》の小槌《こづち》みてえなものでげす」
「庄吉の用意は?」
「先生、ちっと、申しにくいんだが――」
「何?――金のことかの」
「いいえ――あいつ」
「富士春か」
「可哀そうな気が――」
「心得た」
「先生、元のように、可愛がってやって下せえ。あっしの頼みだ」
「恭なく、頂戴仕る」
「いや本当に、戯談で無しに――あいつあ真実、手の無いあっしに、よく尽してくれましたよ。だが、今、別れてやるのは、あいつのために、先生、いい別れ時だと、あっしゃあ、思っていますがね」
「庄吉、お前、何故巾着切になった?」
「あっしですかい――さあ、何う云ったら――えらそうな奴の、肝を潰すのが、面白いからでげすかな」
「一寸踏み外した形だのう――惜しいものじゃ。富士春のことは、心配致すな」
「有難うございます。これで、安心した」
「然し、庄吉、世を救うためには殺すかもしれぬ」
「世を救うために――ええ、ようがすとも。深雪さんだって死ぬんだ。ようがすとも」
 黄昏が近づいて来たらしく、部屋の中が、暗くなってきた。三人は、時々軽い口を利きながらも、何処となく沈んでいた。

  宿命の渦

 表には、知らぬ人の名が書いてあった。披くと、小太郎からの手紙で、傷が癒ったから、大阪へ来た、宿にいるから、来るか、行こうか、としてあった。
 綱手の胸は、握り締められるように、苦しかった。いつか、この苦しみが来ると、覚悟はしていたが、兄に会えば、兄は月丸との地獄に堕ちた恋を、きっと知っている、というような気がした。
(怒って、斬るであろう。いや、死ね、というだろう。その時は、自害してもいい。然し、その前に、月丸へ、このことを話したい。そして自害したい――いいや、話をしたなら、月丸は、きっと、小太郎を討ちに行くにきまっている。では、このまま、黙って――そんなことは出来ない)
 綱手は、同じことを、幾度も繰返して考えていたが
(いやいや、これは、自分の気の咎めで、兄は何も知らない、知ろう道理がない)
 綱手は、手紙の文字から、紙から、小太郎が、何か知っているだろうかと、それを探し出すように、暫く、眺めていたが
(小太郎は、知りはすまい、知れよう道理がない)
 と、思った。そして、その手紙を持って、女中頭へ頼み、鼻薬を使って、一刻だけの暇をもらった。
(兄は、これから何うするのかしら)
 そう思うと、汚い着物を着て、手足の不自由な小太郎が、頭の中で描かれた。綱手は、頭の物、着物の類を、下女中に命じて、金に替えさせた。
 その中には、綱手の宝物にしている櫛があった。それは、百城月丸からの、恋の贈り物で、今もさしていたのだが、それも、その売物の中へ加えた。それは、小太郎へ、月丸との不義の恋を詫びようとする綱手の、せめてもの心からであった。
 綱手は、幾度か、その櫛の油を拭いては、眺めながら、月丸が、その櫛を、京の宿の二階で、自分の頭髪《かみ》へさしてくれた時のことを想い出した。そして、小太郎に
(これを、売ります。そして、兄様の、何かの足しに致します。これが、綱手として、今、兄様にお報いできる、たった一つのことでござります)
 と、曇った胸で、云ってみた。そして、月丸へは
(妾の心は変りませぬ。櫛の有無で、決して変りは致しませぬ。貴下も、妾の、兄へ尽すこの心が判って下さったなら、叱りはなされますまい。綱手の、今の辛い心を、察して、赦して下さりませ)
 と、詫びた。
 下女中の、持って戻って来た金に、己の金のありったけを加えて、綱手は、蔵屋敷の門を出た。
 小太郎の宿は、横堀の舟着場所の一つになっている高麗橋の川沿いの家であった。
 橋の上へ来ると、早船は、目印の旗を立て、伏見通いのは、大きい体を横づけにして、川岸いっぱいに、幾十艘も並んでいた。
 柳の植わった岸には、木の下に、大きい荷がいくつも捨ててあるし、岸から歩み板が、幾十枚もかかっていて、船頭が、旅客が、口々にざわめいていた。
 いろいろの講中の札のかかった、軒の低い、だが、横に広い、宿の暗い土間へ入ると、忙がしそうに、家中を往来していた女中が、番頭が、一時に、綱手を見た。
「お着きやす」
 と、云って、一人の番頭が出て来た。綱手が、何も云わぬ先に
「御一人様で――御一人様で」
 と、つづけざまに聞いた。

