、妹の手前だって、お前に、振られた、振られたが、命は助けてやったとは、真逆いえねえじゃねえか」
深雪は、小藤次の言葉を、半分聞きながら、あとの半分では、この場の処置と、父の死のこととを考えていた。そして
(後は、とにかく、この場は、承知しておいて、とにかくも、ここを逃げられるものなら、一旦は逃げ出さなくては)
と、考えた。
「いろいろ、と、込入った事情もあろうが、とにかくだ、人間って奴は何が大切だって、出世が大切だ。大工上りでも、出世すりゃ、先祖代々、馬廻りで候のが、ぺこぺこお叩頭すら。お前が、俺の女房になってみな、化粧料だけで、五十石は、俺、妹からむしり取ってでも、差上げちまうよ。御供女中が、少うても三人つかあ。外へ出るにゃあ、女乗物だ。お前は、武士の娘で、朝から晩まで、御座り奉るで育ってきたから、職人気質は、下品に見えるだろうが、これで、付合うと、なかなかいいもんだぜ」
襖の外には、二人の侍女が、深雪の見張として、坐っていた。小藤次の、時々の大声が漏れて来ると、盗み笑いをしていた。
「俺あ、男の意地で、うんと云わせるんなら、ふん縛っといても、思いを遂げるぜ。俺が、このままじゃあ逃げるかも知れねえから縛って、猿ぐつわをはめてと、一言云や、それでいいんだ。俺あ、そんなことはしたくねえ。俺が、首ったけなら、お前が、臍ったけ、好いてくれりゃあ、只今死んじまってもええと、こういう御心底だ。うん、と承知してくれりゃあ、後とも云わずに、四国町の家へ連れて戻って、内祝言、高砂やって奴は、ちゃんと、美々しくしてからのことにして、今夜の内に、女房だ。ええ、深雪、その方が、当節あ利口だろうぜ」
「ええ」
深雪は、微かに、答えた。小藤次が
「本当かい?」
「ええ」
「判ったかい」
「はい」
「ええが、はいになった。しめたっ」
小藤次が、笑って、おどけた手付《てつき》をすると同時に、深雪も、笑った。自分で、突いたが、厚着のため、一寸、肌へ傷ついただけの疵が、それでも、安心すると痛んでいるのが、感じられてきた。
「一人かい」
と、次の間の女中に聞いて、小藤次は、足早に、お由羅の居間へ入って行った。お由羅は、腰元を対手に、双六をしていた。
「何か、用かえ」
「あの女のことで――」
小藤次が、坐ると、腰元が、賽《さい》を振る手を止めた。
「次は、梅ヶ枝かえ。お振り」
お由羅は、小藤次へ、振向きもしないで
「そうれ、大井川――ゆっくり、お休み」
「あの女のことで」
「寝首を掻かれんようにの」
お由羅は、濃い青磁色に、紅梅模様を染めて、蕋《しべ》に金銀糸の縫いのした被布を被ていた。堆朱の台に、古金襴をつけた脇息に、片肱をつかせて
「調所の供養じゃと思うて、あれの、命を助ける程に、礼をいうなら、仏に申し上げや」
「ふむ」
小藤次は、腕組をして、賽のころがるのを見ていたが
「拙いな。一寸、貸してみな」
振る番に当った女が、賽を渡すと
「四の目と出りゃ、府中か。それ、こう持って、こう振るんだ――ほら」
註文の四が出た。
「まあ、お上手に、遊ばしますこと」
三人の侍女が、小藤次を見て称《ほ》めた。
「そんなことだけが取柄」
「それで、今から、宅《うち》へ、連れ戻りたいが、ええかい」
お由羅は、脇息から肱を放して
「煙草」
と、いった。一人が、銀の延煙管を取上げて、煙草をつめた。そして、お由羅に渡すと、一人は、高蒔絵した煙草盆を、手頃のところまで、差出した。
「一枚、役者が上ゆえ、気をつけぬと――」
「それくらいのことは、心得ており申す」
腰元が、俯向いて、笑った。
「自分では、心得ており申しても、先方は、もっと心得ており申して――」
と、お由羅が、いうと、腰元は、声を立てて、俯向いて、笑った。
「それくらいのことあ、いくら、何んでも――」
「心得ており申しますかの」
腰元の一人は、胸を押えて、横になって笑いこけた。
「台無しだ。とにかく、心配してもらわんでも、うまく料理するよ。高が小娘|一疋《いっぴき》ぐらい、いざとなれば、指の先で、ぴしっ――」
