して」
だんだん、言葉が、もつれて、微かになってきた。
「許す――こ、心残りなく行けっ」
綱手は、頷いて
「お顔を――」
小太郎は、顔を差しつけた。
「もっと――明るく――暗うて――暗うて」
「もう、眼が見えんか」
「いいえ、暗うて――」
そういって綱手は、もう、半分、眼を上ずらせていた。
「兄様、知らずに――契って――」
「よ、よく、判ったぞっ。許すぞ、綱手、許すぞ」
「もう――一度――顔を――顔を――兄様――深雪、母上に、もう一度――」
「綱手っ――百城殿の膝の上じゃぞ、判るかっ」
百城は、顔を上げた。そして
「綱手、月丸じゃ」
「ああ、月丸様――うれしい――もっと、抱きしめて――身体が、下へ――下へ、落ちて行きます」
綱手の呼吸は、微かになって、眼が閉じてしまった。小太郎は、胸へ手を入れ、額へ手を当ててみてから、静かに
「心残りなく成仏せい。許すぞ」
と、いうと、涙を落した。
「小太郎殿――申訳ござらぬ」
月丸は、死んで行く綱手を、しっかと抱きしめていた。
「あーっ」
綱手が、微かに、呻いた。
「うれしい――一緒に――」
と、いうと、微笑んだ。
人が、だんだん、集まって、三人の周囲へ近づいて来た。提灯の明りに、三人の姿が、はっきり現れて来た。
「綱手っ、駄目かっ、死ぬのかっ」
月丸は、綱手の顔を、じっと凝視めたが、そのままで返事は無かった。月丸も、死ぬものと信じて、二人手をとって行く夢を見ながら死んで行く綱手の純情を思うと、月丸は、身体中をしめつけられるように、苦しくなってきた。
「牧殿、勝負は、後日に――葬いを、お頼み申す」
「不覚の段、お許し下され」
と、いうと、月丸は、綱手の胸へ顔を伏せた。小太郎は、懐から、金子を取出して、綱手の、帯へ押込んだ。そして
「南無阿弥陀仏」
と、念じて、首を垂れていたが、静かに立上った。
「仙波氏」
小太郎を見上げた百城の顔は、綱手の血で染っていた。
「某を討果して――」
「何を――いずれは死絶える家でござる。縁あれば――」
小太郎は、微笑んで、足早に、人込みの中へ消えてしまった。
移り行く
富士春の頭髪には、油気さえ、少くなっていた。襟垢のついた小紋に、山の擦れた繻子の帯をしめて、火鉢の前で、俯向いていた。
(さんざ、人に苦労をさせておいて――意地だの、男だのって――これまでに尽してやったのを忘れて、それで、男かい――)
今朝からは、鏡を見るのさえ、厭であった。過去の、淫らな暮しを考え、齢のことを思い、それから、この男なら一生と、見込んだ庄吉のことを――昨夜から戻らぬ庄吉のことを思うと、淋しさと、心細さと、悲しさと、そうして、怒りと、恨みと――いろいろの物がごっちゃになって――何をするのも、見るのも、いうのも、厭になってしまった。
(弟子は、一人も来なくなるし――もう、売る着物も無いし――)
それでも、富士春は、庄吉が、欺したとは思えなかった。外に、女が出来ているとも思えなかった。何も、打明けないで、やさしく恨みをいうと
「済まぬ、今に判る――俺《おいら》、いよいよとなれば、お前と一緒に死んでもいいんだ」
と、いうし――そして、それは、偽りとは見えぬし、怒って詰《なじ》ると
「男の意地って、そんな訳のもんじゃあねえや」
と、斬落された方の肩を聳かしたが、それも偽りとは見えなかった。
(何うしたのだろう? 何処で、何をしているのだろう)
と、思うと、怒りながら、恨みながら、戻って来て欲しい気もした。溝《どぶ》板を踏む足音が聞えると
(戻った?――何う云ってやろう)
と、考えたが、いつも、ちがった長屋の他の人の足音であった。富士春は、起きたままで、御飯も食べないで、寝不足の、重い頭と、鉛のように沈んだ心とを、持て余しながら、もう、小半日も、こうして、俯向いていた。
