打明けもせなんだが、綱手、わしは、お身と契ったからとて――わしは、わしには、お身の父の同志にはなれぬ。不義の味方はできぬ。わしは、八郎太殿が不忠者だと信じている。いいや、もっと、驚くことを決心しておる。それは――小太郎を討つ」
「ええ」
「あの山の夜、小太郎を討ちに参った。契った上は、わしの妻、妻は、夫に従うものと、説き伏せるつもりであったが、あの老僧のために失敗《しくじ》った。お身は女ゆえ家中のことは判るまいが、斉彬公の御振舞は、よろしくないのだ。それで、それに味方する人は不忠者じゃ。小太郎ものう――わしは、何もかも申そう――欺いた。いいや、こう申した上は、欺いてはいぬが、お身とは仇敵同士として、父の子として――いいや、島津家の家臣として、飽くまで、わしは、父につく。正しい父につく。然し、お身は、恋しい。お身も、苦しかろうが、わしも、苦しい。何うしたならよいか。父とお身との板挟みじゃ。いや、武士の道と、恋との板挟みか――綱手、後悔すなと申したのは、ここのことじゃ。わしは、欲が深いと申すなよ。お身を、わしの味方として、恋も、功名も、得たいのじゃ。然し、こうなっては――」
 と、いった時
「月丸、出い」
 と、袋持が、呼んだ。
「女も――」
 二人は、すぐに立上った。

「困ったことが起きたのう、百城、困ったことが――袋持、暫く、遠慮せい。両人、もっと、前へ参れ」
 袋持は出た。二人は、敷居際から、少し前へ進んだ。
「別れぬか、何うじゃな。男も、女も、いろいろとおる。この邸だけでなく、広い世の中に、いっぱいおる。少し、居りすぎるくらいにおる。齢が若いと、すぐ、手近いところに、惚れるでのう。後前《あとさき》の見境もなく、一緒になってしまって、後で、後悔をする、もっとよい女が嫁に貰えたの、もっと、よい聟が――と。しかし、二人は、よう揃うておる。申分は無い。が、無いが、牧、お前は、牧仲太郎の子として、又、調所殿のあずかり子として、なかなか重任がある。女にべたべたしている身でもなければ、時でもない。尤も、袋持に聞くと、なかなか、苦肉の計であるらしいが、ミイラ取りが、ミイラに、いささか成った形では、少し、武士としても、意気地がなさすぎる。邸の表から申せば、お前は、国許へ戻すか、女は、親許へ下げて、まず、処置するところであるが、ただの家来ではないから、そういう処置もできぬ。処置はできぬが、噂が拡まる。一番、困るのは、拙者じゃ。中島兵太夫、以後、不義へは、睨みが利かなくなる。よいかな、このわしのことを、考えてくれ。又、父仲太郎殿の誠忠無比、一命を賭しての呪術を思い、又、己の行末のことを、思うたなら、ここは、一番、女と別れるのが、何よりの孝行、忠義じゃ」
 一気に、こういって兵太夫は、冷たい茶を飲んだ。
「女も同じことじゃ。孫兵衛の倅は、よい男じゃ。気前も、武士らしい。調所殿が、見込まれた聟じゃし、その親爺も、調所殿の相談対手にもなった大町人じゃ。申し分は無い。百城も可愛かろうが、浜村へ行くと、又、浜村が可愛うなる。去る者、日々た疎しと申して、若い娘は、すぐ血の道を上げるが、暫く我慢して、外の男と添うておりゃ、又、その男の肌がよくなるものじゃで――な、ここは、わしの顔を立て、月丸の武士を立てさせ、その方の身の上も固めると、三方、四方よいように、さらりと、別れるのじゃ。よいかな、もし、ここで、わしの申すことを聞かぬと、わしも、留守居として、殿へ申訳がないから、その方は、母親へ送り届けて、母親諸共、暫く、窮命じゃ。又、百城とて、片手落の捌きはできぬから、仲太郎の許へ戻して、処置をつけてもらわにゃならぬ。何うじゃな、牧」
「はっ」
「女は?」
「よく、判りましてござりまする」
「それでは、別れると、此後一切係り合い無しと、これで、誓紙を作るがよい。早く、承諾してくれて、落ちついた」
 兵太夫は、違い棚から、手文庫を下ろして来て、中から、紙を取出した。
「恐れながら――」
「何かの」
「暫時、両人にて、話しとうござりまするが、次の間を――」
「ははあ――それは、よいが、別れる決心は、したのであろうの」
「はっ」
「なら、少しは――よかろう。許す」
 二人は、平伏してから立上った。兵太夫は、紙を延して、膝脇へ置いた。そして、自分で、茶をついで、飲もうとしながら、じっと、二人の入った次の間を見た。そして、厳格な、留守居役の顔になって、暫く、耳を立てていた。