「さあ――何んと致すべきか」
 小太郎は、腕組して、川沿いの障子近くに、片膝を立てて凭れていた。明るい障子に、水の影が、揺れていた。
「存じておろうが、大殿は、近々、ここを御通行になる。その節、同志の者に逢うて、談合して、国へ戻ってもよし、また――」
 と、いって、小太郎は、綱手を、じっと見つめて
「父上を討った牧仲太郎は、江戸におろうがの」
 と、聞いた。綱手は、眼を伏せて
「はい」
 と、答えた。
「牧が、江戸におろうなら、まず、こやつを討つのが、順序であろう」
 綱手は
「さあ」
 と、答えた。牧を小太郎に討たせたくもあったし、討たせたくなくもあった。小太郎が、牧を討たぬと判れば、月丸も、小太郎を討とうとはしないであろうし、自分の苦しさは、半分消えると、思った。
「それが、物の順じゃ」
「でも、江戸にいなさるか――」
「調所が参った上は、居ろう。調所が死んでも、未だ江戸は離れまい。わしの推察では、益満が、江戸へ戻っておるにちがいない。彼奴の手で、仲太郎を討たれては、わしの弓矢が廃《すた》る」
 小太郎は、独り言のように云った。
「兄様――それから、路銀は?」
「路銀? 持っておるぞ、腹巻に入ったままであるし、義観和尚から、五両もろうた」
「妾も――」
 綱手は、小さい包を出して
「都合して参りました。旅には、何程あっても入用なものゆえ――」
 と、小太郎の前へ、差出すと共に、胸がつまった。
「いいや――有難いが、お前が持っている方がよい。わしは、何んとかする。お前は、女で一人じゃ。まして、敵の中にいて――収めておくがよい」
 小太郎の、綱手を、信じていて、可愛がってくれているのが、綱手には、悲しかった。
(兄は、何も知らない。自分のしたことを、考えていることを、何も知らない。自分は兄を欺いているのに、兄は、自分を昔のように可愛がっていてくれる)
 と、思うと、涙が滲み出てきた。
「何を泣く、泣いて戻る父か――」
「ええ?――泣く?」
 綱手は、固い笑《えみ》を、脣へ上げて
「ふっとして――」
 と、一言いったが、胸の中は、涙でいっぱいであった。
「邸は、時刻が、厳しかろう。戻ってよいぞ。調所が死んだのでは、最早、邸におることもないが、母上と相談して、すぐに、又蔵にでも迎えに来てもらうよう、飛脚を立てよう。無事なのが、何より――」
 小太郎は、心から嬉しそうであった。
「脚は、少し不自由じゃが、剣は、真剣に場馴れて、人には譲らぬぞ」
 綱手は、月丸が、小太郎の腕前のことを、いつか聞いていたことを思い出した。そして、何かしら、二人の間に果合でも始まるように感じた。
「何んとしても、江戸の方へ?――国許へ戻って、同志の方なり、母上なりに――」
「それは、牧を討ってからでよい」
 小太郎の江戸へ戻る決心は、変らなかった。綱手は、これが、兄との一生の見納めだと思った。せめて、兄の、嬉しそうな顔を、心に残しておきたいと、じっと、顔を眺めていた。
「何を見ておる。少し、痩せたであろうが」
 と、小太郎は、頬を撫でて、微笑した。綱手は、抱きしめられて、思いきり泣いてみたかった。

