に残しておける、いい形見のように思った。
(そうだ、遺書を書いて、妹へ――)
 綱手は、つづらから、身体を離した。そして、立とうとしたが
(でも、死ぬに限った身ではなし、却って、妹をびっくりさせては――)
 綱手は、月丸と二人、手をとって、落ちて行く楽しさを、空想し、二人きりで暮している嬉しさを描いてみた。
(行く所まで――こうなった上は、行く所まで――月丸様の、仰しゃったように、義理も、人情も、親、兄弟もすてて、二人だけになって――)
 綱手は、そう思うと、二人きりになれるなら、そんなものを、皆、うちすてても、楽しく、暮して行けると、感じた。
 人の足音がしたので、立上ると、廊下から、一人の小者が、顔を出した。そして、四辺《あたり》を窺って
「御手紙を、百城様から――」
 綱手は
「あい」
 と、答えるよりも、走り寄った方が、早かった。小者は、微笑して
「何分――」
 と、四辺を見廻して
「人目を――」
「有難う、ござんした。御返事は、そして」
「万事、それに――」
 と、いうと、すぐ、姿を、消してしまった。綱手は、四辺を見廻してから、封を切った。胸が、どきどきして、顔がほてった。月丸の手紙には
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予て打ち合せの如く、六つを合図として、筋違橋まで出向くこと。もし、それまでに、堺へ行くとなれば、仲間部屋の角柱へ、白紙を貼りつけておくこと。
[#ここで字下げ終わり]
 と、出奔の打ち合せが、書かれてあった。綱手は、読み終ると、廊下づたいに、厠の方へ歩みながら、手紙を、細かく引裂いた。

 時刻は、遅くなったが、町家は、油障子の、薄ら影を、街へ流しているだけであった。
「女共から聞いたが――小太郎が、当地に参っている気《げ》じゃが――本当か」
 月丸は、低く、静かにいった。綱手には、答えられなかった。居ないと、月丸へ偽ることはできぬし、居る、といえば、討ちに行く、というに決まっていた。
「綱手」
 月丸は、綱手へ、顔を向けた。綱手は、頭巾で、頭をかくし、両手を袖へ入れて、胸で合せながら
「参ってはおりますが――」
 と、答えると、月丸は、小半町も、そのまま、黙って歩いた。時々、提灯の火が、二人の側を行きすぎたが、二人には、感じなかった。夜鳴うどんの呼声は、町中に響いていたが、二人には、それが何んであるかも、感じなかった。
「宿は?」
 綱手は、その問いを、予期していたが、ひやっとした。
「遠いか――近いか」
「はい」
「お前は、小太郎が、わしに討たれると思うている。然し、わしが小太郎の手に、或いはかかるかも知れぬ」
 綱手は、小太郎の討たれる方のことを、余分に考えていたが、そういわれると、小太郎を討つよりも、月丸の討たれる方が、厭であった。
「わしは、邸を出奔して、武士の面目を捨てた――と人は見よう。然し、わしは、決して、捨てておらぬ。わしは、牧仲太郎の倅として、武士として、男として、邸武士の出来ぬ手柄を立てたい。立てて見せる。そして、立派に帰参してみせる。敵、味方と別れておっても、元は、同じ家中で、忠義の心に変りはない――仮に綱手、二人が、親の許した仲であったとして、もし、八太郎が、牧仲太郎を討ちに出向き、わしが、父の側におったら、何んとする。男と見て、父の討たれるのを、手を束ねて見るか? 見るのが武士か? それとも、八郎太を討つのが、武士か? 小太郎が、敵党の一人である限り、わしは、見逃さぬ。小太郎も又、わしを見逃すまい。この、討つ、討たれつが、古《いにしえ》からの武門の慣い、武士の辛いところじゃ――お前は、恋のために、武士を捨てよと申すであろうが、わしは、恋も完うし、武士も完うしたい。完うして、完う出来ぬことはない。お前の苦しさは、よく判る。お前は又、わしを、欲が深いと考えておるであろう。然し、わしと、お前との恋を、完うせんがためには、帰参する外にないぞ。手柄を立てて――このまま乏しい金がつきて、野垂死をして、それで完うなるような、女々しい恋を、わしは武士の恋とは思わぬ。心中沙汰は、浅はかな町人の業じゃ」