  憤死事件

 牧仲太郎は、寝不足の眼を血走らせて、誰も入れない一間で、魔天の像を描いていた。
 白い絹の上に描かれて行く魔天の線は、所々薄ぐろく、所々は紅であった。
 眉を立て、眼を怒らせ、口を張った魔天の形は、巧みではなかったが、人に迫る凄惨さを現していた。
 仲太郎の膝の右には、青磁色の鉢があった。その鉢の中に、淀んでいる赤黒い液体は、犬の血と、牛の血と、仲太郎の腕の血との混ったものであったし、魔天を描いている筆は、十三人の人間の生き毛と、八種の獣の毛とを合せて造った筆であった。牧は、その筆に、その血をつけて、一筆を下すたびに
「南無、大忿怒明王、法満天破法、十万の眷属《けんぞく》、八万の悪童子、今度の呪法に加護候え」
 と、呟いたり、口の中でいったりしていた。
(調所殿が、敵党の奸策にかかって、毒死なされた上は、是非もない)
 と、仲太郎は、決心したのであった。ただ一人、仲太郎の苦衷を知っている調所の死んだということは、仲太郎を落胆させると同時に、狂憤せしめた。
(是非もない――かかる上においては、恩師と雖も容赦すまい。調所殿を殺す人間に、本当の、人間の値打は判るまい。まして、謂わんや、怪奇にして神業の如き、この呪法の判ろう道理がない)
 牧は、ただ一人の、心からの信仰者にして、且、庇護者である調所を失ったことが、淋しくもあったし、情なくもあった。
(大殿、斉興公から、多少の加増があるくらいで、己の命をちぢめてまで、この呪法を拡めようとはしたくない。仮にも斉彬公の公子達《きんだち》を呪殺してまで、秘呪の威力を示そうとするのは、一つは、調所殿への知己に報いるためであり、二つには、御家のためであり、三つには、天下にこの法を拡めて、破邪に用いんがためであった。自分は、邪法の呪咀を行っているが、邪法は人を呪殺すると、己の命を三年ちぢめる。しかし、正法の呪法は、人を生かし、己をも生かす。それを知りつつ、恩師をも敵として、邪法を行っているのは、広く天下に、この秘呪の正統者を求めんがためであった。調所殿は、この心を知って、十分の言葉を下された。ただ一人の、その庇護者を失って――)
 と、思うと、牧は、絶望し、自棄した。
(何うにでもなれ。この上は、威力の程を見せて、調所殿の後を追ってくれる)
 牧は、黒い毛氈《もうせん》の上に坐ったまま、一筆一筆に、祈願と、命とをこめて、小さい大忿怒明王の像を描き終った。そして、暫く、それを眺めていたが、それを持って立上って、次の間の襖を開けた。
 次の間には、四人の弟子が、祭壇の周囲に坐って、牧が行にかかるのを待っていた。牧は、灰色の顔をして、弟子の叩頭に、答えもしないで、壇上へ手を延して、戒刀を取り上げた。
 今日の行の、ただならぬことを察している弟子達は、牧のすることに不安を感じながら、見守っていると
「今日の修法は一人でよい」
 と、静かにいった。そして、弟子達が立上るのに眼もくれず、戒刀を抜いて、左手に持った。そして、膝の前に、微かに、瞬いている燈へ、段木をつきつけて、火が燃え上ると、火炉の中に積み重ねてある木の下へ、差し込んだ。

