わしは、この身体で――闘えぬであろう」
 三人は、玄白斎の力無げに、俯向いて云っている言葉を聞いて、返事が出来なかった。
(そうなるかもしれぬ)
 と、三人とも感じた。だが、自分達の力では、何うすることもできなかった。ただ、玄白斎が、どうしてそれを感じたのか? こうして、物を云っている老師が、何うなって死ぬのか――三人は、それが、真実とも思ったし、あり得ぬこととも思った。
「牧――その力を――」
 玄白斎が、呟いた。人々は、玄白斎が、夢でも見ていたのではないかと、感じた一刹那、さっと、玄白斎の顔に、赤みがさすと
「南無諸天、十方世界、円光の内に坐して、光明魏々たり、願くは、分段同居正邪の闇を照らさせ給え」
 何処からか、不思議の力の入って来る玄白斎の声であった。同時に、病に伏していた老人と思えぬ早さで、戒刀が閃いた。
「南無、赤身大力明王、邪修を摧破して、剣刃下に伏滅せしめ給え。いかに、牧っ」
 空間を睨んだ玄白斎の顔は、精気と、凄気とに充ちていた。三人の弟子は、膝を掴み、唾を飲んで、じっと、凝視めた。

 三人には、聞き取れる言葉もあったが、聞き取れぬ言葉もあった。
 玄白斎は、口早に、何かを叫んだり、口の中で呟いたりしながら、苦痛に耐えぬように、眉を歪め、手を顫わしていた。そして、半分立上って、火炉の中へ、倒れかからんばかりに、憤った眼で、何かを凝視めながら、刀を突き出すかと思うと、肩で、荒い呼吸をしては、俯向いてしまった。
 三人は、眼を見合せた。和田が、壇のところへ立って
「先生」
 と、云った。そして、顔を覗き込むと、脣を噛み切ったらしく、血が流れていた。和田は、振向いて
「いかん」
 と、二人の顔を見た。二人も立って来て、左右から、手をかけた。その刹那
「不心得者っ。知己は、千載に待って、猶|空《むな》しっ」
 二人のかけていた手から、恐ろしい力で立上った。高木が、壇へ片脚をかけて
「先生」
 玄白斎は、右手の刀を、振るように、顫えるように、上下させながら
「死ねっ、死ねっ、死ねっ」
 つづけざまに絶叫した。そして、左手にかけた珠数を空間へ抛りつけたはずみに、火炉の中へ、片足を突込んだ。高木が、素早く、飛び上って、よろめく玄白斎の背後から抱えた。と同時に、和田が、袖を掴んだ。
 玄白斎は、二人を引きずるように、身体を延して、血の滴っている脣を顫わせて
「知己を失って、悪逆を重ねて、それが、兵道の統棟《とうとう》かっ」
 部屋の中のどっかに現出している牧の生霊《しょうりょう》を、叱責しているのであった。二人は、袖を持っているくらいでは、引きちぎれそうなので、玄白斎の帯と、左手とへ、手をかけた。
「先生――先生っ」
 二人は、力を出して、火炉の中から、引戻そうとした。だが、玄白斎の痩せた身体の力は、二人の手に余った。二人は、不思議な力に、脅えるような、気持になってきた。
「乳木が消える」
 市助が、一人に、こう注意した刹那、二人の手の内へ、倒れかかる枯木のように、玄白斎が、凭れかかった。二人が、手に力を入れて、支えると、今まで、あの力の籠った声を出し、あの力で二人を引きずっていた玄白斎が、眼を濁らせ、口を半分開いて、荒い呼吸をしているだけになっていた。
「先生、如何なされました」
 玄白斎は、力のない眼を開くと、すぐ、元のように、空間を見つめた。そして、何か口の中でいっていたが、
「未だっ」
 と、叫んだ。二人が、押えようとした瞬間、玄白斎は、戒刀を振りかざすと、凝視めていた一点へ、斬りつけた――二人が
「危いっ」
 と、絶叫した。同時に、玄白斎は、段木の燃えた中へ、踏み入って、よろめきながら、刀を取落していた。二人が、倒れかかるのを、抱きとめて
「先生」
 と、叫んで、抱き上げると、二人が、よろめくくらいに、急に身体が軽くなっていた。
「いけないっ。皆を呼べっ」
「医者を」
 と、二人が怒鳴った。一人が、走って出た。玄白斎は、灰白色の頬をして、二人の腕の中に、眼を閉じていた。

