大事であろう)
と、見送っていた。益満は、駕脇を走りながら
「何んと、小藤次殿」
と、振向いた。
「ええ?」
「琴平、舟々って唄を、御存じかな」
[#ここから3字下げ]
琴平《こんぴら》、舟々、追手に帆かけて
ひゅら、ひゅっ、ひゅっ
廻れば、讃州、阿呆のごとく
琴平、小藤次は、大工上り
[#ここで字下げ終わり]
「如何でござるな」
[#ここから3字下げ]
真平、御免御免
お尻に帆かけて
ひゅら
ひゅっ、ひゅっ、ひゅっ
[#ここで字下げ終わり]
益満は、その唄に合せて、尻を、左右へ、ひょこひょこと振った。深雪は、駕の中から、それを見て、袖を噛みしめて、俯向いた。駕屋が、声を立てて笑った。
小藤次は、益満の人間と、手並とを、人の噂に聞いてはいたが、その突飛な振舞を、何んと考えていいか、判断がつかぬし、その人を馬鹿にした、益満の後方から、従いて行く、自分のことを考えると、一体何う処置していいのか、判らなくなってきた。口惜しさと、憤りとの上を、擽《くすぐ》ったく撫でられているようで、何処までついて行くのか? 何処で離れていいのか? 一体離れたものか、このまま益満の行くところまで、ついて行くのか、ついて行ったなら何うなるのか、離れてしまったなら、深雪は何うなるか?――
(畜生め、一番、後方から斬ってやろうか)
とも、考えたが、それは考えただけであった。
「何うじゃな。上手であろうがな。ひゅっ、ひゅっ、ひゅっ、ひゅっ」
益満が、又、尻を振った。小藤次は、汗を滲ませて、刀を片手で押えながら、呼吸を荒くして走っていた。
「そこを左へ」
益満が、駕屋へ指図した。左へ折れると、片側は、寺で、片側は、草原であった。
「原を突切って」
駕屋が、
「井戸へ気をつけろ」
と、叫んだ。益満が
「この辺は、夜、追剥《おいはぎ》が出るでのう」
「へい」
「昼間、人を斬っても、その古井戸へ投げ込んでおいたなら、判るまい」
「そりゃ、知れっこありませんや」
益満は、小藤次へ、一寸振向いて、じろっと睨んだ。そして
「よし、ここで、ぶった斬ってくれる」
と、呟いた。小藤次は、周章てて立止まった。そして、汗を拭いた。駕も、益満も、どんどん走っていた。
(計られた)
と、思うと、恐怖心と、口惜しさとが、混乱した。小藤次は、離れて行く駕の後方を睨んでいたが、
(ここで見失っても手を分けて探せば、居所ぐらいは――)
と、思った。駕も、益満も、もう小半町近く離れてしまった。そして、ゆるゆる歩んでいた。
「覚えていろ、益満」
益満が、振向いて
「ひゅっ、ひゅっ、ひゅじゃ」
と、笑いながら、尻を振った。そして
「命冥加《いのちみょうが》な大工め。戻れ。又、機があれば、深雪にも逢えよう。深雪は、お前に、惚れたと申しておるぞ。その内、女から押しかけて参る程に、楽しみにして待っておれ」
そう云い終ると、すぐ、駕のあとから、走って行った。
「深雪っ、覚えていろ」
小藤次が、怒鳴った。そして、真赤な顔をして、脣を噛みながら、じっと、駕の小さくなって行くのを睨みつけていた。
駕は、原を出て、街へ入った。と同時に、軒下から、庄吉が出て来て
「うめえ工合に行きましたな」
深雪は、駕の中から、庄吉を、すかして見た。
「危うがすよ、師匠んとこは」
南玉の住居の長屋へ入って行く益満の後方から、庄吉が囁いた。
「この長屋は、義理が堅い。それに、燈台下暗しの譬《たとえ》で、一晩や、二晩は、却ってよい」
益満は、そういいながら、南玉の表を通りすぎて、長屋の突当りの右側まで、駕を入れさせた。
「ここが、隠れ家でのう」
駕から出た深雪が、益満が開けた戸口から入ると、薄暗い、空家のような何一つ調度とても無い家であった。
「寒い寒い。猿から、ちゃんちゃん借りて来い。質から綿入出して来い」
南玉が、そう唄いながら、両手に、薄汚い、模様のちがった座蒲団を提げて、ちょこちょこ自分の家から走って出て来た。そして、上り口に立っている深雪に
「御無事で、何より」
と、いって、庄吉に