「また、下卑た――」
お由羅が、軽く睨んだ。
「一言お前に届済みにさえしておきゃあいいんだ。後で叱られると、うるせえから――」
「叱られるようなことさえ為《な》さらなんだら、誰が、好んで叱ります?」
「はいはい、何うも、皆様、御邪魔様で――では、深雪を頂戴して参じます」
小藤次は、立上って、一足踏み出しながら
「何れ、支度金を、その内に――」
と、小声で、口早にいって
「次は、誰が振る役」
と、いっている、妹の声を聞きながら、出て行った。そして、廊下づたいに、物置部屋へ来ると、左右に、坐つている侍女へ
「女を、連れて参る」
厳格な顔であった。
「お上へ、伺って参りますから」
「早く致せ」
侍女の一人が、お由羅のところへ、許しを得に行った。小藤次は、襖の中へ入ると同時に、にたにた笑って
「さあ、大手を振って戻ろうぜ」
と、深雪にいった。深雪は、俯向いたままであった。
小藤次は、一人の供と、深雪とを連れて、門を出ると、心の底に、嬉しさと、誇りとをいっぱいに湧き立たせながら、むずかしい顔をして、往来の真中を歩いた。人々は、深雪を眺め、振返って行った。
(別嬪だろう。これが、明日から俺の女房になるんだぜ。丸髷に結ってな)
人通りが無くなると、小藤次は、にやっと、ほくそ笑んでみた。そして、町人の態度で、やさしく
「町籠は、すぐ近いから」
振向くと、深雪は俯向いて歩きながら
「いいえ、それには及びませぬ。歩き慣れて、おりますから――」
「歩き慣れているからって、せいぜい邸の中ぐらいのものだろう。そろりそろりと参られましょうで、四国町へ行く内にゃあ、日が暮れらあ」
小藤次は、人が来ると、すぐ、澄まし返って、武士らしくなった。深雪は
(とにかく、邸は出たが、このまま小藤次の家へ行けば、邸の内で押込めに逢っていたよりも、危い)
と、思った。だが、何もすることもできなかった。曇った心の中に、四国町の街景色、小藤次の家、薩摩屋敷、自分の住家などが、幻になって、浮き、沈みした。
(行けば、又、何んとか、その場逃れのことをいって――それに、南玉の家にも、庄吉のところにも近いし――)
そう思うと、この近くの何《ど》っかから、庄吉が、自分が、こうしているのを、見ているように思えた。
(親切な庄吉――)
深雪は、四国町の近くから、四国町を、なるだけ、ゆっくりと歩いていたなら、きっと、南玉か、庄吉かに見つかるであろう、二人が見ないでも、誰かが見て、二人に話をしてくれるであろう、二人が聞いたなら、何んとかしてくれるにちがいない、それが、その夜の出来事になるか、二日目になるか? 何うしてくれるか、判らないが――それまで、小藤次を防いでいたら――と、思った。だが、万一の時、何うして、小藤次の手を、振切るかを考えると、身体中が、寒くなってきた。
(あの下賤な職人が、大勢いて――)
と、思うと、こうして、小藤次と歩いているのでさえ、身体が汚れてくるように感じた。
(だが、この人は、悪い人ではないし、本当に、妾を想っているらしい。でも、妾は、心から嫌いなのだから――堪らない、男臭い臭、下品な物のいい方、卑しい眼付――)
と、思った時
「喜平、駕がある。あつらえて参れ」
と、小藤次が、供に命じた。
「へい」
駕が、一梃、火の番小屋の横に置いてあった。柳の木と、火事見|櫓《やぐら》とが、その上に、聳えていた。
「いいえ、歩きます」
「戯談じゃねえ。四国町まで、三日もかからあ、そんな、あんよじゃあ――」
と、声高に、云った時、火の番小屋の中から、駕屋が、手拭を提げて、御辞儀しながら出て来ていた。
(駕に乗っては、四国町の辺の人に、自分が、小藤次の家へ入るのを見つけさせる訳には行かない。それを見つけさせておかなかったら、誰も、庄吉へ、南玉へ、知らしてはくれないから)
深雪は
「要りませぬ。妾、歩いて参ります。妾一人で乗るのは勿体のうござりますから」