 床へ横たえられた玄白斎は、そのまま眼を閉じてしまっていた。ただ、呼吸だけは微かに通っていたので、家人、弟子達は、枕頭、次の間に詰め切っていた。
「危いか」
 と、医者に聞くと
「何処と云って――これと云って悪いところもないが、衰弱が烈しい」
 医者は、首を傾けた。市助が
「あまりに、御気力を、お使いすぎになったのだろう。実は――」
 と、呪法のことを話すと
「そうかな、成る程」
 医者は、玄白斎の顔を、じっと眺めていたが
「御城内なり、御親族なりへは、知らせた方がよいの。ただの衰弱ではない。お齢《とし》が、お齢ゆえ」
 玄白斎の白い髯は、いつの間にか、光沢を失っていたし、眼の縁に、薄黒い影が滲み出し、頬の艶が無くなり、咽喉仏の骨が、とげとげしく突き出していた。
「保《も》つまいか」
「さあ――」
 仁十郎と、医者とが、こう云った途端
「うーむ」
 玄白斎の頬に、血の色が差して、眼を開いた。然し、その眼には、もう生気が無くなっていた。玄白斎は、じっと、その疲れた眼で、天井を眺めていたが、仁十郎の方へ一寸、眼を動かして
「刀を――」
 と、云った。
「はい」
 仁十郎は、何故、刀を持てと云ったのか判らなかったので、返事をしたまま、立たなかった。玄白斎も、そう云ったまま、暫く、黙って、眼を閉じていた。
(平生から、御壮健な方だから、このまま、よくなればよいが――)
 と、人々は思った。
「刀」
「はい」
「何故、持って参らぬ。このままわしを、不忠者として、殺す所存か」
 玄白斎は、一寸、頭を仁十郎の方に向けて睨みつけた。
「只今」
 仁十郎が立上ろうとすると
 一人が床の間から、刀を持って来た。仁十郎は、それを枕辺に置いた。
「起してくれんか」
 医者が
「老師、それは、なりませぬ。このまま、このまま」
 手を出して、蒲団の上から押えた。玄白斎は、力無さそうに、蒲団から、両手を出して、その手を除けて
「わしを、生かそうと――それは、忝ないが、無駄じゃ」
「左様なことを――」
「仁十、後方から、抱き起してくれ。もう、体力も、気力も無うなった。ただ未だ、腹は――切れる」
 人々は、はっとした。刀を持って来いという意味が、初めて判った。
「先生、腹を召すなどと――」
 玄白斎は、それに答えないで、身体を横にして、自分で起き上ろうとしかけた。仁十郎と、市助とが、左右から
「先生」
 と、云いつつ、抱きかかえた。
「長年わしの下におって、わしの心が、判らんか」
 玄白斎は、そう呟きつつ、じりじり身体を立ててきた。