「すぐ、火を持って来らあ。寒くなると、死んだ妻のことを思い出してなあ。嬶《おっかあ》、冥途から呼んで来い。綿入質屋から歩いて来い」
南玉は、唄いながら、火種を取りに戻った。
「師匠は、呑気だなあ」
と、いって、庄吉は、二人のあとから上って行った。
「さて」
益満は、坐らない内に
「深雪の始末」
そういって、刀を置いて、坐った。深雪は、その前へ、両手をついて、
「申訳ござりませぬ」
と、低い声でいった。
「いいや、由羅の仲間《ちゅうげん》共の話によると、由羅を刺そうとしたそうだの?」
「はい、そして、仕損じましてござります」
「それで囚われたのじゃな。この庄吉が、心配してのう。わしも、忍び込もうかとまで考えたが、仲間に鼻薬を与えて、聞き込むと、小藤次が、上手に立廻ったらしいから、何れ、と、待ち受けておると、案の定――」
「先生、あの尻振りは――」
「あはははは、見ておったか?」
南玉が、火種を持って上って来た。
「戸締りをしておいてくれぬか」
南玉は、火鉢へ火を入れていた。深雪は、益満が、戸締りといったのに、庄吉が立上りもしないので、ちらっと庄吉を見た。
「南玉、戸締り」
「ははっ――と、立上り」
南玉は、節をつけて、戸締りに立上った。
「深雪、庄吉は、腕を斬られた」
「は」
深雪は、益満が、何故そんな古いことを、改まっていうのか判らなかった。
「小太郎に折られた手首のことではない。ここから斬られたのじゃ」
「ええっ――それは? 何うなされまして?」
「いわば――」
と、益満がいうと、南玉が、戻って来ながら
「主への心中立かの」
庄吉は、俯向いて、淋しい、右肩を眺めていた。
「毒死致した調所、あれから、密貿易《みつがい》の証拠品を盗み出した。その時に、斬り落されたのじゃ」
「まあ」
「庄吉は――その証拠の品を、そちに与えて、公儀へ訴え出させる所存であった。浪人にされて、島津を恨んでおろう。それには、島津を倒すのがよい――と、調所の風評を聞いて、密貿易の証拠を盗ったのは、庄吉としては尤もな考えじゃが、そうもならんで、わしが、二三考えて、訴え出ることは出た。御家へ疵のつかんようにしてのう。調所は、そのために毒死したのじゃ。元兇の一人を討取った手柄は、庄吉が第一、然し、その庄吉は、――のう、庄吉、深雪に申そうか」
「じょ、戯談《じょうだん》を――」
庄吉は、右肩を動かし、左手で益満を止めた。
「思い切ろうか、切るまいかって、唄があらあ」
南玉が
「いっそ、死のうか、何んとしょう、身分ちがいの仲じゃもの、所詮、添われぬ縁じゃもの、チ、チン、過ぎしあの日の思い出を、胸に収めて遠旅にって、深雪さん、庄吉って野郎は、貴女に手柄立てさせたさに、腕を斬られっちめえやがったのでね、唐、天竺、三界《さんがい》かけての、素間抜け野郎でさあ」
深雪は、庄吉の真心を、前から、感じていないのではなかった。だから、腕を斬られてまでと聞くと、ひしひしと身にしみるようであった――だが、余りの情熱さに、薄気味悪くも感じられた。気の毒とも思ったし、可哀そうとも思ったが、それが、自分への恋からである、と考えると、斬られたことには御礼をいいたいが、庄吉を慰めるのは、厭な気がした。
「それで、深雪、そちも存じておろうが、大殿は、参覲交代にて、御国許へ参られる。調所の件で、延び延びになったが、一両日中には立たれよう。さすれば、万事は、国許でということになる。丁度幸い、南玉も、旅慣れておるし、庄吉も――この男は、返す返すも不運での」
「先生、そいつまでは、仰しゃらずに――お嬢さん、ちょいと、申し上げておきたいんは、あっしゃあ、色恋からじゃござんせんよ」
「※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]を吐け」
と、南玉が、鼻先で、指を庄吉へ向けた。
「色恋と、一口に、いってもれえたくねえんだ。そりゃ好きさ。好きでなけりゃ、出来る仕事けえ。だが、巾着切って、剽《ひょう》きん者さ――理窟はよそう。お嬢さん、あの富士春って、あっしの女、御存じでしょう」
