ただ、次々に湧いてくる自分の危急を、可笑しいもののように、微笑んで眺めていた。そして、自分を討ちに来ている者と並んで、静かに、平然として、歩いておれた。
(叡山の上で、右へ、右へと叫んでいた声は、父でなかった。牧が、父を支えながら、叫んでいたのだった。敵ながら天晴れだ、と思ったが、この月丸も、若いが、えらい。討たれてやってもいい――しかし、自分の方が、優れていたなら、討ってもいい――いや、討つのには惜しい男だ。斉彬公は、きっと、惜しまれるにちがいない)
 小太郎は、月丸を、長い間の親友のように感じてきた。
 薄月の夜であった。河岸の枯柳は、黒く垂れていて、風は無かった。河水は、鈍く光っていた。高麗橋の橋詰には、夜番所があったから、少し行きすぎて、舟着場の端まで行った。
「この辺りなら――」
 と、月丸が、振向いて、微笑した。
「結構」
「では、お支度を――」
 二人は少し離れた。そして、襷をかけ、股立をとって、跣足になった。そして、刀を抜いて、目釘をしめした。小太郎は、刀を提げて
「某の流儀は、鏡心明智流を元として、一刀流を、いささか、学びましたが――」
 と、声をかけた。二間程離れると、もう、はっきり、顔が、見えなかった。
「某は、国許の、薬丸流っきり――」
「薬丸なら、斬られても、一思いでござるな、ははははは」
「では――」
 月丸は、刀尖《きっさき》を、地に下ろすと、すぐ、右肩の上へ、真直ぐに刀を立てた。同じ、示現流から、東郷、薬丸の二派に分かれた内の、薬丸流唯一の構えであった。
「いざ」
 小太郎は、正眼につけて、一足退った。かと、思う瞬間、一足出た。薬丸流に対して、余り、距離をあけることは、不利であったからであった。
 だが、その刹那だった。月丸も一足退ると、正眼に構え直した。小太郎は
(はて)
 と、思った。そして、すぐ、正眼から、頭上へ、真直ぐに、大上段に、突き立てるであろうと思っていたが、月丸は、そのまま、じりっと、刻んできた。薬丸流ではなかった。小太郎は
(偽ったな)
 と、思った。そして、そう思うと同時に
(負けるものか)
 と、決心した。その途端だ。月丸は
「出るなっ、出るなっ」
 と、何かへ、叫んだ。

「加勢か」
「いいや」
 月丸は、いいや、と云ったが、小太郎には加勢だと思えた。自分が、叡山での斬込みの腕を知っている以上、一人で来た、と云っても、危くなれば、加勢に出て来る者くらいあるのは、当然だと思った。しかし、そうは思いながらも、月丸が、それに対して、立派に
「一人だ」
 と、いい切ったことに、憤りを感じて来た。偽らないで、加勢があると云っても、果合を拒むような自分でないのに、武士らしくもないと、思った。と、同時に
(まず、月丸を斬って――)
 と、思った。だが、右足に、深手を負って、少し、引きつれる小太郎は、右手へ、敵を受ける不利を考えて、じりっと、背を、川の方へ引いた。そして、誘いの隙を見せた。
 だが、月丸は、刀をつけたまま、懸声もせずに、十分の息を引いて、そのまま、小太郎の刀尖に惹かれるように、矢張り、じりっと刻んだだけであった。
「ならぬ――ならぬ。出るなと、申すに」
 月丸は、小太郎の背後の何かへ叱りつけた。小太郎は、そう叫んでいる月丸に、十分の隙はあったが
(家中の者の前で、卑怯な振舞をしたくはない。よし、討たれても、こういっている隙へ打込むのは、卑怯だ)
 と、思った。だが、その隙を利用して、ととっと、河岸へ退って、柳の大木を、左手に、川をうしろにした。そして、月丸の叫んだ方をすかして見た。
 闇の中に、人影が動いていた。柔かであるし、息の調《ととの》ってない動き方、歩き方は、女らしかった。
(妹――?)