足音が、格子の前で止まった。富士春は、はっとして、顔を上げたが、すぐ、元の通りになって、何んなに、怒っているか? 恋しがっていたか? 悄然としているこの姿を見せてやろう、と、額へ手を当てた時、足音が、土間の中へ入って来た。
(庄吉ではないらしい)
と、思うと、失望と、うるささとで、そのまま、見向きもしなかった。入って来た男が、そのまま黙って立っているらしく、足音も、格子の音もしなかった。
「誰?」
富士春は、俯向いたまま、咎めるように聞いた。
「俺だ」
聞いたことのない声であった。
「誰?――何んの御用?」
富士春が顔を上げると、土間の提灯の下に、頬冠りをした町人風の男が、立っていた。そして
「富士春、そちゃ、見忘れたか?」
下手な仮声《こわいろ》であった。富士春は、うるさくもあったし、そうした茶番に、腹立たしさを感じた。それで、黙って、又、俯向くと
「益満だあ」
手拭をとると、益満であった。頭を、町人風に結んで、前掛をしめ、刀も差していなかった。
「おや」
富士春は、益満なら、いろいろ聞きたいこともあり、聞いてほしいこともあると――笑顔になって
「まあ、そのお身なりは?」
「押掛け聟になろうと――何うじゃ、よく似つくであろうが――」
と、云いながら、上って来た。
「火も、おこさずと――」
富士春は、火箸で、小さく消え残っている炭火を集めて
「久しゅう見えずに――何うなさいました?」
益満を、見上げた眼は、いつものような色っぽさと同時に、縋りたいとしているような色が現れていた。
「いろいろと、庄吉同様、又、富士春同様に、苦労をしてのう」
「そして、また、そのお身なりは?」
「無断で屋敷を飛び出したゆえ、殿への詫なり、二つには又、庄吉の身代りとして、この家へ入り込むからは、こうした粋な姿になって――」
「庄吉の身代りに入り込むって、願ってもないことでござんすが、そりゃ、庄吉も、承知の上で?」
富士春は、火種へ、眼を落して、心の動揺を見せまいとしていた。
「と、申すのは、実は、偽り――」
富士春は、人の気もしらないで、又、いつものように、からかってと、思うと、好きな益満にさえ、鋭い眼を向けた。益満は、その眼を、じっと見つめて
「庄公とは、昨夜逢った。庄公は、惚れておるぞ。しかし、訳があって、暫く、旅じゃ。これは、庄吉からの、ことづかりもの」
益満は、こう云って、懐中から、小さい包を出した。その重さで、金だと判っていた。富士春は、庄吉が、急に、そんな金のできる筈がないと、信じていたし、益満が、何も、かも、呑み込んでの計らいだとも思えた。それで
「ことづかりもの、実は、偽り――」
と、益満へ微笑んで、云った。
「何れにもせよ。流しでは暮せまい。又、某から頼みたいこともあり、とにかく、庄吉の身の上は、益満がしかと引受けるから、黙って、化粧でもして――さ、気を浮立たせて、久し振りに
[#ここから3字下げ]
三日月さまかや、ちらと見た
細身の刀は、主かいな
小唄|吟《ずさ》みで、辻斬りの
前髪若衆の、色袴
[#ここで字下げ終わり]
富士春、お前のように浮気者にも操があるように、庄吉にも、真心があるぞ。くよくよするな。然し、齢は争えぬ、化粧をせんと、そろそろ、小皺が、目立って来たのう」
益満は、火鉢越しに、覗き込んだ。
「ええ、だから、男は――庄吉だけは、末長うと思いましたに――」
「庄吉も、同じ台詞《せりふ》を云いよったぞ。長うはない。四五日で戻る。或いは、こういう内に戻るかもしれぬ。さ、髪を結うて、化粧をして、着物を――蔵から出して来て――」
益満は、金包を、眼でさして
「その辺へ、仕舞っときな」
「でも――」