 綱手は、月丸の言葉の半分は判った。然し、半分は、月丸の独り勝手な、自分だけに都合のよい言葉のように思えた。
「でも、みすみす、手引して、兄を討たせることは――」
「討たれるかもしれぬ」
「尚、厭でござんす」
「判らぬかの――討つ、討たれるは、末のこと。小太郎の在所《ありか》の手がかりを存じておりながら、みすみす見逃すことは、わしの性としてできぬ。明かさぬなら、明かさぬで、探し、求めて、討ちに参る」
「そんな御無理な」
「そちと、別れても、参る。そちのために、邸も、知行も捨てた。然し、武士の意地は捨てぬぞ。叡山でとった不覚は、そちと、別れても取返さねばならぬ。一旦、思い立った上は、父の倅じゃ」
 月丸の決心は、動きそうになかった。

 綱手は、月丸を、悉く信用していたが、いつか、袋持三五郎が、憤りながら
「月丸は、見かけによらぬ奸智に長《た》けた奴、油断すな。といっても、恋に、眼の眩《くら》んでいる、お主には、わかるまいが――」
 と、いった言葉を思い出した。そして、月丸の態度を、言葉を、吟味したが、綱手には
(袋持様が、二人の仲を、切らせようと、あんなことを――)
 と、しか、思えなかった。叡山で、小太郎の部屋へ忍びに行ったことも、綱手には、月丸の、武士の意地から、としか、考えられなかった。少しの疑いはあっても、恋心が、それを打消して、いい方へ、いい方へと、解釈した。
 月丸が、歩きながら、こう説いてくると、だんだん、綱手には、尤ものように思えてきたし、小太郎の在所を秘したために、月丸に別れられることは、自分の死ぬことであった。
(同じ死ぬなら、いっそ)
 と、自棄な気持が、少しずつ、強くなってきた。
(死のう。死ぬより外はない。その代り、今夜一晩は、語り明して――月丸の、機嫌のいい顔を見て、父に詫び、母に詫びて、死のう――)
 と、思った時
「小太郎は、わしのことを知るまい。よって、わしが、牧の倅であることを打明け、父を狙う小太郎を、そのままに、許しておけぬ故に参った、と、尋常に名乗りかけて、勝負致そう。もし、武運拙く、わしが斬られたなら、綱手、死んでくれい。な、わしを兄へ手引致すのではない。牧の倅を、小太郎の首を狙っている者を、小太郎の許へつれて参るのじゃ。武士の娘として、詮《せん》ない、宿命と、諦めてくれい。わしとて、恋仲の女の兄を討つに、気軽に、参れるか。小太郎に討たれて、二人で抱き合って死ぬか、小太郎を討って、帰参して、二人の恋を完うするか。綱手」
「はい」
 綱手は、涙声であった。
「綱手、そちは、わしを、本当には、想ってはいてくれぬな」
 月丸は、鋭く、叫ぶように云った。
「えっ?」
「教えずとも、存じておる。小者より聞いておる。然し、そちを欺して、討ちに行くのをしとうないから、そちの口から聞いて、そちの心を知りたいと存じておった。それに、わしが邸までも捨てておるに、兄一人が、これ程申しても捨て切れんか。最早、頼まぬ。小太郎の宿所を申そうか。高麗橋じゃ」
「ええっ」
 京から旅人が来るのは船より外になかった。そして、船は、八軒家か、高麗橋へ着くし、そこには宿屋が並んでいるのを、綱手は知らなかった。
「従いて参るなりと、別れるなりと――」
 月丸の足が、早くなった。綱手は、月丸の袖を掴んだ。
「御存じの上は――」
 と、いって、声がつまってしまった。月丸は、袖を、二三度払って、綱手が、放さないので立止まった。
「見っともない」
 綱手は、涙の流れるままの顔で、月丸を見た。そして
「御案内――致します」
 涙に、曇った声であった。
「綱手、お互に、苦しいのは、一緒であるぞ」
 綱手は、人通りの無いのを見て、月丸の胸へ縋って、顔を押伏せた。月丸は、綱手の肩から、背を抱きながら
「泣くな」
 と、云った。そして、じっと、肩を波立たせて泣き入っている綱手を見下ろして、じっと、笑った。手だけは、しかし、抱きしめていた。