 と、感じた。だが、その瞬間に、月丸は
「邪魔なっ」
 と、呟いて、少し、低い位置に立っている小太郎へ、下段の刀をつけてきた。
「牧殿、あれは?」
「無用っ」
 と、答えるが、早いか
「ええいっ」
 川面に響き、街へつん裂き亙って、爆弾の如く、全力的な叫び。
「とうっ」
 その、張り切った気合を受けて、弾き返した瞬間、小太郎は、柳の木蔭へ、躱《さ》けていた。何う斬って、何う引いたか――月丸は、刀を元の如く下段につけて、静まり返っていた。小太郎は
(出来る)
 と、思った。そして、今の一撃に、全力を込めた月丸が、呼吸を調えて、第二の襲撃に移る間に、こっちから、一撃を加えようと、じりっと、一足出た。
「兄さま」
 涙と、声とが、もつれ合っていたが、妹綱手であった。小太郎は、その声を聞くと同時に
(妹と月丸と、何かがあるにちがいない)
 と、感じた。そして、そう感じると、妹へ、月丸へ、訳もなく、怒りが湧いて来た。何んとなく、二人に計られたように感じた。
 綱手の影は、足許が、もつれるように近づいた。
「来るなっ」
「危いっ、寄っては――」
 と、小太郎と、月丸とが、同時に叫んだ。
「や、やめて下さりませ。頼みまする。何事も、妾が、わ、妾が、悪いのでござります」
 綱手は、裾を帯の間に挟んで、白い足を出して、倒れかかるように、二人の刀の間へ走り込んで来た。その一刹那だ。
「とうっ」
 それは、鉄板を突抜くような、強い気合であった。小太郎の刀は、光を掠めた如く、月丸の胸へ走った。
「ああっ」
 綱手は、絶叫した。

 小太郎の刀は、十分に延びていた。月丸は、よろめいた。それは、小太郎の気合の鋭さに、圧倒された、よろめきであると同時に、その気合と共に、躱けようとした、本能的の、よろめきであった。
 だが、刀の延びた割に、小太郎の右足は、小太郎の心のままに踏み込んでいなかった。そして、綱手を、突きはしなかったかと、はっとした――それは、ほんの一秒の、何十分の一かのような隙ではあったが、一寸、心の弛んだ瞬間――その瞬間だけで、刀尖から、掌へ、掌から、腕へ感じて来る手答えが、予期していたよりは、不十分であった。だが
(少しだが、突いたぞ)
 と、感じた。
「妾をっ――」
 綱手は、狂人のような叫びをあげて、小太郎に、縋ろうとした。
「殺してっ――」
 綱手の頭、白い顔が、小太郎の前で、閃き、油の香、白粉の匂が、微かに漂った。
「綱手――」
 月丸は、荒い息を、吐き出すと同時に、喘ぐ声で叫んだ。
「除けっ」
 小太郎は、縋りつく綱手を、左手の肱と、足とで、払った。綱手は、よろめいて、倒れかかりながら
「兄さまっ」
 両手を、下から延すのを
「たわけがっ」
 左手を、柄から放して、突き倒した、かと、思うと
「ええいっ――ええいっ」
 猛獣の、吼号するような懸声であった。小太郎は、綱手の取乱した姿に、憤っていて
(武士の娘に、あるまじき、不覚の振舞)
 とも、感じたし
(許して、とか、殺してくれ、とか、月丸と、割無き仲になっているのではないか? 仇敵《かたき》の倅と――)
 とも、ちらっと、頭に閃いたし――だが、それよりも、綱手を、突倒してまでも、月丸へ、斬りかかって行くのは
(この機を外すと、己が斬られる)
 と、思う、剣道上の心得からであった。対手に薄手傷を負わした上は、踏み込み、畳み込んで、仕留めなければ、対手が、どう死物狂いになって来るか、判らないからであった。相打のつもりにでも、かかって来るか、斬らせて斬るつもりで、捨身に来るか? それからまた、早く、勝負をつけないと、人が集まり、役人の来る恐れがあった。
 小太郎は、一撃を与えると共に、綱手を突き倒しておいて、狼の如く、襲いかかった。月丸は
(いけない)
 と、感じた。ちらっと
(敵わない)
 と、思った。そして、崩れるように、たたっと、四五尺退った。
「ああっ、誰かっ――」
 綱手は、髪を乱して、裾を乱して
「来て下さいっ」
 小太郎は、それを聞くと同時に、綱手に、激怒した。
(何んという、嗜みのない振舞――言葉)
 そう思うと、自分が、卑怯な振舞をして、恥辱を受けていることよりも、恥かしくなってきた。憎悪に輝く眼を、綱手に、向けて、蹴倒した。その、一刹那
