「右か、左か」
「さあ」
 綱手は、右を見たり、左を見たり、百城の脚を見たりして
「右でござりましたかしら」
「右と、左によって、懸り方がちがってくるが――」
 百城は、小太郎の太刀筋と、右の跛を引きながら、斬りかかって来るのに対して、何う外して、どこを攻めるかを考えていた。
「何を、お考え? 後悔なさいましたのでは、ござりませぬか」
「何が、後悔?」
「妾とのことを――」
「後悔か――」
 百城は、じっと、綱手を見た。そして
「綱手、如何なることがあろうと、後悔するな。人間の致す程のことに後悔するような悪はない。なしたいことをなす。それでよい。なしたいことに、悪はない。悪と感じても、押切れば救われる」
 綱手は、黙っていた。

「綱手と申す女は、その方か?」
 調所に代った新任の大阪の留守居役、中島兵太夫が、眼鏡越しに、綱手を見て、老人らしい、人のいい笑顔をした。そして、火鉢へ、片肱をついて、片手に、火箸をいじりながら
「昨日、堺町人の、浜村と申すのが、参っての――」
 綱手は、心臓を、握りつぶされたように感じた。いつか、調所のいった、浜村孫兵衛との縁談が、その場かぎりの話でなく、あんなに軽い戯談のような口振で、話しておきながら、もう、先方へ、通じてあったか、と思うと、自分の行末を案じてくれた調所の親切が、憎く、悲しくなって来た。
「調所殿より、お話のあった、お前との、縁談、如何でございましょうかと、浜村め、申して参った。わしは、来て早々、何も存ぜぬから、奥役に聞くと、確かに、使したと、申しておるが――存じてもおろう、調所殿の急死――大は、御当家を起したことから、小は、お前達の身の上までも、案じておられたえらい方じゃで、この志を無にしてはならぬし――それに、お前の母も、国へ戻って、お前一人では、淋しくもあろうし、と、申して、このわしが、慰めても、聞くまいし、あはははは、怒るな、美しい女を見ると、戯談の一つも、申したくなるものじゃ」
 綱手は、蒼くなって、俯向いていた。返事が、できなかった。兵太夫は、人の上に立つ者として、女中の身の上の始末などは、意のままになると
「それで、来月早々が、よかろう、と返事しておいたが、そのつもりをして、支度をするがよい。母も、聞いたら、喜ぶであろう。支度、その外、万端のことは、浜村と、わしとで取計らってとらせる。浜村の倅は、なかなか、おっとりとして、よい男じゃ。この辺の、隼人と、柄がちがう。心得たか」
 綱手は、頷いておくより外に、方法がなかった。
「嬉しいであろう、はははは、娘時分と申すものは、見ておって悪うない。国の女子にしては、珍しく美しいが、当屋敷の若い者の中では――のう、袋持」
 兵太夫は、こういって、片隅の机で、何か書物《かきもの》をしている、袋持へ、話しかけた。
「はい」
「牧の倅と、よい夫婦《めおと》だがのう」
「百城氏とで、ござりまするか」
 綱手の、身体中の、血管が、凍えて、止まってしまった。
(牧の倅――百城)
「女共が時々、噂しておるげじゃが、調所殿の、二世さんでもあったかな」
「いえ、決して左様な」
 袋持は、気の無さそうに答えて、机へ向った。
「牧の倅を存じておろう。百城月丸」
 綱手の、眼は異様に光って、脣が、顫えていた。
「百城様は――牧様とは、あの、牧――仲太郎様の――」
 兵太夫は、眉をしかめて、じっと綱手を見ていたが、
「何んとした」
 只事でない綱手の顔を、じっと見て
「如何したのじゃ。大層、顫えておるではないか」
 綱手は、蒼白になって、膝も、手も、口も顫わせていた。
「何処ぞ、悪いのかの」
 綱手は、黙って、首を振った。袋持が、振向いた。そして、じっと、綱手を睨みつけるような眼で眺めていた。

 綱手の頭には、熱い火が、狂い廻っていた。しかし、額は冷たくて、眼は、空虚《うつろ》であった。何を見ているのか判らなかったし、何処にいるのかも、判断できなかった。
(月丸様は、牧様の御息子――)
 そんなことが、世の中にあろうとは思えなかった。
(あのやさしい月丸様が、父を殺した敵の倅?――)