 玄白斎は、床の上へ坐って、人々の顔を見廻した。それから
「皆、よく聞け」
 と、云ったまま、咳き入った。二人が、背を撫でた。
「わしは、見る通り、最早、己一人で、起き直る力も無うなった。又――」
 肩で、大きい呼吸をして、暫く、黙っていたが、女中の運んで来た薬湯を、仁十郎の手から一口飲んで
「人に優った気力も、使い果してしもうた。兵道家として、最早、命数が尽きた。抜け殻の身じゃ」
 静かな、というよりも、墓穴の中から、話しかけている人の声のように、微かであった。
「最早――御奉公は勤まらぬ」
 玄白斎は、俯向いて、ゆるやかに、首を振った。
「勤まらぬのみではない、不忠者にも、なった。牧の性根を、見損じた。あれを――」
 玄白斎は、仁十郎を見た。
「久七峠で、斬らなんだ――わしの、生涯の失策であった。わしは、あれを赦してやったが、あいつは、わしを赦さない。わしの、老いた気力を見込んで、呪殺しようとしおった。わしは、呪法争いに負けた」
 人々の顔に、微かな殺気が立って来たが、誰も、口を利かなかった。
「わしが、精力を尽し果して倒れるからには、斉彬公の御命数も危い。これ、皆、この玄白の至らぬ業じゃ。わしの罪じゃ。彼奴《きゃつ》を赦したわしの落度じゃ」
 玄白斎は、俯向いた。
「一つは、その、落度を、君公に詫びる上から――二つには、わしが兵道家としての、最期を、飾りたいがため――腹をする」
 人々は、玄白斎が、こう云ったのを、悲しく聞いていたが、誰も、この枯木のような玄白斎に、腹を切る力があろうとは思わなかった。それで、とにかく、一生懸命になだめて、身体を元通りにしたなら、と、考えていた。
「刀を――」
 と、玄白斎が、手を延した。一人が
「いいえ、先生、御身体を、もう一度――」
 と、まで、云うと、玄白斎は、鋭く睨みつけて
「たわけ者めがっ」
 と、怒鳴った。そして
「仁十郎、貸せ」
 仁十郎は、玄白斎の背に、軽く、手をかけて、身体を支えていたが
「先生、それは――」
「か、貸さぬかっ」
 玄白斎は、立上りかけた。一人が、刀を、自分の膝の上へ持ち上げた。医者が
「とにかく、御本復なされて――」
 玄白斎は、黙って、痩せた手で、仁十郎の手と、市助の手とを、狂人のように打ち払った。そして、よろよろと、立上ると
「牧っ」
 と、叫んだ。手を顫わして
「現世のみならず、永劫の争いじゃぞ。共に、無間《むげん》地獄に墜ちて、悪鬼と化しても、争うぞ。一旦の勝を、勝と思うな。三界、三世に亙《わた》って争うぞ」
 いつもの玄白斎の気魄の充ちた声であった。だが、そういい終ると、よろめいた。二人が抱えると
「刀を――げ、玄白斎の最期の血を、魔天に捧げて、あの世の呪いとなしくれる。か、刀を――」
 人々は、悪霊に憑《つ》かれたような玄白斎を、じっと見つめたまま、息を殺していた。
「か、かさぬかっ。己ら、この玄白を見殺しにするかっ。放せっ、仁十っ、市助っ」
 二人を振切るはずみ、玄白斎は、朽木の如く、倒れかかった。人々が
「あっ」
 と、叫んだ。三四人が、手を出して支えようとした。
「この毛を、悪神に供え――」
 玄白斎は、微かに、こういって、自分の頭の毛を掴もうとしたが、もう、手に力がなかった。
「この舌を――」
 人々が、抱き上げると、玄白斎は、舌を噛んでいた。舌が半分、口の外に現れていたが、もう噛み切る力もなかった。白眼を見せて、灰色の顔に、死の蔭が、濃く彩っていた。

  三人旅

「のう、深雪、賞めるぜ、俺《おいら》あ――惚れた弱味ってこのことだ。お由羅あ、俺の実の妹で、俺を、この身分にしてくれた、何んだなあ、旦那様みてえなもんさ。そいつを、刺殺《さしころ》そうなんて、八つ裂きにして、串焼きにしてえってのが、人情だが、惚れた人情って奴あ、又、人情の中でも別だわな。その女を、お前、助けようってんだ。何うだい、俺の、真実が判っただろうがな」
 小藤次は、深雪の押込められている、薄暗い、じめじめした、鼠の騒ぎ立てる物置部屋の中で、うずくまっていた。深雪は、その前に、膝を揃えて、俯向いていた。薄暗い中に、厚化粧の顔が、冴々として、浮んでいた。
「俺が、必死の命乞いをしたから、そこは実の妹のことだ、いいようにしろって、まあ、命に別条は無え。然し、なあ、深雪、水心あれば、魚心ってんだ。魚心あれば、水心――まあ、何っちでもええやな。憎さが――そうじゃねえ、可愛さ余って、憎さが百倍。こうまでした俺の気を察しねえで、首《かぶり》を、横に振る分にゃあ、俺も男だ、なぶり殺しに殺すか、仲間部屋へ連れ込んで、念仏講にした上で、夜鷹宿へたたき売るか。人間、出ようによって、仏にもなりゃあ、鬼にもならあ――俺あ、お前の生命乞いをして、寿命を、三年縮めたぜ。妹の怒るのも無理はねえや。初めっから、企んで、入り込んだことなんだからのう。それに、俺が、仙波の娘と知ってのことだろう。ぐるになって、妹を殺すつもりかって、叱られたのにゃあ弱ったよ。しかし、流石、薩摩七十七万石を、手玉にとる妹だけに、捌けてらあ、小藤次、お前、あの女に、惚れているんだろうって、図星だね。注意おしよ、一筋縄で行く女じゃあねえから、いうことを聞かして、寝ている間に、咽喉でもやられたら、何うする気かえ、ときたよ。こいつも尤もだ。仕方ねえから、何あに、あっしも男だ、男の力できっと口説き落しまあす、と、大言をはいて来たが
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