 斉興、国許への旅中、大阪へ立寄る、日取は――と、江戸から知らせて来たので、大阪蔵屋敷は多忙であった。
 塀、壁の修繕、植木の手入れ、調度、器具類の掃除、掛物、什器《じゅうき》類の下調べ、邸の中も、蔵の中も、庭も、門の外も、廊下も、人影と、足音とが、動いていた。
 中島兵太夫は、障子を開け放して、植木人足の入っている庭を眺めながら、廊下に立っていた。綱手が
「お召しになりましてござりますか」
 と、廊下へ手をつくと
「浜村へ、縁付の一件じゃが、大殿、御越し前に片付けたい。と、申すのは、妹があろうがの、その方に」
「はい」
「その妹が、お部屋へ、無礼を働いた」
「あの、お由羅様に」
「うむ。調所殿の御取計いで、宿元下げ渡しで、けりはついたが、その方のことが、発覚してはおもしろうない。それで、今夜のうちに、堺へ参るよう、手筈を致してある。万事は用人が、心得ておるから、喜兵衛と、相談致すがよい」
「はい」
「月丸にも、そのことを、先刻申しておいた。離れにくい仲であろうが、よく聞きわけて、利発な子じゃ。忙がしかろう」
「いいえ」
「俯向いてばかり居らず、顔を見せてみよ。邸へ参ってから、又、一段と、美しゅうなったぞ、あはははは」
 綱手は、父の遺志に反《そむ》き、兄小太郎を裏切り、今また、自分のいったことを、その通りに信用してくれる、人のいい、この中島兵太夫を欺くのかと思うと、百城月丸との恋が、呪わしかった。だが、別れる気はなかった。
(月丸様も、お話を、お聞きなされた上は、出奔の覚悟を、なさって下さったであろう。邸の中は、人目が多いから、打合せはできぬが、自分が、邸を出て行くのを御覧になったら、後を追うて下さるだろう――いいや、いっそ、堺へ行ってしまって、月丸様と、このまま別れたら――却って、月丸様のために、よいのではあるまいか――確かに、それは、よいことにちがいないが、黙って、自分が、抜け出した後に、月丸様は、何うなさるかしら? 矢張り、出奔なさるであろう。さすれば、同じことじゃもの――思いきって、別れ話を、持ち出そうかしら?――でも――でも、お目にかかったなら、別れられはしない。別れられるものか?)
 綱手は、自分が何処に居るのかも忘れて、そんなことを、考えていた。
「退るがよい」
 兵太夫は、そういって、立上った。綱手は、周章てて
「いろいろと、並々ならぬ、お世話に、相成りましてござりまする。堺へ参りましてからも、後程のことも、くれぐれ、お願い申し上げまする」
 と、いいつつ、よくのめのめと、こんな※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]が、いえると、自分で浅ましかった。然し
「これも、恋ゆえ――」
 と、思った。
「うむ。浜村と、当家とは、只の間柄ではないから」
 と、いいつつ、兵太夫は、庭下駄を履きかけて
「寒うなった。国許は、暖かいが――」
 ど、独り言のようにいった。一人の侍が
「次の間の、飾り付けを致しましてござりまする。御見分の程を――」
 と、いって来た。それを、きっかけに、綱手は、重い心をして、重い身体を、立上らせた。

 侍女部屋には、誰も、居なかった。綱手は、呆然として、つづらに、凭れかかった。
(深雪が――無礼を働いた)
 綱手は、一目、深雪に逢いたい、と思った。涙が出てきた。
(何んな無礼?――邸外で、働いたのか、町の中で、働いたのか、それとも、奉公に上ってからか――一体、深雪は、何うして暮しているのだろう)
 そう思うと、益満の面影が、ぼんやりと、眼の底に浮んできた。
(箱根の山の中で、いつか、肩へ、手をかけた時――)
 綱手は、それを想い出して、独りで、顔を赤らめた。それは、益満への、思慕の心からでなく、自分が、人並よりも、淫蕩《いたずら》娘ではないかしら、という、疑いからであった。
(でも、世間で、十九といえば、子供衆のある人もあるのに――)
 そう、自分を弁解して見たが、長上《めうえ》の人の許しもなく、男に肌を許した、ということは、心の底に鉛のように、重くなって沈んでいた。
(妹は、もしかしたら、益満様の指図で、お由羅様を殺そうとしたのではないかしら)
 そう考えると、そういう気もした。
(危い、大外れたことを――益満様の教えそうなこと――)
 綱手は、深雪の、健気な仕業を称めるよりも、益満に、操られて、危い仕事をした深雪が、可哀そうになってきた。
(深雪に逢いたい。深雪に逢うて、深雪を浜村へとつがせて、一生を、安楽に、送らしてやったら)
 そう思うと、死んでゆく姉の自分として、ただ一つ、可愛い妹
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