「と、遠慮するような、昔は、仲でなかったのう。お前、湯へ行って来る間に、俺あ、肴をあつらえておかあ。何うじゃ。姿も町人なら、言葉も、上手であろう。益満休之助、神出鬼没、江戸中を――江戸中の女を、引っ掻き廻す――これが、隠れ蓑」
「腰が、淋しゅうござんせんか」
「野暮な邸の、大小棄てて、と、唄にあろう――富士春、もう一度、わしと、昔のようになってもよいぞ。それなら、このまま、町人暮しもしよう。ま、暫くは、庄吉恋し、その内、去る者、日々に疎しでのう。これでも、捨てた男ではあるまい。のう、婆あ。湯へ入って来い」
富士春は、益満の、何処をつかまえていいのか判らなかったが、包の金が多分らしいので、ほっと安心をした。そして
「では、その間、留守番を」
と、快活にいうと
「その間、小唄でも――」
と、云って、益満は、柱にかけてある三味線を取りに立上った。
「こりゃ又、異な姿だのう。何んと致した」
名越左源太は、襖を開けて入ると同時に、坐りもしないで、笑った。益満は
「遅参致しました」
と、両手をついて、挨拶した。部屋は、茶室造りであったが、庭は、石一つない、粗末なものであった。
「外のことでないが、大殿が、御帰国になったに就いて、国許の同志は、君側の奸者共を一挙に、殲滅《せんめつ》させようと、計画しておる。それと一緒に、江戸では――いろいろと、論も出たが、久光殿をばじゃな――この君、在ればこそ、じゃで、勿体ないが――」
左源太は、斬る真似をした。
「はっ」
「それで、何うじゃ、その役を勤めるか、但しは又、何か、よい工夫が、あるか? その談合のために、呼んだが、益満――国許では、赤山靱負殿も、このことには御賛成であるし、益満なら心丈夫だとの仰せもある。一つ、勤めてくれ。外に、この大役を安心して任せる者がない。恩賞としては、何れ、斉彬公御世継の上は、靱負殿よりの取計らいにて、三百石には取立てて得させる」
「有難く存じまする」
「早速承引してくれて、わしも嬉しい」
「いいや――」
益満が、こういって、膝へ手を置いて、名越を見た眼は、齢が上で、格が遥かに上の者までも、威圧するに十分なものであった。それが、町人姿になっても、明瞭《はっきり》と、現れていた。名越は
(又、一こね、こねるかな)
と、思って
「異論かの」
と、微笑した。そして、心の落ちつかんのを見せまいと、煙草入れを取上げた。
「過日、斉彬公の御前へ罷り出ました節、君より、天下の形勢に就いて、御言葉がござりました」
「わしも聞いた」
名越は、煙を、天井の方へ吹き出しながら
「それで――」
「その夜――いろいろと、思案仕りましたが、禁裏の御気配、京都へ集まっております浪人共の正論、引続く不作、窮民の増加、異国船の頻々《ひんぴん》たる来訪。又、オロシャの侵略――何んとなく、日本の四方、日本の上下に、不穏の気が充満して参っておりまする」
名越は
(そろそろ難かしい事を云い出しおったぞ。一を聞くと、十に拡げるのが、名人じゃ、この男は――)
と、思ったが、そうしたことは、斉彬公から聞いてもいて、朧げながら、自分も感じているので
「そう」
と、頷いた。
「それを処理する幕府として――人、策共に皆無でござりまする。金子が足りぬゆえ、町人より献金させよ、人がないゆえ、島津斉彬を、異国方に取立てよ、と、己を弥縫《びほう》するに急であって、政道を布く暇さえござりませぬ。近頃、天下に、密々と行われておりまする、幕府衰亡の取沙汰、これを、史上より見ましても、三百年を経れば、一新するのが、常道となっておりまする」
「その論もよいが、わしの、只今の――」
「斉彬公の仰せの如く、家中に
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