 小太郎は、延べさせておいた床を、片隅へ押しやらせて、月丸を招じた。そして、床の間の後方に、いつでも、刀を取れるように坐った。
 月丸は、わざと、刀の柄を、後方右手に置いて、害心の無いことを示してから
「深夜に、御手数を相掛け、済まぬ儀でござる。申し上げましたる如く、当蔵屋敷詰、無役、百城月丸と申しまする」
 と、挨拶した。
「申し遅れましたが、仙波小太郎――御用の趣、何か、妹の儀に就きまして――」
 と、微笑むと
「いいや、家中に、御存じの、騒がしきこと有りまする折柄、或いは、御断りになろうかと存じまして、御無礼ながら、左様の口実を設けましたる次第、御容赦に預かりとうござる」
 月丸は、丁寧に、礼をした。
「ははあ、――して、実《まこと》の用件は?」
「唯今、申し上げた、某の姓名、百城月丸とは、蔵屋敷のみにての通り名、本名は、牧周馬、御存じの、牧仲太郎の倅でござる」
 小太郎は、じっと、月丸を見つめた。月丸は、俯向きながら
「武門の慣わしとして、かく、お見掛け申したる上は、是非に及ばぬ儀と心得――」
 ここまで、いって、月丸は、微笑しながら、面を上げた。小太郎は、頷いた。
「――尋常の勝負を致したい。この儀、御承引下さるまいか」
「いかさま」
 小太郎は、もう一度頷いて、月丸の、立派な態度に、感心した。
「貴殿の父、八郎太殿の斬死を御無念と思われると同じこと、父を覘《ねら》う貴殿の在所を知っては、某として、御見逃し仕る訳には参らぬ。討たれるか、討つか、千に一つの勝負を決しとうござる」
 月丸の言葉は静かであったが、その決心は、眼の色に輝いていた。
「御心中は、某も、同様――」
「時日、場所共、存分に、御取決めを願いたい。某は、只今即刻にても、苦しゅうござらぬが――」
 月丸は、小太郎を、促すように、云った。
「よく、この宿が判りましたのう」
 月丸は、答えないで頷いた。
「妹でも、申しましたかの」
「いいや」
「武士として、かく、申し込まれた上は余儀ない事でござろう。承引仕ろう。場所は――何分、不案内の土地のことゆえ、御貴殿の方にてよろしく、お選み願いたい」
「夜も、更けたことゆえ、邪魔物もござるまい。その橋たもとは?」
「成る程」
 小太郎は頷いた。
「御一人でござろうな」
「申すまでもござらぬ。余人の手を借りて、卑怯の振舞をなす如き――」
「いやいや、御貴殿のことは疑い申さんが、当地へ参るまでに、様々のことが、ござって、用心の上にも、用心と――」
「御尤もの儀」
「勘定、その外のことを片づける間、暫く、お待ち願いたい」
 小太郎は、少し、腑に落ちぬこともあったが、月丸の、偽らない申し条を聞いて、断る訳には行かなかった。口実を設けて、断られぬこともなかったが、同じ家中の者として、そんな振舞はしたくなかった。
 下へ降りて行って、番頭に、急に立つから、といい、番頭を外へ出して、街の様子を見にやったが、怪しいこともなかった。小太郎は
(意外な事の起るものだ。然し、これも、宿命であろう)
 と、思った。

「牧氏に、お頼み申したいが――」
 小太郎は、降りる時にも、街へ出てからも、月丸を、暗闇を、注意していたが、月丸の言葉の如く、誰も、加勢などに来ているものがないと判ると、月丸の武士らしさに、信頼の心が起って、こういった。
「はて――」
「某の妹を御存じか」
「綱手殿か」
「左様――もし、某が、貴殿の刀にかかった上は、仔細のこと、それに、お申し伝えを願いたい」
「論ないこと、しかと、御引受申す」
「刀、懐中物など、形見として、お渡し願いたい」
「申すまでもなきこと――」
 小太郎は、未だ、世の中に、何かし残したことがあるように、茫漠とした世の中への望みが、頭の中にいっぱいに拡がっていたが、それが、何ういうことであるか、はっきり判らなかった。
(牧仲太郎を討つことだ)
 と、思ったが、それだけでもなかった。そして、その牧を討つことでさえ、何んだか、漠然としたようで、
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