 月丸の言葉を、眼を、振舞を、いろいろに想い出してみたが、そんな月丸とは、思えなかった。
(※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]――何かの、間違いであろう)
 綱手は、真暗な、地獄の中に喘ぎながら
(ちがいます、ちがいます)
 と、絶叫した。その途端、その闇の、底の中に、毒紅のような火が、ちらとした。綱手は、恐怖と、脅えとに、眼を閉じたが、火の、炎々としているのは、よく見えていた。それは
(月丸様が、同志の名を聞いた――疑えば――妾を、欺して――)
 と、語っていた。綱手は、両手で、眼を閉じて
(そんなことはない)
 と、悲鳴を上げたが、毒の火は、冷笑するように、燃え上っていた。いつの間にか、赤裸にされて、地の底の闇の中に、悶えている自分の姿が、見えてきた。
「綱手殿、何とした」
 耳許で、袋持の声がした。
「はい」
 いつの間にか、自分でも、判らないうちに、綱手は、袖を、顔へ当てて、泣き伏していた。
「困った女だのう」
 と、いっている兵太夫の声が、聞えた。
「袋持、何か、訳があろうが、聞いてやるがよい」
「はっ――綱手殿、次へござれ」
 袋持が、肩へ、手をかけた。
「参ります――ふと、いろいろの事を、思い出しまして、御眼を汚し、申訳、ござりませぬ」
 綱手は、手をついた。
「何々、正気づけばよい。少し、血の道の気かの。はははは。嫁入すると癒る。心配致すな」
 綱手は、立上った。
(死ぬ外はない)
 と、思った。だが、すぐ
(一目、月丸様に、逢って――真偽を、ただして)
 綱手は、袋持の後方から、廊下へ出ると共に
(月丸様を殺して、死ぬ――いいや、あの方は殺せぬ、自分一人で――いいや、それよりも、あの方が、よし、牧様の、お息子であっても、そうでないと、仰しゃって下さったなら――いやいや、牧様のお息子であっても、あの方の恋は、偽りの恋ではない)
 綱手は、もがいた。真暗な中に、宙ぶらりになって、悶えていた。底には、醜悪な臭の火が燃えていた。
(あっ――)
 綱手は、全身で、悲鳴を上げた。
(後悔するな――後悔するな、と、仰しゃった言葉――このことであろう――このことでないかしら、いつかは知れる身の上だと、思うて――そうにちがいない。後悔するな。後悔するな――)
 綱手は、月丸の、その時の顔、言葉つきを思い出した。
「坐るがよい」
 綱手は、袋持の声に、はっとして、頭を下げて、つつましく、坐った。

「綱手――お身は」
 と、云って、袋持は、暫く、言葉を切った。綱手は、袋持など、何を云っても、何をしてもいいと思っていた。
(でも、月丸様は、自分の素性をかくして、妾の素性を知っていなさるのに――)
 と、思うと、叡山の夜が、月丸の深い巧計《たくらみ》から出たようにも思えた。然し、綱手は、自分で、それを、打消した。そして
(仮令《たとい》、そうであるにしても――妾には、月丸様が、憎めない。仇敵《かたき》とは、仇敵のお息子とは思えない)
 と、思った。
「飾るところなく、申せば――これは、某一存の推察でござるが、百城と、お身と、何か、お係り合いがござらぬか?」
 綱手は、考え込んでいたが、百城という名に、はっとして、心を澄ますと、係り合いがないか、と聞かれて
「係り合いとは?」
「さ、それは、いろいろとあって、申せることも申せないこともござるが――」
「さあ――」
「某の無礼を、お咎めなければ申そうが」
「いいえ、咎めるの、何んのと――」
「では――」
 と、いって、袋持は、じっと、綱手の眼の色を見ながら
「約束事でも、あるか、無いか――したか、せぬか」
 綱手は、一寸、胸を、轟《とどろ》かしたが、もう、袋持も、邸も、女中頭も、兵太夫も――それから、世の中さえ、怖ろしくはなかった。
(死ねばよい)
 と、決心していた。冷たい、微笑を見せて
「約束とは――」
「仮《たと》えば、夫婦《めおと》とか――」
 綱手は、明瞭とした声で
「致しました」