「はい、いつか、一度、お目にかかりました」
「あいつめ、あっしの手は無くなるし、二人の仲あ、町内へ知れて、弟子は来なくなるし、近頃は、流しでさあ」
「流し?」
「そう、表口へ、べんべん弾いてくる奴がござんしょう」
「まあ、あんな稼業に――」
「で――」
と、いった庄吉の言葉は、微かに、湿っていた。
「いつまでも、彼女《あれ》の世話になっていたくはねえし、あっしも、御供をして、南玉と二人でお嬢さんを、お国許へ届けようと、もう、この間っから、相談しておりましてね」
「小父様、それは、本当でござりますか」
「小太郎も探したし、それに、深雪――八郎太殿は、亡くなられたが、存じておろうのう」
「父《とと》様が? はい」
「不覚の涙を流すでないぞ。赤の他人の庄吉が、腕を斬られてまでも尽しておるのじゃ。忠義のために殺された父御《ててご》へ、涙を流すなど、草葉の蔭で嘆かれるぞ。喜べ。一家、一族、悉く殺されても、意地と、忠義を貫くのが、武士の慣わしじゃ」
深雪は、俯向いて、そっと、目へ袖を当てた。
「供養にならぬ涙を流そうより、大阪表へ参って、又国許へ参って、手頃の仕事で、父の志をつげ。よいか。わしは、暫く、江戸の同志と謀ることもあり、又天下のために策謀すべきことも起っておる。齢端行かずとも、もう一人立ちはできよう。もし、進退|谷《きわ》まらば、死ね。いつまでも、小娘ではない。仙波八郎太の子として、これまでの教訓、よく噛みしめて、物に当れ。よいか。南玉と、庄吉は、付人じゃ。然し、頼りにはするな」
「頼りにするなは、ひどうげすな」
益満は、口を結んで、俯向いている深雪を、じっと、見下ろしていた。
(いつか見た――今まで、まざまざと残っている、あの父の血塗《ちまみ》れの夢は、正夢であった)
と、思うと、悲しさと、憤りとが、いっぱいになってきた。
「不束《ふつつか》でござりまするが、御教訓、忘れは致しませぬ」
「うむ」
「して、父上は、如何《いかが》して、亡くなりましたか。いつかの夢に、斬られている姿を、見ましたが。それから、御師匠様からも、それとなく非業の死を遂げたらしいと、聞きましたが、矢張り――」
「その通り――」
益満は、腕組をしたまま頷いた。南玉と、庄吉とは、顔を見合せた。
「争えんのう、父娘《おやに》だ。どろどろっと出たんだ」
「対手は、牧仲太郎。噂に聞くと、三十人余りの中へ、小太郎と二人で、斬込んだらしいが――」
「兄上は? そして?」
「小太郎は助かったらしいが、消息が判らぬ。わしが、叡山へ馳せつけたのは、丁度その翌日。牧もおらぬし、小太郎を探したが、見つからぬし、牧のあとを追って、江戸へ戻って来る途中、この庄吉に逢ったのじゃが――」
「あすこで、お目にかからなかったら、あっしゃ死んでおりましたよ」
「御教訓に従いまして、上方へ参ります」
「路銀、支度のことなど、調えておいた」
「足りないところは、張扇《はりおうぎ》から叩き出す」
と、南玉が云った時、南玉の表口あたりで
「師匠――おおいっ――留守かい」
と、叫びがした。三人が、表口の方を見て、不安な眼付きをした。益満が
「小藤次の奴輩《やつばら》だの」
と、笑った。
「留守だよ」
南玉の向い側の人が云った。
「何処へ行ったい」
「あいつのことだから、判んねえや。寄席で、下足でもいじってやすめえか」
「深雪って、娘が、来なんだかい」
「ここの長屋は、皆、下地っ子に売っちまって、娘は只今、お生憎様だ。そのうち、こしらえておかあ」
戻って行く足音がした。
「向いの平吉、科白《せりふ》がうめえや。そのうち、こしらえておかあ、と来やがった」
「だって、商売が、新粉《しんこ》細工じゃねえか」
「あっ、そうか」
「旅に立つのは、明朝、明けきらぬうちに、南玉、いつでもよいのう」
「この張扇一本、打出《うちで
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