「や、やっ――やあーっ」
 月丸の、必死の斬込みだ。小太郎は、躱けて、退いた。その袴の裾を、綱手は、しっかと、握った。そして
「ま、待って下さりませ、百城様、兄様っ」
 転んだ。引擦られた。引擦られながら、起き上ろうとした。髷が崩れた。眼は狂っていた。頬も、脣も、歪んで、襟も、裾も、肉を現していた。
「綱手っ、危いっ、放せっ」
 月丸は、悪魔のようになって、絶叫しながら、畳みかけて打込んで行く。斬らして斬る覚悟の刀。小太郎は、軽く流し、軽く避けて、退きながら、隙を窺っていると、綱手は、半分、立上って、膝をつきながら
「待って――」
 と、延上った一瞬へ
「くそっ」
 月丸の、必死の、一撃――小太郎は、さっと、退いた。
「ひっ――」
 綱手の咽喉から、迸《ほとばし》った叫びは、二人の耳から、胸を、ぐっと突いた。

「ああーっ」
 綱手は、牡丹の花弁の落ちるように、崩れ倒れた。
「待てっ、仙波。待てっ、待てっ」
 月丸は、刀を引いて、左手で、小太郎を押しとめた。そして、刀を投げすてて、絶望的に
「斬った」
 月丸は、吐き出すように叫んで、小太郎にかまわず、綱手の、崩れ倒れている上へ、かがみ込んだ。小太郎は、それを見ながら、刀を提げたまま、黙って、肩で呼吸をしていた。
 船の中に、灯が動いていたし、橋の上、街の角には、いくつも、提灯が、並んでいた。
「綱手」
 月丸は、綱手の肩をさぐった。そして、腰の印籠へ手をやりつつ
「しっかりしてくれ――綱手っ」
 薬を、口の中へ押入れようとすると、綱手は歯を噛みしめ、両手の拳を握って、身体中を、顫わしていた。
「口を――」
 月丸は、小太郎へ哀みを乞うように見上げた。
「小柄で、押開けるがよい」
 小太郎は、冷やかに、こう云って、川岸から、舟への歩み板を、半分程渡って行って
「船頭、灯をかしてくれぬか」
 舟からは、答えがなかった。
「船頭っ」
「へっ」
「灯を貸せ」
 灯が、動いて、船頭が、裸蝋燭を持って来た。
「済まぬ。借りるぞ。ついでに、水をすぐにな」
「へえ」
「恐ろしゅうはない。斬られた者を、介抱するのじゃ」
 船頭は、黙って引込んだ。小太郎が、蝋燭を持って、二人の横へ来ると、綱手は、白い眼をして、脣を痙攣させていた。襟から、胸へ、肩へ、血が流れていた。着物は、土まみれになっていたし、髪の根は落ちて、毛が顔へかかっていた。
 小太郎は、今まで、憤って、死ね、不覚者、そんな不覚者は、斬られた方がいいのだ、と思っていたが、その姿を見ると、その憤りの上へ、悲しさと、可哀そうさとが、漲《みなぎ》り上って来た。
「深手か」
 と、いって、月丸の上へ、膝をついて、蝋燭を差出すと、月丸は、蒼白な顔をして、額に、脂汗を出しながら
「許して――」
 と、いったまま、俯向いて、頬も、脣も、ぴくぴく引きつらせていた。月丸は、綱手の口へ薬を押込んでから、活を入れた。小太郎は
(助からぬらしいなら、生き返さない方がいい。苦しますのは、いじらしい)
 とも、思ったが、生き返らせて、一言でも、言葉を交したい、とも、思った。
 綱手の眼に、黒い瞳が、ちらっと、現れると共に、大きい息をして、身体を、手を、脚を、首をもがいた。月丸が
「綱手」
 と、耳許で、叫んだ。
「綱手っ、見えるか」
 小太郎が、蝋燭と、顔とを、差出した。綱手は、もう、乱れかかろうとする視力を、集めて、二人の顔を見ると、頷いた。そして、顫える手を、延して、小太郎の膝を、掴んだ。小太郎は、微かに、涙をためていた。
「月丸様と――」
 綱手は、微かに、これだけいって、眼を閉じて、首垂れた。船頭が、水を持って来た。
「水じゃっ。飲むか」
 小太郎が、口へ当てがった。綱手は、細く口を開いた。水を、苦しそうに、が、甘《うま》そうに飲む綱手を眺めている内に、小太郎は、憤りを、すっかり忘れてしまって、不幸な家に生れて、こんな死様をする妹は、仮令《たとい》何をしようとも許してやらなければならない、という風に
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