「何をいう。手前は、高が大工でござります。貴女はお姫様。えへっへっへってんだ。いや、もそっと参ると、又見つかるから、その時にゃ、わしも乗る。遠慮せんでよい、先ずお乗り」
「いいえ、では、小藤次様が、お先きに」
駕屋が、小走りに、走って来た。そして、駕の垂れを上げて
「何《ど》うぞ、旦那様」
「いや、乗るのは、女じゃ」
駕屋は、御殿風のしいたけ髱《たぼ》の深雪と、小藤次とを見較べて
「じゃあ、お腰元様」
と、御辞儀をした時
「小藤次、御苦労」
と、小藤次の後方で、声がした。
駕へ手をかけていた深雪が
「ああっ」
と、低く叫んで、振向いた。と、同時に、小藤次が、一足退って、刀の柄へ手をかけた。供の小者は、小藤次の後方で、脇差を握った。街の人々が、一時に、四人を眺めた。
「御苦労」
益満が、笑っていた。小藤次は、黙って、柄から手を放した。そして、益満を睨んで
「御苦労?」
益満は、それに答えないで、深雪に
「参ろう」
深雪は、身体を顫わせながら、運命に感謝した。
「はい」
二人が、立去ろうとすると
「待てっ」
「ははあ、何か用かの」
益満は、深雪を、自分の背後へやって
「大工守利武殿には、何か某に御用ばしござるかの」
「人の女を、何うしやがるんでえ」
「貰うて参る」
「貰うて参る?」
小藤次は、藩中一の暴れ者に対して、心の中では脅えていたが、のめのめ引きさがるのは口惜しいし、深雪を手渡すのは、それよりも惜しいし、見ている人々の手前も、このままでは済ませなかった。頭が、じんじん熱くなって来て
(この野郎、何うしてくれよう)
と、叫んでいたが、手は出せなかった。出したくて耐えきれぬまでに、憤りと、口惜しさとが、こみ上げていたが
(うっかり手出しはできぬ)
と、思ってもいた。
「人の女を、畜生っ――喜平っ、一っ走りして、手を借りて来い」
「ようがす」
小者は、益満を睨んで、脇差を押えて、邸の方へ、走って行った。
「旦那、駕は、何うなりますんで――」
駕屋が、小藤次に、無頼漢らしい物のいい方をした。
「黙れっ」
「黙れって、呼んでおいて、旦那」
駕屋は、小藤次の口の利き方で、怪しい侍と考えたらしかった。
「小藤次、乗って参ればよいではないか、遠慮せずに――大身の身じゃ。拙者共は、歩いて参る」
「喧《やかま》しいやい――深雪、おのれ、益満と行く気か」
深雪は、益満の背後から、顔も出さなかった。
「約束を破るのか」
「旦那、駕は、一体――」
「この、獣っ、黙って引込んでろ。話ゃ、後だって、出来らあ」
「獣?――獣たあ、何んでえ。駕をもって、遊んでるんじゃあねえや」
「そうとも、駕屋、しっかりやれ。小藤次、貴公にゃ手頃の対手じゃ。一番、大工上りの手強いところを見せてやれ」
「何っ」
小藤次は、刀へ手をかけないで、腕捲りをした。
「殺されたって、男の意地だ。女は、やらねえ。やいっ、深雪、このまま逃げりゃあ、お尋ね者の益満と一緒に、ただじゃ置かねえぞ。おとなしく一緒に、俺と――」
と、小藤次が、云った時、駕屋が、向う鉢巻をして
「乗らなきゃあ、いくらか、酒手を貰おうかい。えっ、旦那、二本差していて、人を呼んでおいて、駕屋、いらねえじゃあ、旦那の方が、獣でげすぜ」
益満が
「駕屋、この娘を乗せて参れ」
「へい」
「三田四国町、大工小藤次のところまで――」
そう云って、懐から、銀を渡した。
「何を――」
「利武殿の許へ、送り申そう。ついて参られるがよい」
小藤次は、益満を睨みつけていた。深雪が、ためらっているので、眼で合図して、乗せると
「駕屋、急いでくれ」
「合点だっ」
駕は、小走りに走り出した。益満も、つづいた。小藤次は、何う考えていいか、判らないで、ぼんやりしながら――然し、駕が走り出すと、自分も、その背後から、走るより外に、方法が無かった。
往来の人々は、走って行く駕と、人とを見較べて
(何か急用か、
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