 袋持は、綱手の顔を、じっと凝視《みつ》めたまま、暫く黙っていた。
「真実?」
「はい」
「お身は、仙波の娘御。仙波殿は、牧を討つため斬死なされた方ではないか」
「はい」
「その娘御が、濫りに、男と契るでさえ、不孝、不義であるに、人もあろうに、父の仇敵の倅と、契って、それを、恥とは、心得ぬか」
 綱手は、それで、地獄のような呵責《かしゃく》を感じているのであった。十分に、それくらいのことは、承知していた。自分一人の呵責だけでさえ、その弱い心を引裂かんばかりであるのに、その判りきったことを、又、他の人から聞きたくなかった。頼もしい同志の一人である、と信じていた袋持が、憎くなってきたし
(この男も、月丸のように※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]をつくのかも知れない)
 と、思うと、世の中の、悉くの男が、呪わしくなってきた。綱手は、絶望的な反抗心に、燃え上った。
「心得ております」
「それで、何故に――」
「これも、運命《さだめ》で、ござりましょう」
「運命? 奇怪な――奇怪なことを申す。素性も、碌に判らぬうち、肌を許して、その不行跡を、恥じさえせず、運命?――不埓なっ、何を申す」
 袋持は、顔を赤くした。
「暫く待て、百城を、連れて参る。百城は、恥を心得ぬ奴ではあるまい」
 袋持は、口早に、鋭く、こういって、立上った。綱手は、眼を閉じた。
(お父様、冥途で、お詫び、申しまする)
 涙が、又、湧き上ってきた。

「百城――女は、契ったと申す。それが、真実か――聞きたい」
 袋持は、昂《たかぶ》って来る心を押えて、静かにいった。綱手は俯向いていた。月丸は、腕組して、眼を閉じていた。
「何うじゃ、百城」
 百城は、思いがけぬ詰問に、綱手が、何う答えたのか? 何故、こんなに早く、暴露したのか判らないので、黙っていた。
「貴公は、この娘の素性を、存じておろうな――又、己の素性も、存じておろうな。それでいて、契るなど――それでも、武士か」
 月丸は、眼を開いた。そして、袋持へ、冷やかな閃《ひらめ》きを与えて
「存じている」
「存じていて、何故、契った?」
「惚れた」
 綱手は、月丸の、情熱的な、何をも恐れないような強い言葉に、うれしさが、いっぱいになった。
「惚れた?――そうか――よく申した」
 袋持は、怒りに、拳を顫わせていた。
「この由、御留守居役に、申し上げる」
「うむ、処置は、いかようなりとも、受ける。覚悟は致しておる」
「よしっ」
 袋持は、立上って、足音荒く、出て行った。月丸は、すぐ
「惚れてもいる、綱手。然しながら、欺いてもおる。と、申す訳は――」
「お察し、申しておりまする」
 綱手は、月丸のいおうとすることが、何んであるか、判っていた。それを、月丸にいわせて、月丸を苦しめたくなかった。月丸が
「惚れていたから」
 と、いった言葉で、総て十分であった。仇敵の倅に、肌を許した自分の罪は、死にさえすればよかった。そして、自分が死ぬ以上、月丸を、苦しめたくはなかった。
「察しているとは?」
「父上の同志のことなど、お聞きなされましたこと――」
 綱手は、紅い莟《つぼみ》のように、ふくらんでいる眼瞼から、愛と、情熱とを込めて、月丸を見た。
「判っておったのか」
「いいえ、あの時は、少しも――只今、判りましてござりまする」
「恨むであろう」
「いいえ」
「憎くはないか」
「少しも――」
「欺くつもりでもあった。欺いても、武士の道には、外れぬ。一つの便法――とも思ったが、既に、その時、心底から、そなたの素直さに惚れておった。この素直な娘を、かく欺いてまで、武士の意地を立てねばならぬかと、わしも、苦しんだ。あの山の夜――大殿のために一手柄を立て、かねて、契りもしようと、二股をかけたが――いつかは、知れること、と思うと、打明けようか、明けまいか。もし、打明けて、別れることになったなら、と、それが、案じられて、
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