 煙は、部屋の天井を這い廻っていた。異臭は、襖の外まで洩れていた。部屋の中は、薄暗くて、むせっぽかった。
 牧仲太郎の眼は、狂人の眼であった。何かを、宙に凝視めていたが、その一点を、じっと、睨んだまま、またたきもしなかった。その眼は、人間の眼でなく、悪魔のように、光った凄さを帯びていた。
 火炉の灰を塗りつけた額には、冷たい汗が、滲んでいたし、はだけた胸には、滴って流れていた。脣も、手も、膝も、がくがく顫えていて、時々、身体を浮かしては、立上りそうになった。
 右手の戒刀を、引っつかんで、時々、振上げかけては、脣を噛んで、膝の上へ当てたり、左手の画像を、抛げつけかけては、顫える手で引込めた。
 牧は、その凝視めているところに現出している、見えぬ敵と争っているのであった。飛びかかるように身体を突き出すかと思うと、打挫《うちくじ》かれたように、胸を、臂を引いて、その度に歯を剥き出した。
「否、否っ」
 大声で、次の間まで響く声で、叱咤すると、いきなり立った。そして、戒刀を振上げると、すぐ、崩れるように坐った。肩で呼吸をして、全身を顫わして
「邪中の正気、見られいっ」
 と、叫ぶと、火炉の中へ、堕ちかからんばかりに身体を延して、戒刀を突き出した。そして、顔を横に振りながら
「否、否、垂迹《すいじゃく》和光の月明らかに――」
 と、絶叫して、戒刀で上を指した。
「終末に及んで、分段同居の闇を照らす、これ、邪中の正」
 こう叫ぶと、身体を引いて
「十方充満の諸天、赦させ給え」
 そう叫んだ刹那、牧は
「南無、明王」
 人間の声とも思えぬ絶叫であった。部屋の中へ、爆弾の如く炸裂したかと思うと、左手に握っていた忿怒明王の画像を、火炉の中へ抛げつけた。
 画像は、炎々と燃え上っている段木の焔の上へ、落ちかかると、一煽り煽られた。そして、焔の上へ何者かの手で立たせられたように、さっと、突っ立った。火焔の明りに、照らし出された明王は、牧を睨んでいるようでもあるし、牧の祈願を聞き入れたようでもあった。その一刹那
「ええいっ」
 牧の手の戒刀が、画像へ閃くと、明王の頭から、真二つに切れて、倒れ落ちると共に、その裾から、燃え上ってしまった。
「成就」
 牧は、人間らしい眼に戻って、画像の焼けるのを眺めていたが、片手で礼拝した。そして、燃えつくしたのを見終ると、戒刀の尖で、親指の甲を切った。血が、噴き出してきた。牧は、それを、画像の灰の上へ、そそぎかけた。
 戒刀を下へ置いて、火炉の灰を疵口へつけて、三度、黙祷した。そして、立上ろうと、壇へ手をついたが、腰を浮かすと、よろめいた。首を垂れて、暫く、右手をついたまま、じっとしていたが、静かに、上げて来た眼に、微かに涙が光っていた。

 加治木玄白斎は、疲労と、風邪と、その熱とで、白い中に埋まって、臥っていた。静かな寝息、暗い行燈、何んの物音もしない部屋、部屋。その中で、急に、手を蒲団の外へ突き出すと、鋭い眼付をして
「市助」
 そう叫んだ瞬間、よろめきつつ、起き上っていた。
「はっ」
「用意っ」
 市助は、次の間から襖を開けて、膝をついて、蒲団の上で、危い足つきをしながら、帯をしめ直している玄白斎を見上げて
「修法の?」
「者共を、起せっ」
「はいっ」
 市助が、走って出た。玄白斎は、咳き入りながら、市助の開けておいた部屋へ入って、行燈の微かな明りだけの中を、手さぐりに、火炉の上へ登った。
 廊下に、けたたましい足音がして、三人の門人が入って来た。
「修法を――今から」
「牧を、折伏《しゃくぶく》致す。早く致せ」
 火炉の中の、焚木は、いつも用意されてあった。和田仁十郎が、祭壇へ黙祷して、その前に供えてある木切をとって、燧石から火をつけると、すぐ、火炉の乳木へ移した。
 玄白斎は、片手を、炉べりへついたまま、首垂《うなだ》れて、肩で呼吸をしていたが
「戒刀を――」
 と、微かに云った。市助が、片隅の暗いところから、金具の光るのを持って来て、差出した。
「和田、高木、よく見ておけ」
 玄白斎は、静かに、こう云うと、燃え上って来た火焔に、脂肪《あぶら》気の無い顔をさらしたが、すぐ眼を伏せて
「和田、高木」
「はっ」
「わしは、死ぬかもしれぬ」
 二人は、返事をしなかった。
「牧が、修法を致しておる」
「又、致されておりますか」
「わしを――呪殺しようと」
「先生を?――」
「旺《さか》んな気力じゃ。
前へ 次へ
全104ページ中52ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング